第二章:Ⅰ 単校(エリック)
土嚢が落ちたみたいな音。
ドアの隙間から漏れる光の中で、二人の人物が倒れた。教室の後方にいた僕は目を細めて、それから見開いて息を呑む。わずかに見えた、床に広がる艶やかな黒髪。あらゆるスコアがトップ、純粋な心と何よりも、美しい容姿を持つクミさんが。僕のあこがれの相手が。糸の切れた精巧な操り人形のように、パラパラと崩れ落ちた。顔は見えなかった。
あの二人は遅刻したのだろうが、詳しいことは何も分からない。
しかしこれは、緊急事態、というやつなんだろう。
――クミさん、一体何があったんだ!
頭の中が一気に洗われて、クミさんのことをくっきりと捉える。駆け寄りたくてたまらない。心拍数が上がって体が飛び跳ねそう。心配で、心配で。いや、実を言うと僕の心臓は興奮でドクドクしてる。か弱いクミさんが美しくて、愛しくて。自分でも不謹慎だと充分承知しているが、どうしても口角が上がってしまう。
心の底から湧き上がってくる中毒的な快感。僕にはいつからか変わった趣味がある。自分が美しいと思うものが苦しんでいる様を見ると、その儚さに興奮を覚えてしまうのだ。なぜ自分がこうなってしまったのかは分からない。でもなんとなく言えることがある。それは、僕が生まれたときからこの感覚を持っていたということ。だってこの快感を覚えるとき、僕は何の穢れも知らない感覚を思い出すから。僕を生み出してくれた親の記憶は曖昧だけど、彼らを異星人とさえ感じていたあの頃がフラッシュバックするのだ。
小さいときは、この感覚は皆持っているものだと思っていたが、次第にいかに自分が変わっているかを思い知ることになった。僕はいつも周囲に擬態しているのだ。
その美しい黒髪を前後不覚に揺らしながら、クミさんは力なく体を投げ出し床に落ちる。思い出すと、言葉では言い表せないほどの幸福を感じる。
比較的成績上位のはずの僕は、もう本能的に机の間をするする縫っていった。すると他にも椅子を引く音がいくつか聞こえた。僕はそいつらがしているであろう眉の辺りに力を込めた無表情を浮かべて、迷わずクミさんのもとへ。
「倒れたのは誰?」
「マリちゃんとクミちゃんじゃない?」
「大丈夫かな」
「……俺、取り敢えず制御室に行ってみるよ」
そういえば、もう一方は6291371番のシュミットか。くせっけの茶髪に平凡な肉。全く魅力のない人物に思える。月とすっぽんなのに何故クミさんは普段からシュミットと一緒にいるのだろう。
「クミさん、意識はありますか……?」
生臭さと濃い鉄の匂いが溢れて胃がひくつく。
正面から切り裂かれた制服から覗く白い肌と照る血液。出血が止まらないようだ。左腕と右足首はあらぬ方向に曲がり、あちこちに大小の切り傷。青ざめた瞼が閉ざされ、目の下に睫毛の長い影が落ちている。
「……これは、すごいな」
「そうだね」
いつの間にか僕の隣には誰かがいた。その震える声を聞いて、クリスだと分かった。だから夢見心地でも、ぼんやりと自然な言葉を紡いだ。
うつぶせ気味のクミさんの口はわずかに開かれていて、まさにそれは「美しい肉塊」だった。僕は人形遊びをする幼児ように、クミさんの白く細い、そしてパキリと折れた腕を持ち上げたり、それから床にぼとりと落としたりしたくなった。血で濡れた身体を床の上で勢いよく転がして、もっと壊したくなった。そう考えるごとに現実感が無くなって、なんだか心が凪いだ。
「君、大丈夫?」
クリスの青い瞳が純粋に僕を覗いてきた。澄んでいる。
「どうすればいいんだろう」
と、僕はぽつりと呟いた。
クミさんが死んでしまう、と僕は直感した。それはいやだ。しかし目の前の肉塊は素晴らしい。
ああ、でも。
僕は立ち上がって暗い教室を見渡した。動けない生徒、泣く生徒、色々。いつものように擬態しなければ。
クリスは恐る恐る口を開く。
「……この学校には十三歳未満の人間しかいない。首都にいる大人に何が起きたかを報告するよ」
「わかった」
この教室で二番の成績を誇るクリスの言葉に、他の生徒たちも頷いた。
「なあ、それもうやったぜ。合成音声は『指示はありません』って言いやがったんだ」
ドアを開ける音とともに背後から息切れとそんな報告。希望にざわめいていた教室が一瞬で静まり返った。僕は呆然とした。こうなったらやるべきことは必然的に決まった。
舌打ちしそうになるのを堪え、僕は自分を奮い立たせる。なるべく自然に。棒読みにならないように。
「僕がクミさんを治療するよ」
周囲の驚きと歓喜。目の前が暗くなった。小さなため息をつく。僕はこの教室でクミさんの次に保健の成績が良いのだ。
僕は実習を思い出してクミさんを救う算段を立てた。まずは手術台を一つ机で組み立て、首や太腿、腹とかにある太い血管からかな。あと気道の確保。制御室に行って教室の照明を点ける必要があって、それから……。
「私も、手伝っていいかな。まずは机と救急キットを二人分用意しよう」
クリスが意を決したようにそう言った。
「ありがとう。助かるよ」
僕は手慣れた動作で口角を上げた。
……そういえば、怪我人は二人いるんだった。
生徒たちの話し声が耳障りに繁殖している。
所詮子供によるこんな手術は応急処置にすぎない。マリはクリスと他の生徒……確かルースとかいう名前……が担当していたが、間に合わず亡くなったようだ。まああっちのほうがひどい状態だったからな。助けられる方を優先する。これが正しい選択だ。だからクミさんの治療は僕が行った。
クミさんはなんとか一命を取り留めた。
でも血液不足でまだ意識を取り戻していないし、人工呼吸器も点滴のチューブもぱっくり開いた傷口も、テープで無理矢理貼り付け、または塞いだだけ。全身に傷が深く刻まれているので、彼女の身体を少しでも動かしたら、せっかく整えた人体のサイクルを繋ぎ止める糸は千切れ、また生死の境をさ迷うことになってしまう。
「うう……ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「大丈夫だよ。ルースのせいじゃないよ……」
血だらけの手術着を着たクリスはてきぱきと死体袋の封を閉じていて、その隣ではやはりルースという名前だったらしい女子生徒が泣きながら謝っていた。クリスも涙を零している。目を見開いて、しかし作業の手は止めない。でも、なんだか悲しんでいるというよりは、嬉しくて泣いているように見えた。
僕は机の上に横たわるクミさんを眺めていた。彼女の長い髪は束ねられ、もはやぼろのような制服の隙間からすべすべの肌が覗いていた。
手術にものすごい集中力を要したからか、頭痛がする。つっぱた目が無意識に動く。クミさんの剥き出しの首から鎖骨に視線を滑らせる。触れたら柔らかくひびが入ってしまいそうな薄く白い皮。端正な骨格を滑らかに覆う肉。静かに目を閉じたクミさんが息をするたびにそれらがゆっくり上下する。
僕の中で、まだ興奮が燻っていた。クミさんを手術台のあの位置から少しでもずらしたり、点滴のチューブに不具合があったりしたら。クミさんの肉体は再びだらりと垂れ下がる。なんて儚く美しいんだろう! 今すぐ手を伸ばしたい。
僕はクミさんから目を逸らし、前髪で視界を遮った。手術着のポケットに両手を突っ込む。僕は、異常者だ。「普通」に振る舞わないとダメなんだ。
脳裏にただの肉塊となるクミさんがちらついて、目を瞑った。駄目だ駄目だ。美しいのはほんの一瞬で、あとは腐敗していくだけ。クミさんの美しさは奇跡的に保たれているものなんだ。……そう理性では思うのに、同時に、熱いエネルギーが僕を貫き続ける。相反する気持ちが混ざり合って、血管がゾクゾク蠢く。
それに正直なところ、僕はクミさんに生きていてほしい、と強く思ってもいるのだ。クミさんが好きだから。美しいものが目の前からいなくならないでほしい。そう思うのだ。
乾いた空気が細く喉に吸い込まれる音がした。周囲の雑音の間を縫って、ささくれた表面をしたそれは、僕の鼓膜を確かに撫でた。僕は慌てて辺りを見回す。ヒューッ、ヒューッ。クミさんが、助けを求めていた。
僕はハッとして、横たわるクミさんに静かに近づく。顔を覗き込んだ。口が半開きだ。ただならぬ予感はする。しかし残念ながら、再び生死の境に浮かび上がった無垢なクミさんの身体に僕は何もできず、見とれていた。高揚。僕が求めていたものが手を伸ばせば届く位置にある。目の前にはもうクミさんしかいなかった。他は真っ白。身体が吸い寄せられる。どうする。僕は。僕は……。
自分の指がクミさんの頬をつついた。
「あ」
クミさんの頭がコトン、と右に転がる。
バイタルの叫びがけたたましく鳴った。広がっていく教室のざわめきが振動となって、僕の心臓に地響きのように響く。しかし肝心の、音は遠ざかっていった。
「タチカワさんっ」
「いったい、どうしたんだ」
「しっかり……」
僕は自分の身体を動かせなかった。力の抜けた、彼女の半開きの口から目が離せなかった。次第に目頭が熱くなって、手術台の上にしみができる。自分の異常性が招いた今までの失敗の全てとクミさんとの思い出が押し寄せて、涙が止まらない。
――初めまして、ロビンソンくん。
透明な笑顔を僕に向けてくれた彼女は、もういないんだ。
それでも、かつてクミさんだった冷たい肉塊は、美しく輝いている。彼女の笑顔のように透明で、そして純粋な幸せが僕を染め上げた。つばを飲み込むとそれは急速に薄れていく。消えていくから美しいんだ。これが奇跡ってやつだ、と僕は芯から理解した。あとに残るのは寂寥と諦め。僕の中で、生温い何かが、緩やかに揺れていた。
血だらけの手袋を外して床に放り投げる。
「『恋』なんてこんなもんか」
という言葉が零れて、少し笑えてきた。




