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第二章:Ⅲ 帝国校

永遠主義:あらゆる出来事は永遠に繰り返すという思想を前提に、個人の生に価値をもたらすことを、国家単位で目指す体制のこと。



 ここは首都イオノにある帝国直属模範学校、通称「帝国校」である。細い風が流れるだけの青空の下、広大な敷地にいくつもの建造物。そのわりに人の気配はなく、閑静である。


 帝国校はこの国の象徴とも言える。


 一年に合計五百人作られる、極めて天然のものに近い人工の精子と卵子を受精させてできた新たな人間。彼らは五歳になるまで首都にある専門の施設で職員の手によって育てられる。彼らに直接血の繋がった親は存在しないが人体の都合上、自分たちには親がいると錯覚させなければならない。そこで子供たちは「親は首都にある『会社』で働いているのだ」と教わる。


 この国には「単校」と「帝国校」の二種類の教育施設があり、それらの施設には生徒のみ存在する。教育施設としての機能は全て機械が出力するのである。


 五歳以上十三歳未満の全国民は首都郊外の居住区に住み、単校に通う。それぞれの単校に教育レベルの差は無く、ここで国民は成績上位者だけが帝国校に進学でき、結果として戦争へ行かずに済むことを知る。さらに他にも情報を適宜適度に与えることで生徒の学力は最大限に高められるのである。


 単校で、全国で上位一パーセントの成績を修めた者は帝国校に進む。しかし帝国校でも一定以上の成績を維持することが求められる。達成できなかった者はその時点で在学を拒否され、彼らには帝国校に入学できなかった者と同じ境遇が待っている。


 では帝国校に入学できなかった者はどうなるのかというと、まず海馬の萎縮を促進するプログラムを受けさせられる。もちろんこのことを生徒たちは知らない。その後各々の能力に基づいて仕事が割り当てられる。高度な労働であれ単純なものであれ、生活の質は大して変わらない。そして二十歳になったらもれなく戦場に駆り出される。戦場が彼らの死に場所となるのである。


 一方帝国校を卒業した者は首都にある「宮廷」で専ら政治を行い、そこで安定した生活を送ることができる。卒業者は毎年十五名ほど。


 宮廷に毎年十五名しか入ってこないなんて、かなり少ないと思われるだろう。しかし、選び抜かれた十五人である。他の世代と合わせたらそれで充分なのだ。


 宮廷での役目は六十歳で終わる。その後老人たちは子供の居住区に住み始める。国の中心に単校が集まり、その周りを首都が、さらにその周りを軍が防衛しているのである。


 老人たちは子供に真実を教えてはいけないことになっている。しかしどんな人間であっても、ある程度何かしらから解放されたと思い込むと国にとって疑わしい人物となる可能性があるのである。老人たちには彼らを密告する義務があり、密告された者は秘密裏に処刑される。


 さて、今は午後五時であるとクリスの腕時計が示していた。良く澄んだガラスの中で緻密な細工を施された金属の針が迷いなく進んでいく。クリスは鉛筆を置いて頬杖をついた。


 目の前のガラスの向こうには真っ白な地面の広場。そこには文字と人間のいない映像ばかりのニュースを映す、高いところにある大型スクリーン、噴水、ベンチ。噴水の水は控えめに流れていて、眺めているとクリスは背中がほぐれるような心地がした。それから噴水から少し離れたところに、広場の外側を囲うように常緑樹が生えており、夕陽がほんのり広場の無言を平している。この図書館は帝国校の第三校舎の最上階にあるのだから、屋上に白い広場が用意されているということだ。


 クリスは十秒ほどそこをぼうっと眺めて、再びテキストに視線を落とした。彼女はデータ上今年十三歳となって帝国校に入学したばかり。けれどあと一か月で十四歳になる。



 ――落第なんてしたら、人生終わりだ。


 私は頭が真っ白になりそうなのを堪えて自分がちょうどゾーンに入れるよう鼻で空気を小さく吸って、吐いた。あがり症の私が良いパフォーマンスを発揮するには自分の身体に対して繊細な調整が必要なんだと近ごろ分かってきた。集中して、奔放に並ぶ「日本語」を目で追う。でも、何度同じところを読んでも文字と私のリズムが噛み合わなくて、目が滑る。苦手なんだよなあ、この教科。ビックリするほど。今まで勉強で大きく躓いたことはなかったのに。


『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。』


 うーん。夜の底と信号所ってなんのことだ? そして主語はどこに行ったのかな?


 てか馴染みのない文字を読むのって頭痛がしてくる。明日テストなのに。どうしよう。私は机に突っ伏したくなった。でも急に血の気が引いて息の吸い方を忘れて、またテキストを睨む。この繰り返し。成績が下がるなんて、落第なんて、死ぬより怖い。私の取柄は勉強だけなのに。


 とんとん、と肩がつつかれた。テキストの外の世界の輪郭が一気に鮮明になる。


「おつかれ」

「……あ、エリック」


 彼は愛想のよい笑みを浮かべていて、私はいまだに乱れる血流を心配しながらも笑った。


「君まだセーター着てるの? もう夏だよ?」


 エリックは指定のワイシャツの上に長袖のセーターを着ていた。


「冷房の温度が低すぎるんだ」


 エリックはため息をついた。


 あ、とさっき自分が放った言葉を思い出して私は神経が逆立った。またやってしまった。せっかく仲良くしてくれているのに。私は親しい仲になると棘のあることをすぐ言ってしまう。それで次第に距離ができてくるのだ。


 私は固まった体を無理矢理動かして表面がぼこぼこの鉛筆を握った。


「あの、君もがんばってね」


 心臓がドクドクする。先日廊下ですれ違ったことを思い出した。私は一人で、彼は自分の友達と二人で移動していた。彼らは「ギリシャ語」の青色の教科書を持っていた。私は何をすればいいのか分からなくなってそこから走り去ったんだ。


「あ、いや、ちょっと頼みがあるんだよ」


 彼はこう言った。


「明日『日本語』のテストだろ? クリス、分かんないってよく言ってたじゃないか。教えてあげるよ」

「えっ」


 一気に靄が晴れて視界が輝く。


「ありがと!」


 私はぱっと口角が上がった。


「……でさー、明後日は離心学のテストがあるだろ。お願いなんだけど、明日の午後四時にそれの分かんないところ教えてもらっていいかな。お礼に」


「全然いいよ」

「わーマジ助かる! 5章がなかなか理解できないんだよ」

「私も今めっちゃ行き詰まってた。文系科目は苦手なんだあ」

「君はどっちかっていうと理系だよね」


 理系と文系。


 確かに私は語学より数学が得意だ。しかしどう考えても「日本語」や「ギリシャ語」、「ヘブライ語」を理解するほうが難しい。まず膨大な量の単語を覚えなくてはならないし、文章によって何通りも違う解釈ができて、しかし私は外人の書き手の考えていることがよく分からない。だから何が正解なのかまったく予想できない。頭痛がしてくる。もはや運の世界だ。


 エリックは語学がよくできて、ホントすごい。


「数学ってなんであんなに頭が疲れるんだろう」


 彼は肩を落とした。



 私たちは今日午後十時に寮に戻ることにした。これで四時間はテスト勉強ができる。


 エリックは棚からタブレットを取り出して大きな机に座る。私も向かい側に座った。彼は自分の腕時計を画面にかざして電源を入れ、私の持つ冊子の裏にあるコードをスキャンする。


「前回の成績を見てもいいかな」

「いいよ」


 私が腕時計を画面に近づけると、この前のテストのスコアが表示された。エリックの視線が動く。二人とも黙っていた。


「文法問題は満点だね」

「うん。そうなんだけどね……。単語もちゃんと覚えてるよ」


 単語に関しては、入学直後に辞書一冊を暗記させられたのだ。


 エリックは淡々として言った。


「じゃあ散文の読解をやろう。でも実際は『日本語』だと言え、設問は国語科と変わらないよ」


 彼は肘をつきながら画面を操作した。


「国語科も満点だ。どうして『日本語』の読解となるとダメなんだろう? なんか勉強してて心当たりとかはある?」

「うーん」


 私は今までの勉強風景を思い出してみた。意味が分からないなりにも、どこか感触があったはず。暗い部屋に浮かび上がる机の照明のオレンジ色や手がかぶさって影の落ちたページ。勉強をしてるときの自分の感覚はぼんやりしていて、原因を掴めそうで掴めない。いやでも、これ以上相手を待たせてはいけない、と急いで口を開く。


「えっと……、私、特に小説が苦手で。なんというか、外国人の作者がその文章を書いたときの気持ちが想像できないんだと思う。どうかな」

「国語科の小説のときはどうなの?」

「あ、それはね。もちろん作者の気持ちは想像できないんだけど、小説においてこういう行動のときはこういう心情っていうパターンというか暗黙の了解があるじゃない? それを地道に問題文と照らし合わせて考えていくんだ」


 するとエリックは「なるほどー」と頷いた。


「じゃあ『日本語』の世界におけるそのパターンについて知識を増やせばいいんだね。まあつまり、読解をたくさんするしかないということだけど。でも分からなくなったら僕が教えて、そんなふうにやってたら、明日のテストには間に合うんじゃないかな。まずはそれをやってみよう」


 と、私の持ってる冊子を指した。


「え……。でも、これさっき一通り読んだけど、半分以上理解できなかったんだけど」

「そう。じゃあそれで分からなかったところをタブレットに映してみて」


 私は冒頭のあの一節、『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。』を映した。


「これだね。まずこれが分からない。主語が無い。『夜の底が白い』の言わんとするところが全然わからない」


 私は文章をちょっと見ただけで頭の中がこんがらがって、ため息が漏れた。するとエリックは「訳してみたら?」と言ったので私は耳を疑う。


「えー」

「まあまあ。作者の言いたいことを自分なりに想像してみて。なんでもいいから」

「まあそうだね……」



 私は右手でくるくる鉛筆を回す。


『雪国であった。』は、既視感がある。そうだ、主語が天気のときと似てるんだな。でもあまり自信はない。


 ノートの空いているページに取り敢えず、



 It was a snow country.



 と、書いてみた。これは、それっぽいかもしれない。


 問題は『長いトンネルを抜けると』だ。長いトンネルを抜けるのは何の名詞なのか。主人公、列車、それか別の登場人物? 作者に対する想像がどんどん膨らんで要領を得なくなってきた。ペン回しが止まる。私は無言で、結んだ唇を横に引いて死んだ目でエリックを見た。タブレットを見ていた彼は顔を上げて「……周りの文章も作者が意図を持って書いたものだよ」と言った。


 彼の言葉に微妙に納得して、他の文を見回す。三文目に『汽車が』とあった。汽車説が有力かな、と思ったが二文目の主語は『底』、三文目は『汽車』。一文目に汽車がくると三文目までに二回汽車が出てくることになる。それは普通にしつこいんじゃないか。うーん、いやでも分からない。


 まあまずは一文目の主語を主人公として考えてみるか。あ、そしてこれ一人称ではないんだよね? 「島村シマムラ」さんが自分のことを「島村シマムラ」って呼ぶわけないよね?


 とにかく霧みたいな情報を無理矢理くっつけていくうちに、かすかにコツなるものの感触を掴み始めている気がした。ノートの上に鉛筆を押し付けて引く。しかしふとテキストの文字に目をやって、私も主語なしで書いてみたいなと思った。


 頭の中が冴えわたるような、爽やかな風が吹いた。


 私が読み取ったこの「日本語」の印象を正確に表現する訳。まさにしっくりと来た。私はノートに素早く鉛筆を走らせた。



 Passing through the long tunnel at the border, it was a snow country.

 A bottom of the night turned into white.



 自信に鼻息が漏れて、しかしすぐに絶望した。


 めちゃくちゃ変な文章なんだけど。文法がぐちゃぐちゃ。これはダメだ。一気に血の気が引いて目頭が熱くなる。真剣に取り組んでいたときの記憶が迫ってきて頭の中が空っぽで熱くなる。


 ……私はやっぱ駄目なんだ。なんでこんなに馬鹿なんだろう。勉強しか私にはないのに、もうそれすらも私の味方ではなくなったんだ。


 いつの間にか嗚咽が漏れていた。


「だ、大丈夫?」


 エリックが驚いたように顔を上げる。また涙が零れてくる。


「ごめんね」

「いや、大丈夫だよ」

「私はやっぱり馬鹿なのかもしれない。明日テストなのに。どうしようもない。これからどう生きていけばいいんだろう」


 制服の袖を瞼に押し付けて鼻をすする。明日の朝、鏡を見たらきっと目元が浮腫むくんでるだろうな。


 エリックはしばらく黙って、また口を開いた。


「いやいや馬鹿じゃないよ。このまえ理系科目の順位、二位だったよね。少なくとも僕とは雲泥うんでいの差だよ。ごめん、僕がタブレットばっか見てたから……」

「君は何も悪くないよ」


 彼の視線は私のノートの方を向いていて、それに気づいた私はおそるおそるノートをそちらに向けた。


 エリックはそれをじっと見た。


「……良い訳だと思うけど」


 しんとした図書館に、彼のそんな言葉が立体的に響いた。


「は」


 私の中で驚きと惨めさと、溢れてくる深い嬉しさが汚く混ざって顔をしかめてしまった。


「どこが」


 彼はノートに目を落としたままですらすらと理由を述べた。


「ちゃんと原文のニュアンスを伝えようとしてるところかな。僕、この訳を見てなんかしっくり来たんだ。言葉を介す前に存在するものが、どちらの言語でも同じだって。言い換えれば、クリスが原文から真摯に感じ取ったことが滲んで、読み手に訳者の感じ取ったイメージがそのまま、直接伝わってきたんだ」


 エリックはニコッとした。


「文法は、教科書的にはちょっと変だけど」



 ピピ、と小動物のうめき声みたいな音が響き渡り、図書館の静けさと溶け合っていた私の心臓は急に揺さぶられる。腕時計の側面のボタンを押すと静かになった。銀色の針は午後十時を指している。


 目の前を見ると、エリックはまだタブレットの上でタッチペンを動かしていた。私の訳文を添削しているのだ。私はくすんだノートの上にそっと鉛筆を置く。私たちが昔通っていた「学校」は本来単校と呼ばれるものだった。……帝国校に入って支給された鉛筆は単校のものよりずっと書き心地が良い。


 タブレットとタッチペンが触れてカチカチする音が規則的だ。私は横を向いた。


 窓の外には、あの白い広場ではなく、夏の夜にふさわしい透き通った闇。天井から床まである大きな窓だ。少しも曇りが無い。向こう側を嘘偽りなく視界に差し出してくれる。そしてそこにはエリックと私が映っていた。夜の広場と、半透明の図書館と二人が重なって浮遊感のある、不思議な空間。


 図書館の夜はエリックと私だけ。他には誰もいない。


 いや、ここには最初から二人以外いなかったのかもしれない。


「お待たせ。終わったよ」


 タブレットを棚に戻したエリックは机に戻ってきて、自分の使っていた椅子の位置を整える。図書館の照明がいつもより冷たく、それでいて刺激的で、周囲の様子が鮮明に浮かび上がった。いつもより細くてぱっきり映る輪郭。並ぶ無数の本棚。私は心臓がトクトクした。図書館の鍵が開かなかったらどうだろう。今から先へ、時間が進まないで、そしたら私は夜空を超えてどこまでも溶け出せる。そんな変な、心地よいイメージ。


 私は別に、単にエリックと二人きりの状況がほしいわけじゃない。この状況が、空気が、永遠でいてほしいのだ。


 何も掴めないけど、身体のどこかに刻まれた記憶には、いつもあの、さらさらの黒髪をしたかわいい女の子がいる。


 彼女は反逆を企てていた。永遠主義のこの国で、「黒い円環」を目指していた。だから消えた。私たちは皆、「白い円環」にいて、そのどこかにある白い空間を目指さなくてはいけないのに。美しい知性を持ったあの子は、この国の何が不満だったんだろう。どうせ私たちは死と再生を繰り返すから、一度だけでも他人にオススメされたことを試してみればいいのに。やってみれば案外いいものかもしれないよ。私だって学校で教わった「永遠主義の基本」とやらがまだあまり分からないけど、でも、夜空を見上げたら……口をぽかんと開けて宇宙に視線を吸い込まれていたら……私たちがどうしようもなく救いようのない存在であるなんてこと、分かるよね?


 あれ。


 ふいに安心できる場所を見つけても、それは過ぎ去ってゆくから綺麗に見えるのかな。


 私は無意識に首を振る。


 ――違うよ。永遠は自分のものにするんだよ。



 私は陽気な流れに乗って笑った。


「こんなに長い時間、ありがとう。明日のテストがんばるよ」


 エリックは肩をすくめた。


「でもクリスの文章、添削の必要なんか全然なかったよ。これは、八割は行くよ」

「へへ、そんなことないよー」


 実際、まだ手探りの感覚だ。やっぱり私は、言語を扱うのが下手だから。


「あと、明日の午後四時ここ集合でいいかな?」

「うん」


 夜、図書館にいる。二人しかいないまま。


 たぶん、夢中になればなるほど周囲から見たら滑稽なんだろうけど、今だけは夢中になっていい。


 私は驚く。これは今まで味わったことのないほど温かくて切ない気持ちだ。淡いけれど満たされた感覚。トップの成績を獲ったときとは質の違う、湿っぽくて重いもの。しばらくして気づく。ああ、信頼っていうものかな。


 だったらそれは、すぐに夜空に希釈されて無くなりそうだ、と思った。



 私たちはエスカレーターで一階まで降りる。無駄に広くて真っ白に発光するエントランスホールに、入り組んだ輝きのシャンデリアが吊るされている。無人のくせに冷房もばっちり効いてる。自動ドアが開いた途端、もわっと熱い夜気が迫ってきた。


 帝国校の敷地を一周するには二日かかるらしい。だから、図書館のある第三校舎から寮までもかなり遠い。地道に歩いていくしかない。歩道は夜でもライトのおかげで痛いくらい白く光っていて、さらに十メートルごとに大型スクリーンが備えられている。大型スクリーンはどこでも同じ。太い柱のてっぺんに載って、下にいる私たちを見下ろしている。


 歩道とは道が剥き出しになっているのではない。帝国校の歩道は常に埃をかぶった透明なドームに覆われていて、ドーム内は涼しく、スクリーンが収まる高さ。私はスクリーンを見上げながら歩いた。政治や戦争のニュースが文字と、ずっと人物のいない映像だけで流されて、ドーム内にその音声が反響する。音量は外のスクリーンより小さいはずなのに、ドーム内の空気をよく震わせて心臓に響く。そしてニュースの真偽は定かじゃないって私はもう知っている。


 私は今どれだけ歩いたのだろう。だんだんと胸のあたりが冷えてドキドキ音がする。同じような風景、ニュース。私は本当に進んでいるのだろうか。視界を埋める巨大なスクリーンから目を逸らしても、単調な夜に星や月はなかった。スクリーンに遮られているのかもしれない。


 ふいに泣きそうになって驚く。


 得体の知れない感情の高ぶり。怖くて不安なのに、そんな鼓動じゃない。


 よく分からないけれど、私はもっと先を知りたい気がした。手を伸ばせるところでもなく、ドームの外でもなく、もっと深くの冷たくて暗いところへ、身体が傷だらけになっても、わけも分からず駆け出していきたい。語学、数学、政治、戦争、宇宙とすべてをただ純粋に知りたい。それはすごく儚くて、でも頑丈で、幸せな願いだった。鼻の奥がツンとする。こんな感覚はたぶん宇宙の創造主が人間に望んだものではない。しかしその罪深い衝動は人間だけに備わり、人間だけが抗えないんだ。

 

 ――図書館の鍵が開かなかったらどうだろう。今から先へ、時間が進まないで、そしたら私は夜空を超えてどこまでも溶け出せる。


 そして私は思った。やっぱり私はずっと、欠けたものを渇望し続けるんだ。本当は欲望なんていらないのに、この感情の高ぶりだけは抑えられないから。だから、ドームに遮られた夜空を見上げ続けるしかない。私は歩を進めた。何が正解? 別に誰も何も、悪いことはしていない。


 隣をちらりと見る。


 私は眼を疑う。そこにエリックがちゃんといたから。初めて世界が輝いて見えた。


 彼はもう消えてしまったんだと信じ込んでいた。だって、私は誰とも繋がれないから。いつも、ずっとずっと一人だった私には、誰かと一緒にいる権利なんて無いんだと生まれてしばらくしたら分かるのに。どうしてだか、今は許されているらしい。


 初めてのことだったから、同時に私は戸惑った。私は、なにをすればいいのだろう。こんなときどうすれば。


 ……ありがとう。


 弱虫な私は、声にはできなかった。


 今日もし一人だったら。図書館にも、エントランスホールにも、無限に感じられる歩道にも人はいない。私は夜の海に潰されていただろう。


 でも今、私の隣にはエリックがいる。なら、私たちは必ず寮に辿り着いてみせなければ。


 そうだ、私たちは、私たち全員に平等に襲い掛かってくる「試練」を乗り越えなければならない。私は一人じゃないんだ。逆に言えば、勉強や仕事がなかったら私は自分を誤魔化せずに壊れるだろう。しかし残念ながら、そいつらは永遠に流れてくるんだ。尽きることがないから、まるで円環のようにね。


 私の脳みそが蛍光色の興奮で染まった。



 もう一度エリックのほうを窺うと、ぱちりと目が合って少し焦る。けれど何故か、お互い笑みが漏れた。私の血管は痙攣の尾を引く。


 エリックは透き通る深い藍の瞳が印象的だ。瞳の奥はよく見えないけれど、私は、彼が本当は健気で純粋であると確信する。誰しも美しく見える瞬間はあるのだ、と私は思っている。


「やっと着いた」


 私は寮の前に来ると、そんな言葉を自分に言い聞かせた。目を瞑って開く。


「夜の歩道って妙な気持ちになってくるよ。不安というかなんというか」


 エリックは肩を落とした。


「正直に言うと、一人じゃ怖くて帰れなかったと思うよ」


 彼は軽い調子で話しつつも、震えた声には透明な恐怖が滲んでいた。


 私は思わず笑う。


「私も」


 それから私たちは足音に気を付けて寮に入り、それぞれの部屋に帰った。



 腕時計を外してみたらもう夜の十二時だった。窓の外にはきっと暗闇が広がっているだろうから、カーテンを開く必要はない。でも胃は空っぽで頭もふらふらするのでごはんは食べよう。


「お」


 机の上のボックスを開けると、コンソメスープとクロワッサン、温かい紅茶、それから私の大好きなハンバーグが入っていた。


                               

                                 (おわり)

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