第12話 その職場には、空気があった
六月の第一週。
水瀬湊は、新しい職場のフロアに立っていた。
業務推進部。
各部署の連携調整と、業務フローの改善を専門とする部署。
始業前のオフィスは、静かだった。
誰かが大きな声で笑うわけでもなく、沈黙に支配されているわけでもない。
コーヒーを飲む音と、キーボードを叩く音が、穏やかに混じり合っている。
「おはようございます」
隣の席の男性が声をかけてきた。
「森です。業務推進二課の」
「水瀬です。よろしくお願いします」
「前の部署、営業と一緒だったって聞きました。忙しかったでしょう」
「それなりには」
「うちは、自分の範囲をきっちり決める人が多いんで。困ったことがあったら、最初に言ってくださいね」
森が軽く笑った。
「最初に言わないと、誰も気づかないので」
湊は少しだけ安心した。
自分の範囲をきっちり決める。
それは、不安ではなかった。
◇
午前中。
湊は新しい業務を覚えながら、フロアの空気を観察していた。
誰かが電話で少し困った顔をすると、近くの人が「それ、こうすると楽ですよ」とさりげなく助ける。
会議室から険しい顔で出てきた人に、「どうでした?」「思ったより荒れなくてよかったです」と軽い声がかかる。
コピー機の前で紙詰まりが起きると、通りがかりの人が「上のレバー引けば取れますよ」と手を貸す。
ほんの小さなやり取り。
でもそれぞれが、自分の範囲内で空気に手を入れている。
誰か一人が全部を背負っている感じはしない。
「ここにも、誰かがいる」
湊はそう思った。
空気の調整役。
でも一人ではない。
分散している。
そして何より、誰も、それを特別だとは思っていない。
◇
昼休み。
「水瀬さん、よかったら一緒にどうですか」
森に誘われて、湊は休憩スペースに向かった。
三人ほどが集まっている。
「前の部署での調整業務、大変だったでしょう」
一人が言った。
「ここでは、そういう仕事を『調整してほしい』って頼まれるのが普通なので」
「業務として、ちゃんと評価されます」
森が付け加えた。
湊は手元のコーヒーを見た。
「調整」が、最初から仕事として扱われる場所。
もしここで空気に手を入れることがあれば、それは「出過ぎた真似」ではなく、「業務」として評価される。
その前提だけで、呼吸が楽になった。
◇
同じ頃。
佐伯由奴は、重い空気の立ち込める旧職場にいた。
湊が残していった引き継ぎ資料を整理していると、一つだけタイトルのないファイルがあった。
開いてみると、箇条書きのメモが表示された。
「会議前日に、議題の論点を整理しておくこと」
「他部署への依頼は、担当者の業務状況を確認してから行うこと」
「ひかりさんの発言は、フォローが必要な場合があること」
「陽菜さんの提案書は、先方の立場に立った視点を補足すること」
由奈は画面を見つめた。
これは、引き継ぎ資料じゃない。
湊が毎日やっていたことのリストだ。
誰にも見せるつもりがなかった、自分だけのメモ。
それが、ファイルの中に紛れ込んでいた。
意図的なのか、偶然なのか、わからない。
でも、このメモを読んで、由奈はようやく全体像を理解した。
彼がやっていたことは、「気遣い」じゃない。
体系化された、見えない業務だった。
◇
午後。
田中部長への報告で、また空気が止まった。
「この数字、先月より落ちてるじゃないか」
部長が資料を叩く。
朝倉陽菜が説明しようとするが、言葉が上滑りしている。
「対策を聞いてるんだ」
「それは、現在検討中で」
部長の声が大きくなる。
陽菜が口をつぐむ。
中島ひかりは縮こまり、高梨恒一は黙って資料を見ている。
誰も、助け舟を出さない。
出せないのだ。
湊がどれだけ絶妙なタイミングで間に入っていたか。
いなくなって初めて、その難しさがわかった。
「あの」
由奈は、自分でも驚くほど自然に口を開いていた。
「競合の動きについては、高梨さんがまとめてくださったデータがあります。それをベースに、明日までに対策案を作成します」
部長の視線が由奈に向く。
「明日までに、できるのか」
「はい。やります」
会議室の空気が、少しだけ緩んだ。
◇
夕方。
由奈は自分のデスクで、手元のメモ帳を開いた。
この一ヶ月間、職場の違和感を書き留めていたもの。
「話題が滑る」
「会話が着地しない」
「誰かが、調整していた」
そして最後のページ。
「その人は、水瀬湊」
由奈はペンを取り、その下に最後の一行を書いた。
「空気は、誰かが作っていた」
◇
同じ時間。
新しい職場で、湊は定時になった。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
自然に交わされる言葉。
湊はパソコンをシャットダウンして、荷物をまとめた。
「水瀬さん、初日どうでしたか」
部長が声をかけてきた。
「思ったより、やることが明確で」
「そうでしょう。うちは、見えない仕事を見える化することが仕事ですから」
「はい」
「ここでは、そういう仕事をちゃんと評価します」
湊は、その言葉を静かに受け取った。
エレベーターを待ちながら、今日一日を振り返った。
新しい職場の、自然な会話。
森のさりげない気遣い。
「正当に評価する」という言葉。
全部が、前の職場とは違った。
◇
夜。
由奈は帰り道で、今日のことを考えていた。
会議で部長と陽菜の間に入った時の、あの疲労感。
たった一度、間に入って空気を調整しただけで、どっと疲れた。
これを、湊は毎日やっていたのだ。
職場の空気は、読むものだと思っていた。
でも、違った。
誰かが手を入れなければ、回らないものだった。
由奈は振り返った。
オフィスビルの明かりが、夜空に浮かんでいる。
由奈はゆっくりと歩き出した。
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