第二章:Ⅰ 単校(マリ)
今日の始まりは本当に幸せな気分だった。
私は白くざらざらしたベッドで目を覚ます。ベージュ色のカーテンをめいっぱい開ける。そこにあったのはしんとなるような白っぽい青空。窓も開けると、冷たく湿気った、でも喉が渇くような朝の空気が肺に入って、鼻の奥が少しだけ痛む。横たわる雲と青色の見分けがつかない。私はこんな、仄暗いような朝が好きだ。
トイレに行って洗面所で顔を洗い、小さな正方形の鏡の前で肩より下にある茶髪に櫛を入れる。茶髪は、埃や水垢に薄く覆われた鏡の中でうねっている。でもこれはどうやら私に元々備わった髪質らしい。昔油を塗ったり梳かし続けてみたりしたが、全然まっすぐにならなかった。湿ったタオルを持って振り向く。
そこにはベッドと箪笥、本棚、テーブルがあった。テーブルの上には鈍く輝く銀色の、大きめのボックス。それは二面の内一面をテーブルに、もう一方を壁に密着させている。私は長方形の一番上にある小さな取っ手を掴んで蓋を開けて暗闇の中にバスタオルを放った。それから側面にある取っ手を掴んで開けると、今度は朝食が入っていた。
「やったあ!」
コンソメスープとクロワッサン、それから香ばしい匂いのコーヒー。私の一番大好きなメニューだ。テーブルの上にそれらを並べて、私はまずクロワッサンを手に取る。
食べ終わって歯磨きをしているとき、急に胸の中がざわめきだした。あれ。今日もしかして、離心学のレポートの提出日だった気が……。歯ブラシを咥えたままベッドのそばにあった鞄を慌てて探る。ガッツポーズ。よかった、最後の行まで書いてある。
すると壁で『08:00』という数字が点滅し始めた。
私は洗面台で口をすすいで箪笥に向かう。パジャマ代わりの白い襟付きシャツの上に紺色の長袖を着て、下は黒くて肌にぴったり吸い付く長靴下とこれまた紺色のスカートを履く。これが女子の制服だ。
さっきレポートを取り出したとき、ちらりと提出期限を見た。二日後だった。
そういえば今日は「実戦」科目のテストがあったけど、まあいいかなぁ。私、自分たちが何のために勉強を頑張らなきゃいけないか忘れちゃった。遠い昔の白い記憶に「声」が響いていることをぼんやり感じている。でもね、忘れちゃったし聞き取れないし、聞きたくもないんだ。
そう、数学やら化学やらの勉強よりさ、ずっと楽しいことがある。自分の好きな教科書や専門書の好きなページをぱらぱら捲ること。これくらいがちょうどいい。本棚にあるのも部屋にあるのも、全部学校に支給されたものだけど、私はそれくらいでいいんだ。それに、私は登下校や学校の休み時間、それから放課後とかにみんなのおしゃべりの輪に入っているほうが、楽しいんだ。そう、そっちのほうが楽しい。
勉強してる暇なんて、ないよ。私はトモダチとかといっしょにいなきゃダメなんだから。
「あ、時間!」
私は鞄を持って部屋を飛び出す。
三階建てのマンションの前には、乾いたさらさらの白っぽい砂が敷いてあって、マンションから離れていくたびに地面は緩やかに下へ傾斜してゆく。その傾斜の上に、大きな蛇がぐにゃぐにゃ這っているようにレンガ道が伸びる。レンガの上にはカラカラの熱い砂がわずかに飛び散って、レンガの水分は青空に吸収されていた。道の周りにはまばらに、やはり乾いた幹の常緑樹がたわわな葉っぱをゆったり揺らしている。そのうちの一本、一番の背の高い大きな木が私たちのいつもの待ち合わせ場所。制服姿のクミちゃんはもう来ていた。
「おはよう!」
こちらは笑顔なのにクミちゃんは少し元気が足りない。
彼女は真っ黒でさらさらの長い髪を風になびかせている。優雅に痙攣するその毛先は見る者の心臓をトクトクさせる。毛細血管が膨張して無理をして、だけどそれが気持ちよくてまどろんでしまう。
でも、違う。クミちゃんは私を見てはいない。上まぶたと長い睫毛を少し下ろして、ついでにどこともつかない場所に目玉をぎょろりと、わざとらしく向けている。私、疲れているの、ってそんなことを無言で伝えている感じ。それでいて鞄を持った両手は後ろに回して気弱な初々しい感じを出して。うんざりしてくる。
つまりさあ、私のことは、どうでもいいんだね? こんなに一生懸命会話を繋げようとしているのに。楽しい雰囲気にさせようとしているのに。いつもドキドキする心臓と震えてしまう喉を抑えて、君たちに話しかけてあげている私の身にもなってほしい。
クミちゃんのきめ細かい表面の白い頬。ぷるんと垂れ下がる下唇を優しく受け止めているその頬。そこに思い切り拳を押し付けるイメージ。周囲の穏やかな春の景色は分かるのに、君の姿だけがぼやけている。透明になりかけた君には痛みは無いんじゃないのかな。気を抜くと私は後ろに倒れそうだった。
――でも。ねえ。
みんな、使い終わったモノみたいに、私を置いていくんだ。
――私を捨てないでよ。いつもみたいに、一緒に喋って笑ってよ。
知らぬ間に心臓が違う質の音を立て始める。ドクドク、ドクドク。どんどん加速していって、私の頭の中で、質量の小さい考えが高速で回転し始めた。クルクル、クルクルクル。
周りの風景が歪んで、そこに黒い色が端から滲んでくる。紙が水を吸収していくみたいに。呼吸が速くなって、吸う息が冷たい。
一瞬真っ白が見えたかと思うと、私はこう言っていた。
「じゃあ、学校行こっか」
薄い酸素を纏った、空気に消え入りそうな言葉。だから、私の感情も、ほんのりとしか乗っていなくて、優しい声になれたかもしれない。
「……うん」
クミちゃんの姿が、変わった。クミちゃんは冷静でガラスみたいな瞳をしたままわずかに微笑んだ。温かな春風が彼女の背中を押したようだ。クミちゃんはそんなふうに自然の音に耳を澄ませる、優等生的な繊細さの持ち主だった。
私はそのことを今思い出した。私には理解できないこと。
このマンションに住んでいるのはほとんどがお年寄りで、若いのは私とクミちゃん、それから九歳のヨハネ兄弟だけだ。ヨハネくんたちとは、彼らが七歳くらいまでは一緒に学校に行ってあげて楽しかったのだけれど、もう別々に行動するようになってしまった。
私を産んだ親たちはみんな首都にある会社で働いていて、会社の寮で過ごしているらしい。つまりこのマンションで暮らしているのは、働かないで他のことに専念しなければならない人たちなのだ。
しばらく歩いていると、公園が見えてきた。お年寄りたちが噴水の周りを散歩していた。驚くことに、彼らは朝が早く、六時には公園で読書したり老人同士で会話したりしているそうだ。
私とクミちゃんはそこを通り過ぎ、幅広い道路の真ん中を進んでいった。辺りはしんとして、春の日差しがあたたかく広がっている。道路の端の整えられた花壇に咲いたたくさんの花が甘くみずみずしい匂いを放つ。また、道端の途中に高い柱が伸び、それはてっぺんでテレビ画面を支えている。私とクミちゃんだけの道路に、いくつものテレビが同時にニュースを伝えてくる。
私はテレビを見上げながら歩いた。テレビが太陽をさえぎって、視界が少し暗く、寒くなる。テレビはいつもと同じように「我が国は十年後の三一六四年、ついに『永遠主義』を実現するでしょう!」と、誇らしげな感じの合成音声を流し、画面上にカラフルで大きな文字を映し出している。
私は灰色の箱みたいなごみ処理場を横目にクミちゃんに話しかけるためのネタを探っていた。どうしようかなぁ。クミちゃん、今日は何を考えているか分からないし。でも昨日は楽しく会話できたのだけど。でも昨日話したことを掘り返すのはつまらないだろうし。うーん。
空に向かってぐんとそびえ立つレーダー塔の横を通り過ぎ、道のわきに生えているのが花ではなく、芝生やレーダー塔を囲む柵に変わり始めたとき。
隣で小さく空気を吸い込む音がした。
「ねえ、マリちゃん。今度の自由研究一緒にやらない?」
クミちゃんのくりくりした瞳は怯えたように私を向いていた。細い肩はこわばっていて、勇気を出してひと思いに言った、という感じだった。
私は思わず立ち止まる。
そっか、今日のクミちゃんは考え過ぎていたんだ。……ならば、あまり喋ってくれない日は考えごとをしている日なのかな。次から気遣ってあげなければ。
って考えて自分に隙が無いように見せたかったのだけど、私の口角は勝手に上がり、すっかり元気になっていた。
「うん!」
するとクミちゃんは「よかったあ」と、優しい笑顔になって、いつもの柔らかくて心地よい雰囲気をまとい出した。
少し立ち止まっていた私たちは無意識に歩き始める。
「ときにクミちゃん。研究内容はどうするか決めてあるの?」
「うん、実は決めてあるんだ」
「私には考えつかないものなんだろうね」
なんたって、クミちゃんは成績オールAなんだもの。
それに、まるでクミちゃんと私だけが透明な膜に閉じ込められているみたいに特別な絆を初めて感じ、頭の中にじんわりと幸せが広がった。優越感にぞくぞくする。
「テーマはね、『黒い円環』」
「え」
そっと差し込まれたその声に、私はまた立ち止まってしまった。
……クミちゃんはもっとマジメで大人たちに褒められるテーマにするのかなって思ってた。
「それって、あの?」
「そう。絶滅してしまったあのものについて調べたいの」
クミちゃんの声はいつの間にか熱を持っていた。
「実は私、もう色んな子から自由研究のペアに誘われているんだけれど、テーマを『黒い円環』にしたいって言ったら、みんな誘いを取り消すんだ……。だからね、私にはもうマリちゃんしかいないの。君だけは私の味方だって、信じてるの。どう? マリちゃん。一緒にやってくれる?」
気づいたらクミちゃんの両手に右手が包まれていた。その痒いような感触に心臓がドンドン胸を叩いてくるから緊張で息が速くなって、それが恥ずかしくて顔が熱い。私は反射的に「いいよ」と、言った。そして目を逸らそうとしたのにクミちゃんが透明な瞳で笑ってくるから、ダメだった。
「ありがとう!」
「わっ」
クミちゃんが抱きついてくる。私は「え、え、え」と、意味不明なことを呟きながら固まる。心臓の音がバレるんじゃないかと冷や汗をかいた。でも、ほんのりクミちゃんの肩に顔をうずめた。やっぱりクミちゃんは優しい人だ。
クミちゃんの体は細いな、と思った。このまま力を込めたらもしかして、首の後ろが折れて、私にぐったりもたれてくれる? 変な想像に、また息が速まる。私の方が、少しだけ背が低いのに。黒髪が、力なく私の肌に纏わりついてくれる? ……。
頭のどこかは場違いに冷めているのを感じていた。
今日のクミちゃん、ぎこちない。大げさって言うのかな。リアクションで、何かをカモフラージュしてる気がする。いや、今日は情緒不安定なだけなのかなぁ? 私は眼を瞑った。
――ピンポンパンポン、と間の抜けたチャイム。
クミちゃんと私は顔を上げる。
道のテレビ画面全てがニュースの文字からデジタル時計に変わっていた。『09:00』。九時ちょうど。
やば、遅刻だ。
「クミちゃん、走ろっ」
振り向いて、私は心が凪いだ。
クミちゃんの瞳がこれまでにないほど涼やかで、静かだった。そこにはクミちゃんの美しい知性が生のまま佇んでいる気がして、私は一瞬我を忘れた。
「そうだね」
クミちゃんはその瞳を三日月形にして、くすりと微笑む。熱い切なさが目の前を濡らすようにぬぐって、私は知らないふりをしてしまった。でもやっぱ今しかない、と思って私も笑う。
私たちは、人けのない通学路を白い日差しに引き寄せられるようにして駆け抜けた。




