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第三章

 娘の小説は、そこで途切れていた。


 ノートの左側のページ、あと十行は残っているのに、そこで終わりだった。香苗は開いたままのノートに両手を添えたまま、視線をさ迷わせる。


 胸の底はじわじわと締め付けられて熱かったけれどそれを無視している。


 香苗にはっきりと分かるのは、この小説に描かれた世界は、自分が今まで出会ったものの中で一番美しくて心地よい、ということだった。





 頭が痛い。


 そう言っても、ほとんどの人には私の言うことが伝わらない。


 ずっと前から、誰に何を言っても本当に伝えたいことが伝わらない。


 でも、今もまた、自室の机の前に座って深夜、ノートの上に文字を書こうとしている。机の上に降り注ぐ鮮烈な蛍光灯。まだページをめくり続ける手の影は、なるべく紙にかぶさらないように、ゆっくり動いていた。



 保健室の先生にはいつも、


「腹痛がひどくって」


 と、呟いている。


 先生は呆れたような顔をする。私以外の生徒は保健室にはめったに来ないのだ。


「顔色が悪いし、本当に体調が悪そうだね」


 そう言われると、心臓が口から飛び出そうになる。


「ベッドで寝て。あと、早退するかしないか、一時間後に聞くわね」


 ベッドに横たわりながら、私はしばしば自分の感覚を研ぎ澄ます。


 酸欠で、頭の中は空っぽで真っ白だ。


 筋肉に空気が巡らないから動きはのろく、呼吸をすれば体に必要な酸素が足りなくなっていく。しまいには意識が遠のく。その内くっきりとした視界が真ん中から、電流のような何かに中てられる。一瞬虹色の線が入ったかと思うとひび割れてしまう。すぐのちに全身の神経がビリビリして痛む。


 それが頭痛だ。つまり、周囲の状況は鮮明に感じ取れるまま、自分の肉体だけが脱力している。教室に満たされた重たい水を掻き分けていくうちに、私の存在は、透明な幽霊に置き換わってゆくのだ。みんなにはどうせ分からない。


 まあしかしそんなひどい頭痛が起こるのは大抵、そうなる前に私が風邪薬を幾錠も飲んでいるからなのだけど。



 こんなこと、普通の人はやっちゃいけない。苦しいだけだし、製薬会社さんやらにも失礼だろうから。


 高校二年生、秋。最近のルーティーン……遅刻寸前の時間に駅に着き、駅前の人けない薬局で一人風邪薬を買い、朝のショートホームルーム中にそれを飲む、最悪のルーティーン。ハッシュタグを付けてSNSに書き込んだらどんな反応があるのか、少し興味がある。SNSなんてライン以外やったことないけど、たぶん。


 席に着いたばかりの私はハンカチで汗を拭きつつ息切れしている。


 一番壁際の、前から三番目が私の席。クラスメイトに囲まれながら薬を飲んでいるわけだけれど、みんな気づかない。みんなは狭い教室にひしめき合った机の上、めいめい朝の勉強をしている。部活の朝練から帰ったボート部の子も、私の斜め前で英語の教科書を開いている。辞書を引きながら全文を和訳しノートに記す。隣に座る眼鏡の女子も、チャイムが鳴り終わるまで時間を無駄にしないようにとシャーペンを動かしている。睡眠不足からか、頬にニキビができていた。


 後ろの子がルーズリーフのフォルダーのリングを開ける。軽くて硬いプラスチックのリングが驚いたように揺れ、夜空にたっぷり浸かる星屑が砕け散ってゆく音がした。集中している子の、シャーペンが机を叩く音は朝陽で膨らみ、澄んでいる。集中していない子は周囲の子を脅すため、紙の上に芯を殴りつける。


 私はみんなの邪魔をしないようにしなくては、と瓶の周りのビニールをぴりぴり剝がす。真珠の皮を剥くように、ていねいに。手の平で瓶をひっくり返せば、黄色くひんやりとした飴玉が積もった。目が回り、微かな吐き気。しかし私の頭はもう駄目になっている。飴たちを飲み込むと、胃の底から連々と鈴の音が立ちあがる。薬は皆、私の意識を奪ってくれる。私を靄で包んで沈黙させてくれる。


 でも、寝てるときにも続くこの頭痛だけは、どうしようもない。頭痛はむしろ、薬を飲むと悪化する。



 ――そうだ、今日は頭痛にしよう。やっとそう決めた私はシャーペンの先を紙の上に置いた。黒鉛を紙になすりつけて、こんなふうに書く。


『いじわるな頭痛!


 あっという間に、耳の奥へザラザラ砂が注ぎ込まれる。胃のあたりに乾いた異物感が匂って、吐きそう。


 こんなのでは何も考えられないから、この苦痛から脱出するための方法がわからない。リビングの隅で一人うずくまった。何かに見つからないように。』


 私は自室の机の前に座っていた。白色の木の板に、卓上ライトの熱いオレンジが染み渡る。シンプルなデザインの卓上時計は零時より六分前を指していた。換気扇の回る音、十一階の窓の向こうで風の音。


 こんな時間まで何もせず、ただ机の前に座り続けてしまうことがよくある。睡眠薬は食後に飲んだけど、結局そのときの自分の神経の状態により眠くなるか眠くならないかが決まる。


 なんとなく振り向くと、壁とドアの隙間が真っ黒だった。


 お母さんはもう寝ている。フルタイムで働いて夜ごはんを作り、五時に起きて朝ごはんとお弁当も作ってくれる。私はよく、そのお弁当を学校のトイレで吐いてしまう。おいしいのに。私の神経が摩耗し過ぎている。もっと体力をつけなければ。本当にごめんなさい。明日も学校があるはずなのに、なんで私は予習に一つも手を付けていないんだろう。


 しかしお母さんにも、伝わらない。綺麗な言葉を使って想像のしやすい、常識範囲内の言葉にしないと。そうしてやっと、私は発言権を得る。


 また書いてみる。爪が手の平の肉に食い込んでいる。


『怖い。悲しい。悔しい。そんなふうに言葉を書き連ねたとて、誰も気づいてくれないのに。


 なんで私はいつも一人になるんだろう。また無限の闇に沈められ、決して手の届かないところへ進むことはできなかった。』


 不幸な少女、どうにもならなくて苦しんでいる哀れな少女。


 違う。


 怖くも悲しくも、悔しくもない。私にはそんな感情はない。常に意識が遠ざかりそうな状態で感じることは、何も無い。


 違う。本当は感じるのが怖くて、今にも気絶しそうだ。でもどうせ誰もわかってくれない。分かりやすく劇的な言葉にしないと却下される。


 空っぽで、それでいてぐちゃぐちゃな体の中でいつも反響しているのは死の気配。私はなぜか、死に魅かれる。死後の世界には、暗くて冷たい、私が還るべき場所があると――両親さえも異星人だと思いこんでいた、生まれたばかりのころからそう感じていた。でもどうしていいか分からず、私はいつも薄い繭に体をくるんで目をつむる。


 私は読書感想文とか学校の小説コンテストとかに選ばれるような人間ではなかった。選ばれた子を見た私は、自分の今までを全て否定された気がした。体育館で小学生向けの小説コンクールの授賞式を見ているとき、しょうもないけど、私は震えが止まらなかった。


 選ばれたのは同じクラスの子。その子は太陽みたいな笑顔で自分の欲しいものと幸運をどんどん掴んでいく。その子はすでに幸せな人生行きのレールカートに乗り、無意識だろうけど、その席の予約の仕方を、絶対に他人に教えなかった。けれど、彼女の心の底からは興奮と高揚の、楽しそうな気配がした。ずっと夏休みを背負っているみたいだった。


「紗月ちゃん、どうしたの?」


 私は帰りの会が終わったあと、数人ほど残った教室でランドセルも背負わず自分の席でぐずぐずしていた。


愛菜まなちゃんは、選ばれてすごかったね」


 私は五回も落ちた。これ以上挑戦する気力は無かった。


 愛菜ちゃんは大きな黒目をくりくり光らせた。それから薄暗いものを全部吹き飛ばす快活さが溢れた。


「いーじゃん。愛菜より紗月ちゃんのほうがすごいよ。だってあんなに頭いいんだもん。それに紗月ちゃんの小説はすごく面白かったよ!」


 私はうつむく。


「……ありがとう」


 周りを幸せにしてくれる。


 私はその子の健気さに涙が出てきたのだ。切なく純粋で陶酔して、幸せからくる涙だ。小学生の私はどうしようもなかった。それでも、私は負けたのだ。


 そのあとしばらく女子トイレの個室から出られなかった。汗で湿った便器の上、生臭いトイレットペーパーで何度も鼻をかんだ。授賞式のあとは放課だったからよかった。小学五年生での一学期、最後の日だった。



 愛菜ちゃんといえば、私は昔こんな文章を書いた。


『耳のあたりがガンガンして怖い。怖いけどもっと飲みたい。怖いけど楽しい、お腹がぐるぐるしてきた。皆は、いや誰も助けてくれない。誰も助けてくれない。死にたい。もう全部どうでもいい。死なせてほしい。楽に死にたい。お母さん、ごめんなさい。まじで人生失敗してる。』


 この文章は確か、あの小説コンクールで選ばれた愛菜ちゃんの文章を真似て書いてみた文章だった。今年の七月、授業中に。


 激情的で同情を誘うような言葉っていうのが、ポイントなんだよね? 


 私はこの前、これを心療内科の医者に見せた。この文も含めて、普段の体調の記録と悩んでいることを一枚の紙にまとめた。


 暖房のよく効いた診察室。木でできた丸椅子が一脚とふかふかの椅子が一つある。医師はいつもふかふかのほうの背もたれに小さな体を沈ませている。眼鏡をかけた男性医師だ。


「へぇ。頑張ったね」


 冷めた瞳でその紙をちらりと見、すぐに私に戻してきた。


「薬はいつもので大丈夫だね」


 医師はカタカタとキーボードを叩いていく。


「あ、でも」


 と、私は顔を上げた。頭がぼうっとして丸椅子から落ちそうだった。


「最近、学校に行くたび、薬を二十錠ほど飲んでしまうんです」


 弱々しく、髪を前に垂らして顔まわりを暗くした。医師の顔は見えない。


「それはやめたほうがいいかもね」


 と、彼はさらりと言った。


「そうですよね、すいません」


 家のテーブルに余った処方薬が山積みになっているのを思い出した。もうどこから手を付けたらいいのか分からなかった。


 薬局でいつもの処方薬が一つ足りないことに気づき、薬剤師さんに尋ねたら「先生に聞いてみますね」と言われた。医師は失念していたらしい。あれ、この薬出してたっけ。カタカタ。あ、出してた。


「僕ね、一人で二百人くらい診てるから忙しいの」


 と、医師に言われたことがある。


 修学旅行関連のプリントで学校に提出するものに『注意事項:心療内科通院あり。 詳細:思春期特有の自我障害。』と書いてあったのも記憶に新しい。私はうつ病でも統合失調症でもないから、ほったらかしなんですよね。私にはまだまだ耐えてほしいということ。他の人に比べたらマシなんですよね。


 死にたい、と口に出してみる。


 意識が遠のきかける。意志を保たないと。このまま後ろに倒れて後頭部が傾いたら、喉が伸びる。すると肩こりが悪化してしまう。痙攣する肺に冷たい空気を送った。


 目線をノートに戻して、ゆっくりページをめくる。高校生の私が書いた言葉ばかり。誤魔化すことを覚えた人間の薄っぺらな言葉が延々と並び、うんざりする。机の引き出しの中から別のノートを取り出す。いつものメーカーのA4で、表紙は緑色。紙の束の間に人差し指を差し込むとするん、と開いて両端の紙が重力に従って下がる。紙が湿っていて柔らかい。


『外からみんなの遊ぶ声が聞こえる。目の前が黒く、シャープになった。なんでいつも私を誘ってくれないのだろう。私、みんなに好かれるようにがんばったのに。』


 中学一年生の私が書いた文章。


 ……なんでいつも私を誘ってくれないのだろう。


 それも語弊がある。しかし、この文章が一番、みんなに自分の気持ちを伝えられている。水面を少量、素早く掬っている。これが限界。これ以上他人に届くことは無いし、今より純粋な幼い私が戻ってくることもない。あとは時が過ぎて私の中身がどんどん風化し、消えていくのみ。最後には曖昧な悲しみだけを抱えた幽霊が残る。ただ死を待つだけの幽霊。


 そんなのは。


 そんなのは、耐えられない。不名誉だ。なぜなら時間の無駄だから。せっかくこの世に産み落としてもらったのに、自分の幸福を追求しないなんて胸が痛む。申し訳ないのだ。私は幸せにならなければいけない。でもこのままここにいても情けない終焉を迎えることしかできない。それは物理的にそうなのだ、と私は直感する。こんなことをしている暇はない。本当は、もっと楽しく、機嫌よく過ごして。みんなを笑顔にしたい。


 でも、綺麗な文章を書くと、頭痛が悪化するんだよな。




 白い空間。


 ふいに、そのことで頭がいっぱいになる。


 私は、死後の世界じゃなくて、白い空間に行きたいんだ。


 たびたび、そこへ帰りたいと思っていた。忘れた頃にちらつく、原初風景の記憶。ここはなんだろう。うまく輪郭を掴めない。でも、白い。温度も無く光度も無く、質量も、時間の流れも無い、気持ちのよい場所。


 ――それは跡形もなく、すぐに消えた。またいつもの絶望が押し寄せてきて、ノートをめくり続ける。昔の私が書いた未熟な言葉。私の言葉はだんだん妄言に変わってゆく。終わりがない。もうすぐ窓の外が明るくなると、カーテンが揺れている気がする。


 そのときだ。私は緑色のノートの中に、手書きの小説を見つけた。


 昔書いた文。いや、中一の春休みに書いたことを思い出した。穏やかな春休みで、お母さんはいつも通り仕事に出ていて、私ひとり家に居た。小説の中に広がる青空が、その日の春の青空と同じだった。


「こんなの、書いたっけ」





 ふと香苗は気づいた。手書きの小説の、最後のページ。紙の余った部分に鉛筆の跡が透けている。ぺらりと捲った。



『あとがき、らしきもの。



 お母さんへ。


 先にいなくなってごめんなさい。でもそれは、絶対にあなたのせいじゃありません。私が勝手に決めたんです。


 私はお母さんが大好きです。色んなことがあったけど、でも、こんな私を最後まで支えてくれたのはあなただけでした。学校でどんなにひとりぼっちでも家に帰れば、お母さんがいつもおいしい夜ごはんを作って一緒に食べてくれた。日曜日なら、お母さんは次の日も仕事なのに、私を映画や大きな公園に連れて行ってくれた。思い出すのは、光に包まれた風景ばかりです。


 でも家の外はなぜか、日に日に苦しくなってきました。どうすればいいんだろうとたくさん悩みました。そのうちに読書量が増えていって、私は文章を書く人になろうと決めます。外で作った傷が、家の中でも痛むんです。傷が海水を飲んだみたいに。お母さんからどんどん離れていく私は背水の陣の心持で文章を書いては誰かに見せようと試み、結局誰にも、見向きもされませんでした。


 ある日、私の目の前に知らない光景が広がりました。


 まるで自分の魂が宇宙の中心と繋がったかのような快感が、私の身体の中を突き抜けました。私にはもったいないほどの幸福。それは、幼いころのおぼろげな風景よりも強烈な輝きで、私は生まれて初めて自分の心が自然に満たされるのを感じました。


 これを書こう。私の手は勝手に動いて、ノートにその光景をそのまま書きだしました。誰かに読まれたいとか、もうそんなことは頭をよぎりません。毎日があっという間に過ぎてゆく、今までで一番楽しい日々でした。


 そうしてノートが文字で溢れていくごとに気づきました。それは不思議なことでした。私が求めれば求めるほど、その美しいものから正しいことが欠けていっていたのです。少し冷静になった私の頭は、これは狂っている、と言い出したんです。そして、私にとって苦しい現実世界こそが正しいとも。現実こそ本来人間が目指すべきものなのだと。


 しかし何故か私の魂は壊れていくほうに引き寄せられていく。書き終わるころには、私は笑っていました。これこそ私の生き方だと分かりました。このノートに広がる文字の向こうが、どうやら私にとっての幸せだったようです。



 そしてお母さん。あなたがもしここまでの文章を読んでくれたのなら、一つお聞きしたいことがあります。


「   」?


 私はお母さんが心の底から大好きです。  紗月より』



 いつの間にか、我慢していた涙が零れた。


 香苗は全てを忘れて、強烈な過去の記憶に吸い込まれていた。ノートの上の文字が視界に焼き付いたまま、服の袖で目元を拭き、鼻をすする。


 視界の右端に浮かぶ汚れが青白い。もうすぐ朝だ。レースカーテンを開けっぱなしにしていたから外の光が漏れたんだ。香苗は慌ててソファから手を伸ばしてすべてを閉ざす。


 全てのことを突き放して心の底から繋がらないようにしていたのに。


 今になって娘の存在が必然的なほどに絡みついてくる。そして、自分の幼い頃の記憶が渦を巻きながら潤いを取り戻していく。


 ごめんね。


 そんなことしか言葉に出来ず、震える指で触れたノートは素直に閉じた。



*



 香苗は人けのないコンクリートの坂を下っていた。隣に伸びるひび割れた道路にも一台も車が無い。


 ざらついた地面の感触や、幼いころ家族で訪れたカリフォルニアの気配を感じる眩い空に彼女は頭痛のするような居心地の悪さを覚えた。しかし歩みは止まらない。視界の端で木々が黙っている。香苗は遠くで滲む海岸に目を細めた。


 ――あそこの娘さん、本当にどうしたのかしら。

 ――うーん、不登校じゃない?

 ――違いますよ。……亡くなったんですって。

 ――ええ! そうなの?


 マンションの中庭でいつか聞いてしまった、奥様達の会話。でも別に、香苗は彼女たちを恨んでいるわけではない。彼らはただこちら側の人間を端から理解できないだけなのだ、と思った。



 その日は春だというのに正午には二十八度に達した。


 ひとりエレベーターに乗って十一階のボタンを押す。重い玄関扉の前に立つと、香苗は意識が持っていかれそうになった。空から放射された夕方の毒々しい電磁波が、まだ頭に残っている。それを振り払うように、彼女は自らの筋肉を稼働させた。


 部屋を満たす、全身に染みる無音の闇。もうすっかり夜だ。玄関の前の廊下の途中にあるトイレにまず入る。それから洗面台に行き、石鹸で手をごしごし洗い汗の滲む顔にも、化粧の上から水をかけた。


 ぱちん、とリビングの明かりを点ける。


「ああああ……」


 喉の肉に神経やら血液やらを行き渡らしながら、ソファに倒れこむ。


 しばらくして、香苗はスーツを脱ぎ始め、下着姿のままふらふらと脱衣所へ向かった。脱力した腕の、遠心力やらを利用した不安定な動きで、あっという間に洗濯機のセットと風呂を済ませる。長い黒髪がドライヤーの熱風によって縦横無尽になぶられた。


 やっとソファに辿り着いた彼女は、背もたれに後頭部をひっかけてぼうっとした。今日は金曜日だ。こんなとき、普通の人はお酒を飲んだり煙草を吸ったりするのかな。しかし彼女は酒の匂いが苦手だった。吐瀉物の匂いを思い出して吐き気がするのだ。吐きたくないのに。それに煙草は一度吸ってみたことがあったが息が苦しくなってパニックを起こしたので、今は怖い。


 冷蔵庫にあるのは冷凍ごはんと豆腐、もやし。豆腐に醤油をかけて食べるか。あと二十分くらいしたら、動くよ、うん。そう決意しても、大抵達成されないけど。


 このまま気持ちよく寝れたらな、と香苗は思う。もちろん眠いのだ。しかし眠ると悪夢を見る。


 夢の中はいつも夏の夜。あたりは真っ暗で蒸し暑く、マンションの傍の道路にいることは分かる。でも、それだけだ。ざらざらしたコンクリートの感触を頼りに歩を進める。


 ――あんた、こっちに来なさい。


 自分の母の呼ぶ声。香苗の心臓は健康に悪そうにドクドク打って、肌から冷汗が滲み出る。


 ――お母さん、見て、見て! こっちに来て!


 幼い娘が呼ぶ声。夏祭りにでも向かっているのだろうか。分からない。香苗には、彼らがどこにいるのか分からないのだ。ここから出たい。でも、暗闇しか見えない。上を向いたら、遠くに透き通った夜空と淡い星が見えた。待って二人とも。置いていかないで。そして香苗は直感するのだ。私はこの夢から出られない。鈍く頭が痛んだ。


 歯ぎしりをする。目をこじ開けた。目の前にはリビングの地味な色。気を抜くと夢に引きずりこまれそうになる。だから彼女は眠りたくないのだ。




 ――家族が亡くなったので、しばらく休ませていただきます。

 同僚たちは男女比が七対三くらいで、年齢は色々。でもみんな、賢くて物事をよく分かっている人たちだ。大丈夫だよ、気にしないで休んでね。私の担当していたデータ分析も隣の席のベテラン職員が素早く終わらせてくれた。私は情けない気分だったけども、純粋に感動した。学歴で差別してくるなんてこと、実際には、まともな人はほとんどしない。


 ……と、言い聞かせても自分の頭の中から消えないものはある。


「ねー、娘さんは? 最近見かけないのよ」


 自宅マンションのエレベーターで乗り合わせてしまい、知り合いの奥様に話しかけられることがある。彼らの顔も声も私の脳には鮮明に伝わってくる。でも、私は急に酸欠みたいになって意識が遠のき、目の前のガラスが曇る。ご近所さん、奥様、女子小学生女子中学生女子高校生女子大学生……。どれも顔が白くのっぺりしていて、まるで石膏像の住む町に紛れ込んだ気分になる。


 彼らはいつも、私の胸に拳をぐりぐり押し込んできて肉を突き破り、活きのいい生身の、私の情緒を地面にべちゃりと置く。そしてその事実に気づかず私に向かってお喋りを続ける。


 二人目の石膏像が来て、動けない私をほったらかしたまま石膏像同士、狂ったように話し続けるときもある。


 ――あら、旦那さんはいないの? 「しんぐるまざあ」なの? 大変ねぇ。

 ――私、自分が外で働くのなんて想像できないわ。

 ――フン。それより私の旦那の年収はね……こんなにあるの!


 そんな中、ニコニコと相槌を打ち続ける石膏像もいる。実はこれが一番質が悪い。


 ――子供に勉強させるのって大変よネェ。


 そういう石膏に限って、小学生の子供に高い学費を注いで中学受験をさせている。そしていつの間にか地元から消え、あとに残った紗月みたいな子は不良だらけの町で地獄を見る。


 私は悔しくて頭が熱く、ぼうっとする。


 うるさい。私の紗月は、こんな頼りない親一人と環境しかなくても頑張っている。なんでそうやって比較をし続けて人を見下したいのか。ずっと攻撃し合って何が楽しいのか。それが石膏像にとっては快感なのだろうか? 


「そんなの、他人の評価に振り回されるあんたが悪い」


 ……ごめんなさい。


 そうだ、私が悪い。でも凪いだ水面が、ふとしたきっかけで途端に激しく荒れ始める。これはなんなんだろう。呼吸が速くなる。涙がぼろぼろ零れてくる。悔しい悔しい。私や紗月のことを馬鹿にしないで。


 でも、石膏像と目が合った瞬間動けなくなる私は、本当にどうしようもない。


 石膏像だって悪気はないかもしれないのに。


 でも、ゼリー状の塊となった私の情緒を、彼らは無意識のうちに翻弄し続ける。そういうとき、私の肉体の外では嵐が吹き荒れている。



 私はいきなり、側にあったごみ箱を蹴飛ばす。


 灰色のプラスチックでできたごみ箱は即興ストリートライブのドラムのような音を立てて壁にぶつかる。中身をぶちまけながら倒れた。


 途端に、体育館にいる石膏像が体育着を着た女子高生どもに姿を変える。


 私は泣き出した。


 体育教師が面倒くさそうに私の訴えに耳を傾ける。しばらくして、保健室に行け、と言われる。


 ――お前、よく見ろ。誰もそんなことやってないぞ。


 見渡すと確かに、ただの女子高生が、平凡に怯えた瞳を風景に溶け込ませている。バスケットボールを持ったままの状態で動きを停止させている。


 これは、高校生の頃の私の記憶だ。



「娘さん、もしかしてインフルエンザかな?」


 エレベーターはまだ一階に辿り着いていなくて、奥様は二回目の質問をしてきた。


 そのとき、私は思いついた。


 石膏像は、どれだけ殴ってもいい。


 ぷつん、と何かが切れた瞬間だった。


 私には昔からこういう瞬間がある。ぷつん、と切れて、どんな残酷なことをしても何も感じない瞬間。いや、むしろ気持ちよかった。妹を殴るのも、男の子を言葉でいじめるのも。みんな急に、恐怖でビー玉みたいになった瞳を私に向けてくるんだ。今まで散々憎たらしい目をしていたのにね。こういうときだけ可愛い子ぶるんだ。気持ち悪い。


 もちろん、自分をいじめるのが気持ちいいときもある。体の奥に、自分の肉体が怯える気配が立ち上がる。けど、それがなんだっていうんだ。もっと苦しめよ。自分から他人に喧嘩を売って返り討ちにされたり殴られに行ったり。薬をたくさん飲んだりハサミで手首をざっくり切ってみたり。今でもあの切り口は忘れられない。見事だった。『白雪姫』に出てくる小人が口を開いたみたいにぱっくりとひらいて、新たに生まれた空間が真っ赤な血液で満たされてゆく。心臓がトクトクした。そうだ、私は昔からこんなだったじゃないか。


 ……だからもう、石膏像のことなんて。自分のことなんて。どうでもいいんだよな。


「娘さん、大丈夫なの?」


 私は、皺くちゃの肉の間で瞬きを繰り返す、つぶらな黒目に笑いかけた。


「いいえ、亡くなりましたよ」




 香苗は一瞬目の前が熱く濡れたが、無理矢理手足を動かして海と灰色の崖を手繰り寄せる。彼女は電車を何本も乗り継いでこの町に来た。


 次第に足裏の感触は軽やかなものになって、スニーカーの中に砂が滑り込んでくる。乾いた林のある崖に向かって一筋の道。林には岩肌が剥き出しのスペースがあり、香苗はそこに立った。空を半円に囲んだ葉っぱだけが、優しい門番のように彼女を青空の世界へ手招いている。けれどその手前に、柵。


 使い古した柔らかいリュックを地面に置き、香苗は紗月のノートをすべて取り出した。小説の書いてある、あのノートも。全部で四冊。


 紗月は本当にいい子だ、と香苗は思う。こんな穢れた世界にあなたはいるべきじゃなかった。紗月はすごい。えらいよ。今すぐめいっぱい褒めてあげたい。


 でもお母さんは、君の書いたノートを陸の外に出してやることぐらいしか、母親らしいことができない。優しい君が書いてくれた文章は、本当に素晴らしかった。……でも、それは二人だけのものにしよう。


 香苗は罪悪感に押しつぶされそうで、頭の中がますますまとまらなくなった。


 ごめん。本当にごめん。


 溜まっていた涙がぼろぼろ零れて錆びた鉄柵の手すりにしみを作る。


 香苗は、四冊のノートを、真っ白な太陽めがけて投げた。


 ノートは一斉に崖の下に吸い込まれ、見えなくなる。


 それから香苗はリュックを置いたままで、自分の胸辺りまでの高さがある柵を不器用によじ登り崖の先端に立つ。


 深い青空と暗い海だけの空間に浮いているような感覚を、涼しい風が撫でて心臓が静かに早鐘を打つ。そして足元から全身を強い高揚感が駆け抜けた。


 紗月は娘であると同時に一人の人間であって、香苗もまた一人の人間であった。そして紗月は香苗に産み落とされて、香苗もまた自身の母に産み落とされた。


 あの世界が忘れられない。


 脳裏に焼き付いた輝きはすっかり香苗を蝕んで、身体が勝手に引き寄せられていく。香苗は思う。あれこそ自分が切望していた世界だった。あの世界でなら私も幸せを感じられる。紗月の小説は、初めて私に本当の幸せを感じさせてくれたものだった。



 君が小説の最後に尋ねてくれたこと。


「お母さんも、本当は、こんな世界に戻りたいのではないですか?」


 その通り。なんでだろう。でも本当に、あの世界に戻りたいよ。私が振り向いた先の陸にはどれだけ探しても待っても見つからない世界に。


 私、たぶんちゃんと「母親」ができてなかったんだよね。


 君の綺麗な瞳にはくっきりと、私の隠していたものが見えていて、きっとバレバレだったんだろう。


 おばあちゃんになるまで耐え続けるんだとは決心していたんだけれども、それで君もそんな道を辿っていたら、死ぬ順番は、私の次に君で、危うく君を一人にさせることになっていた。私は馬鹿だ。でも君はそんなちっぽけなことは気にしていなかったかもしれない。ただ他の人にも幸せになる方法を教えようとしてくれただけかもしれない。


 ある暑い夜、近所で夏祭りをやっていて、一緒に行こうって手を引いてくれるような、ひねくれた私には難しいことをやってくれた、だけかもしれない。それは親しい人にしてあげる、ありふれた行為。


「ありがとう」


 私はやっと、自分の人生を変えられたんだ。



 香苗は自分の全てが、目の前の青空に佇む、眩い、真っ白な太陽に向かって昇華されていく心地がした。


 覚悟を決めた彼女は、目をつむって宙へ飛び出す。



 ――『あれ。香苗ちゃん、今日は学校ないの。』



 幼い香苗は、母と二人だけのある夜、母に言った。


「はるちゃんたち、お泊まり会に誘ってくれなかった」


 いつもへとへとになるまで彼らの話題に合わせても、冷たい目、なんでお前がここにいるんだとでも言いたげな「トモダチ」の瞳を思い出して、香苗の頭は真っ白になる。


 アー、という赤ん坊の声みたいな嗚咽が、張りつめたリビングに響き渡った。洗濯ものを畳んでいた香苗の母は、うるさい! と怒鳴った。


「そんなの、あんたに問題があるからに決まってんでしょ! 友達ができないのもおかしいわ」


 母はため息をついた。


 香苗は小学四年生になったころ、勉強に固執するようになった。


 やっと気づいたのだ。自分には友達を作る才能はないけれど、勉強はやればできる。そしたら自信がついて、胸が締め付けられるような寂しさを感じる瞬間が減った。


 香苗は中学受験する子たちに悪口を言われ続けたけれど、勉強を頑張った。


 そして地元の、不良だらけの公立中学に進んだ。中三のころに体重が十キロ以上減ったけれど、なんとか公立の名門校に合格した。しかし高二の十月頃からその高校に行けなくなってしまった。心療内科でうつ状態だと診断された。


 近所で馬鹿にされる日々が続いた。



 そして今。



 海岸の林にまるく空いた穴を、潮の匂いが通り過ぎる。

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