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『AIでいい』と言われたので、本当に何もしなくなったら職場が壊れた  作者: そらのことのは


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12/12

第12話 その職場には、空気があった

六月の第一週。


水瀬湊は、新しい職場のフロアに立っていた。


業務推進部。


各部署の連携調整と、業務フローの改善を専門とする部署。


始業前のオフィスは、静かだった。


誰かが大きな声で笑うわけでもなく、沈黙に支配されているわけでもない。


コーヒーを飲む音と、キーボードを叩く音が、穏やかに混じり合っている。


「おはようございます」


隣の席の男性が声をかけてきた。


「森です。業務推進二課の」


「水瀬です。よろしくお願いします」


「前の部署、営業と一緒だったって聞きました。忙しかったでしょう」


「それなりには」


「うちは、自分の範囲をきっちり決める人が多いんで。困ったことがあったら、最初に言ってくださいね」


森が軽く笑った。


「最初に言わないと、誰も気づかないので」


湊は少しだけ安心した。


自分の範囲をきっちり決める。


それは、不安ではなかった。



午前中。


湊は新しい業務を覚えながら、フロアの空気を観察していた。


誰かが電話で少し困った顔をすると、近くの人が「それ、こうすると楽ですよ」とさりげなく助ける。


会議室から険しい顔で出てきた人に、「どうでした?」「思ったより荒れなくてよかったです」と軽い声がかかる。


コピー機の前で紙詰まりが起きると、通りがかりの人が「上のレバー引けば取れますよ」と手を貸す。


ほんの小さなやり取り。


でもそれぞれが、自分の範囲内で空気に手を入れている。


誰か一人が全部を背負っている感じはしない。


「ここにも、誰かがいる」


湊はそう思った。


空気の調整役。


でも一人ではない。


分散している。


そして何より、誰も、それを特別だとは思っていない。



昼休み。


「水瀬さん、よかったら一緒にどうですか」


森に誘われて、湊は休憩スペースに向かった。


三人ほどが集まっている。


「前の部署での調整業務、大変だったでしょう」


一人が言った。


「ここでは、そういう仕事を『調整してほしい』って頼まれるのが普通なので」


「業務として、ちゃんと評価されます」


森が付け加えた。


湊は手元のコーヒーを見た。


「調整」が、最初から仕事として扱われる場所。


もしここで空気に手を入れることがあれば、それは「出過ぎた真似」ではなく、「業務」として評価される。


その前提だけで、呼吸が楽になった。



同じ頃。


佐伯由奴は、重い空気の立ち込める旧職場にいた。


湊が残していった引き継ぎ資料を整理していると、一つだけタイトルのないファイルがあった。


開いてみると、箇条書きのメモが表示された。


「会議前日に、議題の論点を整理しておくこと」


「他部署への依頼は、担当者の業務状況を確認してから行うこと」


「ひかりさんの発言は、フォローが必要な場合があること」


「陽菜さんの提案書は、先方の立場に立った視点を補足すること」


由奈は画面を見つめた。


これは、引き継ぎ資料じゃない。


湊が毎日やっていたことのリストだ。


誰にも見せるつもりがなかった、自分だけのメモ。


それが、ファイルの中に紛れ込んでいた。


意図的なのか、偶然なのか、わからない。


でも、このメモを読んで、由奈はようやく全体像を理解した。


彼がやっていたことは、「気遣い」じゃない。


体系化された、見えない業務だった。



午後。


田中部長への報告で、また空気が止まった。


「この数字、先月より落ちてるじゃないか」


部長が資料を叩く。


朝倉陽菜が説明しようとするが、言葉が上滑りしている。


「対策を聞いてるんだ」


「それは、現在検討中で」


部長の声が大きくなる。


陽菜が口をつぐむ。


中島ひかりは縮こまり、高梨恒一は黙って資料を見ている。


誰も、助け舟を出さない。


出せないのだ。


湊がどれだけ絶妙なタイミングで間に入っていたか。


いなくなって初めて、その難しさがわかった。


「あの」


由奈は、自分でも驚くほど自然に口を開いていた。


「競合の動きについては、高梨さんがまとめてくださったデータがあります。それをベースに、明日までに対策案を作成します」


部長の視線が由奈に向く。


「明日までに、できるのか」


「はい。やります」


会議室の空気が、少しだけ緩んだ。



夕方。


由奈は自分のデスクで、手元のメモ帳を開いた。


この一ヶ月間、職場の違和感を書き留めていたもの。


「話題が滑る」


「会話が着地しない」


「誰かが、調整していた」


そして最後のページ。


「その人は、水瀬湊」


由奈はペンを取り、その下に最後の一行を書いた。


「空気は、誰かが作っていた」



同じ時間。


新しい職場で、湊は定時になった。


「お疲れ様でした」


「お疲れ様です」


自然に交わされる言葉。


湊はパソコンをシャットダウンして、荷物をまとめた。


「水瀬さん、初日どうでしたか」


部長が声をかけてきた。


「思ったより、やることが明確で」


「そうでしょう。うちは、見えない仕事を見える化することが仕事ですから」


「はい」


「ここでは、そういう仕事をちゃんと評価します」


湊は、その言葉を静かに受け取った。


エレベーターを待ちながら、今日一日を振り返った。


新しい職場の、自然な会話。


森のさりげない気遣い。


「正当に評価する」という言葉。


全部が、前の職場とは違った。



夜。


由奈は帰り道で、今日のことを考えていた。


会議で部長と陽菜の間に入った時の、あの疲労感。


たった一度、間に入って空気を調整しただけで、どっと疲れた。


これを、湊は毎日やっていたのだ。


職場の空気は、読むものだと思っていた。


でも、違った。


誰かが手を入れなければ、回らないものだった。


由奈は振り返った。


オフィスビルの明かりが、夜空に浮かんでいる。


由奈はゆっくりと歩き出した。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


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