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第一章

 十一月の中旬。七時限目の授業の課題は、日本の少子高齢化について話し合え、というものだった。教室の床をきいきい言わせながら生徒は六個の机をくっつけてひと班を作る。私は隣の席の眼鏡の女子と長方形の隅っこで向かい合う形になった。


 うちの班の誰もが沈黙を貫き色々な思いを胸中でこねくり回していた。もちろん私もだ。こういうのは苦手なタイプだから。


 でも昨日今日とオーバードーズをしていなかった私は、珍しく、少し眠いだけだった。冬の西日が奥の窓から直射して目を閉ざしそう。


 誰か、なんか言えよ、と全員が思っている。


 焦った私は口を開いてしまった。


「あの、私は、無駄に人間の延命治療をして高齢化しているんだと思います。また、原因は不明ですが、若者が恋愛や結婚に対し受け身になったというのが、少子化の原因なんじゃないでしょうか」


 机をくっつけて私の隣となったポニーテールの子が初めて目玉をこちらに向けた。「なるほど!」と、頷く。さらにその子の隣の子が「わ、私メモ取りますね」と、シャーペンを持ってプリントへ身をかがませた。すると他の子も次々に同調し始めた。


「若者が恋愛に消極的っていうのはあるかもね」

「恋愛ってやり方とか曖昧だしね」


 私はニコニコして、正面を向いた。


 眼鏡の女子はどろりとした蝋の瞳で私を見ている。私はどきりとして、震える笑顔を張り付けた。


 ――まるで、永く生きることが悪いみたいな言い方だね。


 私はまた口を滑らせた。眼鏡の女子の機嫌を取りたかった。


「笹本さんは、どう思う?」


 眼鏡の女子はぽつりと、


「分からない」


 と、言った。


 結局、私たちの班の意見がまとまることも、クラスの意見がまとまることもなかった。少子高齢化とか地球温暖化とか、そういう議論はいつも堂々巡りになる。


 木枯らしが教室のカーテンを小さく揺らす。


 そういえばこの日の朝、私は緑色のノートに見つけた小説について、この推敲はもうすぐ終わるだろうな、と予感していたのだった。





『いじわるな頭痛!


 あっという間に、耳の奥へザラザラ砂が注ぎ込まれる。胃のあたりに乾いた異物感が匂って、吐きそう。


 こんなのでは何も考えられないから、この苦痛から脱出するための方法がわからない。リビングの隅で一人うずくまった。何かに見つからないように。』


『怖い。悲しい。悔しい。そんなふうに言葉を書き連ねたとて、誰も気づいてくれないのに。


 なんで私はいつも一人になるんだろう。また無限の闇に沈められ、決して手の届かないところへ進むことはできなかった。』


『耳のあたりがガンガンして怖い。怖いけどもっと飲みたい。怖いけど楽しい、お腹がぐるぐるしてきた。皆は、いや誰も助けてくれない。誰も助けてくれない。死にたい。もう全部どうでもいい。死なせてほしい。楽に死にたい。お母さん、ごめんなさい。まじで人生失敗してる。……』



 香苗は娘の鉛筆の跡を崩さないよう、滑らかな紙の端をつまんでゆっくりページを捲った。よく磨かれた冷たいフローリングは、ソファに座る彼女を逆さまに、淡々と映している。レースカーテンに夜気が滲む。



 香苗のやることといえば、朝起きて家事を済ませ、スマホをいじりながら眠りに落ちることくらい。自分一人だけの残りの時間をやり過ごしていくにはそれで充分だった。仕事も辞めた。


 自分の見る世界は、大人になる前に、すでに雲を掴むようで現実感がなくなっていたのだ、と香苗は思うことにした。それはいつの日か、彼女が流れに身を任せるようになったときから、そうすることにした。全てのことを自分から引き離すようにして生きるようになった。そうしなければ、心が折れるような気がしていた。


 ――『あれ。香苗ちゃん、今日は学校ないの。』


 そんな声がこだまする。



 とん、とページを捲る指が最後の背表紙に辿り着いた。しばらくして香苗は隣を向き、なんとなくレースカーテンを左に寄せた。雲がぼんやり滴る春の零時過ぎ、十一階から見える景色。そこに彼女の姿がくっきりと映っている。ガラス玉のように透明で空っぽの瞳をしていた。そのことに心を動かされることもない。


 香苗は持っていたノートをちゃぶ台の上に積み重ねた。


 ちゃぶ台の上にスマホと、三冊のノートと、もう一冊、緑色の表紙のノートが並ぶ。


 香苗は、今度は緑色の表紙をしたノートを手に取った。それは全体に湿気を含んで膨張し、一番柔らかいノートだった。


 そこには、小説が書いてあるらしい。


 娘の書いた字で。


 このノートに関しては、遺書に名指しで、これ読んでみて、とまるで普段の食卓での会話のような調子で書いてあったのだ。香苗はそれをなかなか読めずにいた。


 香苗は、きっとこの小説にはもっと辛い心境が書いてあるんだろうなと思っていた。まあそうしたくなる気持ちはわかる。机の上に裸で置いてある「遺書」や引き出しを漁ればすぐ見つかる「日記」なんかに自分の本音を書くのは抵抗があるかもしれない。物語のかたちを借りれば書きやすい場合もあるかもしれないし。


 それでも、娘はツイッターやらインスタやらをやってはいなかったと記憶しつつも、きっとこの小説にはいわゆる病みツイートみたいなのが延々と書いてあるんだろう、と香苗は予想する。香苗はもちろん娘のことをよく知りたいし、ちゃんと話を聞いてあげようと思っている。たとえ自分の心が限界を迎えても、だ。ただ、病みツイートに引っ付いているような粘っこく恨みに満ちて、ついでに性を消費する感じの雰囲気に、彼女は拒否反応を起こすのだ。一度、何かの「SNS」をやってみたことがあるが、申し訳ないことに、そこにはやはり苦手な雰囲気が漂っているようだった。だから、もし緑のノートに書かれている内容がそういうものだったら、と思って読めずにいた。娘のことは大好きだけれども、生理的な反応はどうしようもできない。香苗にとってそれは、精神疾患が気合でどうにかなるものではないのと同じだった。


 しかし今、その小説を読もうとしている。なぜならもう、ぷつんと切れて、自分には情動が無くなったのだ、と感じ始めていたからだ。


 私の娘は長い文章を破綻なく、綺麗に書ける。それは他のノートを読んでみたら一目瞭然の事実だ。娘の隠されていた才能に、香苗は少し笑みが漏れて、頷く。


 彼女は無意識のうちにその小説に吸い込まれ始めていた。

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