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第二章:Ⅱ 炭坑

 果てしなく続く暗闇に向かって、地面の泥と一体化したレールが伸びている。両脇の壁に曇ったランプが並び、灯っていて、しかし暗闇に慣れた瞳は辺りを明瞭に捉える。鼓膜に冷たく沁みる静寂と、たまに滴が水たまりに落ちて跳ねる気配。そして、自分の靴の音。


 ルースは坑内を一人歩いていた。


 学校を出たあと、ルースには炭鉱夫という役割が与えられていたのだ。



 ルースは自分が今日で十四歳になったことを思い出した。自分の誕生したのがいつか自分では分からないので、それが本当なのか定かではない。しかし、国にそう言われたからそういうことになるんだ、とルースは思った。


 十四歳になったルースは、同じく今日十七歳になったらしいマディカに出くわした。二人の全身はどす黒い。炭坑で肉体労働をしているのに、体は滅多に洗えないので皮膚は木炭を塗りたくったかのようである。鼻はずいぶん前から機能していなかった。


 ルースとマディカは女子だが洒落っ気のないおかっぱ頭にされ、作業着はボタンがぽろっとほつれ、炭坑の深くに行けば気圧差で破れる真っ黒になったものだ。


 また、坑内の空気には土煙と埃と金属片が常に混ざっており、ここに配属されたものは短命に終わる。鼠も逃げる、まるで地獄への道を這うようだ。


「やっほー、ルース! 二人ともまだ生きてるのが信じられないね」


 暗い視界の中でマディカが退廃的な笑みを見せた。唇と歯が黒い。鼻も煤けている。十七歳の彼女は地下深くの苦しいところで働く先輩だ。


「マディカ。……ねえ、一緒に行こ」


 今日はシャワーを浴びられる日。ちょうどルースもそうだった。



 二人は坑内を、湿った岩の壁に沿って歩いていく。炭坑は常に人手不足であり、今シャワー室への道を歩いているのはルースとマディカだけ。


 特に話すことのない二人だけのこんな時間が、ルースは好きだった。交わす言葉のないまま、マディカのひんやりとした手を握る、柔らかい体を抱きしめる、そんな想像をした。胸がドキドキして瞼が熱くなる。少しだけ自分自身に嫌悪感を抱いた。でも自分がこんな環境で頑張れるのは、マディカを独り占めできる瞬間があるからだ、ともルースは思った。


 二人は赤褐色に錆びた巨大な鉄扉の前に立つ。横にあるボタンを押すと、鉄板は重く軋む音を立てておもむろに開いた。


 二人はシャワー室に入り数か月ぶりに体を洗う。脱いだ服から何が出てくるのか知れたものではない。ダニか、ミミズか。それがまだましなほうなのだ。


 二人は無言でシャワーを浴びた。鉄のドアが設置されているこの部屋は、しっかり管理されていて清潔だ。それだけに発言の自由も徹底的に制限されている。ルースは石鹸を塗った肌をしっかりこする。でもすぐ隣にマディカがいると思うと、いたたまれなくなりシャワーを手に取る。茶色く濁った泡が剥がれて初めて皮膚が爽やかな感触を飲み込む。気持ちいい。


 シャワー室のドアが開いて別の人物が二人入ってきた。これで満員になった。狭いシャワー室に水しぶきが溢れた。食事、睡眠、シャワー。それらは炭鉱夫にとっての娯楽だ。


 一番に洗い終えたルースはそこを出て隣の部屋で体を拭く。シャワーを浴びるのには時間制限があった。しかし着替え場にいるのに時間制限はない。ルースはぐずぐずとそこにいることにした。清潔な作業着をボックスから取り出し、タオルを入れる。


 そのとき、シャワー室からくぐもった悲鳴が響いてきた。なんだろうと思いながら急いで作業着を着て、シャワー室のドアを少し開ける。すると悲鳴とともに、視界に二人の女の裸が迫ってきてルースは一度退いた。やっと覗く。


 ルースは目を見張った。太い蛇が二匹、シャワー室の床をにょろにょろと這っているのだった。


「うわ、なんなのあれ。なんでこんなトコにいんのよ」

「怖いよ、怖いよ」

「……しー」


 ルースはうるさく騒ぐ茶髪と黒髪のためにも背後から注意してやった。


 ……マディカは蛇平気なのかな。


 あの二人はわあわあ騒いでいるが、シャワーの音はそのままにマディカの声は聞こえない。炭坑で鍛えられた賜物なのかもしれない。ルースは気になってシャワー室の床に裸足をつける。


 出っぱなしになった三本のシャワーは白い床に水を注いでいた。マディカも逃げてしまったのか。しょうがないのでシャワーは全部止めてあげた。


 ――足に激痛が走った。音もなく近づいた一匹の蛇がルースの足首を噛んでいたのだ。小さく悲鳴を上げたルースはそいつの胴体を掴んで自分の肉ごと引き剥がし、遠くに放る。


 二匹の蛇はぐるぐると辺りを這う。その怪異的な姿ですぐにクサリヘビだと分かった。今は炭坑で働いていても、昔は成績の良いほうだったルース。彼女はすぐに作業着のポケットから毒抜きのパッド――炭坑の毒ガスを吸ったときに使う――を取り出し足首に当て、急いでシャワー室の隅に避難した。幸い痛みは引いてきて、噛まれて五秒以内に処置したので大丈夫だった。……しかしそこでルースは倒れるマディカを見てしまった。彼女は噛まれたのだろう。だとしたら一分以上は経っているはずだから、処置してももう意識を取り戻すことはない。


 茶髪と黒髪の二人はとっくにいなくなってしまっていて、背後の空気が冷たい。胸の中で静かに空回りする焦りをルースは押し込み、清潔で柔らかい肉体を投げ出すマディカの脇の下に両腕を通してシャワー室から出してあげた。あいつらは私語をしたから。もう駄目だろうから。蛇はシャワー室の奥へとゆっくり進んでいた。ルースはしっかりとシャワー室のドアを締める。あとは誰かがなんとかしてくれるだろう、と思いながら。


 ルースは着替え場の滑らかな床の上、マディカをずるずる引きずって壁にもたれさせた。頭が自身の左肩の上で支えられて、喉を中途半端に伸ばしているマディカ。大きな瞼は閉ざされ、口はあんぐりと開いていてその暗闇に吸い込まれそうだった。着替え場は狭くて、ルースが膝をつく音が、ルース自らの心臓に響いた。


 ルースはまず解毒剤を取り出した。ルースには蛇にやられた傷がどこにあるのか分からなかったのだ。飲み薬をその口に注ぐと溢れて外に流れ出し、マディカの顎が濡れた。ルースの意識は「マディカを救わなきゃ」という気持ちで飽和していたが、肝心の脳みそが、ぼんやり眠くて指の動きがのろのろと、間に合わない。焦っているはずなのに、そのまどろみにどこか心地よさを覚えていた。


 次にルースは体の隅々を調べる。脱力した脚を上げて、上半身を前に折って。傷は見つからない。どうしよう。どうしよう。


 マディカの息が止まってる気がする。


 あー、もうダメだ。


 トクトクトク、と心臓が神経と毛細血管を強く、細やかに刺激する。


 どんどんちゃんとした思考が遠ざかっていく。


 五分経った。湿ったうなじはつるりと真っ白。あばらの浮き出た腹にも傷は無い。七分経った。解毒剤を左手の平の上に注いでその手をマディカの喉に押し込む。ごぽごぽと音を立てて薬は肺に入った。九分経って呼吸が完全に止まり、マディカは冷たくなって、硬く、白くなった。ルースが手を離すと、マディカはばたんと右に倒れた。


 ルースは腕を組んでしゃがみ、無感情で、ガラス玉のような瞳で死体を眺めた。肩の上で切られたマディカの黒髪は無造作に床に広がっている。乳房が右に垂れている。骨の細い太腿の肉は幼女の肉体を思わせた。


 ――君は、私と違って、他に話せる人がいるもんな。


 ルースは初めて、マディカの肩を親指でつついてみた。水分が蒸発して表面がさらさらになった肉は、何の抵抗も無く指先の圧力を受け入れる。ルースの身体がわずかに熱を持つ。グググッ……と、押し続ける。しかしすぐに目の前は汚れたガラスに塞がれたように曇った。肉体労働の疲労でもう何が何だか分からないまま、彼女は潰される。急にルースの身体は重く、痛み始めた。


 バチン、と蛍光灯の電気が落とされて辺りが真っ暗になる。もう消灯時間が過ぎたのだ。しかしマディカの肉体の真上にある天井には監視カメラがあり、そこから漏れるわずかな乳白色が、まるで窓から差し込む月明かりのようで、ルースには周囲がおぼろげに見えた。


 ルースは痛む筋肉をなんとか持ち上げて、マディカの上に跨った。両手を床に付けて身を屈ませ、マディカの肉塊をじっと見つめる。でも、ルースはやはり、ずっとまどろんでいた。抱きしめる。目をつむり、作業着越しに触れたマディカの体を、ゼリーみたいだな、とルースは思った。



 しばらくして、ルースはマディカに服を着せてあげようと思い立った。


 ルースは小さく笑った。こんなことをしてもマディカは燃やされるのだろうし、私も明日炭坑の仕事があるのだけどね。胸が締め付けられるような寂しさは続く。永遠に。私だけが周囲に馴染めないし、ラクになれない。ダンスしよう。力尽きるまで。乾いた気持ちで、もうどうとでもなれという気持ちで、みんなでダンスをしようよ。そしたら私も平気なのに。


 ルースは炭鉱夫になって初めて涙が出てきた。そして笑みが漏れた。


 ルースは近くのボックスから着せるもの一式を取り出し、まずは冷たくなったマディカの胸に布を当て、背中で縛った。それから上半身を起こさせ下着を被せる。肩の辺りに手を添え上半身を支えると、かくん、と頭が後ろに倒れて剥き出しの鎖骨がぼんやり光った。作業着にするする腕を通させる。終わったらマディカの向きを反対にして背後に広くスペースを取る。そして胸板を右手で押す。上半身が後ろに傾いたかと思うと、一瞬ののちに、ゴンッ! と頭と床がぶつかる鈍い音が響いた。骨が入っていないかのようにだらりとした両脚を高く上げてパンツを太腿まで持ってくる。腰を浮かせて完全に着せる。作業着も同じやり方で穿かせた。ルースは完成したことに満足して、一人頷く。


 死体を引きずりながらシャワー室を出た。



 焼却炉とは、地下深くにある巨大なマグマだまりのことである。ごつごつした感触の暗闇に、海のように果てしなくマグマが広がっている。あまりの高温に空気が悶える。


 その光輝く赤橙の手前に裸の死体の山があり、それは緩慢に左へと流れていた。死体はどれも黒ではなく珍しい「肌色」で、みな目を閉じて口をあんぐり開けていた。口の中の暗闇が一斉にルースを見つめる。みんなシャワーを浴びた死体なんだ、とルースは理解した。


 わけが分かってルースは絶望と心地よさという、相反する感覚を覚える。胸の底がざわつく。


 ――あとは誰かがなんとかしてくれるだろう。


 蛇はいつからシャワー室に潜んでいたのだろうか。誰もクサリヘビをどうにかしなかったのだ。ルースたちも。そうか。ここではみんな同じなんだ。誰一人あぶれることなく、みんな同じところに向かってる。ルースは胸がトクトクして、自分の意識が体から抜け出ていくんじゃないかと思う。鼻がつんとし、目頭が熱くなった。


 管理の奴らはシャワー室を監視していたはずなのに、知らんふりということか。


 ルースの脳裏にマディカの体が浮かぶ。あちこちにある火傷と傷と膿で蛇の噛み跡の見分けがつかなかった。腹にも乳房にも脂肪が無かった。こじ開けた喉の奥は煤けていた。


「よかったあ」


 ため息を吐いたルースはしばらく突っ立っていた。


 それから、死体の山に埋もれることにした。マディカの作業着を全て脱がして足元に放り、その死体を積んでから、裸になった自身も死体の上に腰を下ろす。シャワーを浴びた死体たちからは微かに、石鹸のいい匂いがした。


 だんだん息が苦しくなって、ルースは目の前が真っ暗になる。


 大量の肉塊を載せたベルトコンベヤー。


 それは二十メートル先にある巨大なマグマに、屍の肉塊を滝のように落とし続けていた。



 ――目が覚めたとき、ルースは白い部屋で椅子に座っていた。


 背後から無臭の生ぬるい風を感じ、振り向くと窓の外に穏やかな青空が広がっていた。前を向けば、白いテーブルの上に円錐台の白いものが置いてあった。円錐台のてっぺんには白い、小さな板。そこに茶色いクリームで文字が書かれていた。


『Happy birthday, Luce!』


 板のそばにはあたたかい炎を灯した蝋燭が一本立っている。ルースは真っ白なワンピースを着ていた。


 ドアが開く音。


 自分と同じワンピースを着た人物がいた。


 ルースの喉は震え、鼻の奥がツン、と熱くなった。幸福だ。どうしようもなく幸福だ。溢れるその涙に酔っていた。生まれてからずっと切り詰められていた魂が、やっとほぐれる気配がした。


 彼女は目の前の人物に、初めて、尊い輝きを宿した瞳を向けて微笑んだ。



「お誕生日おめでとう、マディカ」

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