第8章
ぼくの停学期間中、ずっと、彼女との勉強は、続いた。ぼくは、毎日、彼女と会って、勉強した。そして、日が長くなるのに合わせて、ぼくの彼女に対する気持ちも、育っていった。
停学が明ける前の日、ぼくらは、連れ立って、あの海の見える丘へと向かった。二人並んで海を見ながら、ぼくらは、二人の時間を過ごした。
明日からは、学校だ。また、いつもの日常が、始まる。いや、正確には、違う。今までとは違う日常だ。なぜなら、今は、ぼくのそばには、彼女が、いるからだ。これからのぼくの日常には、彼女という存在が、いるんだ。海から目線を上げて、空を見ると、澄んだ青が、広がっていた。
「ねえ、明日から、榊さんと一緒に、お昼を食べてもいいかな?」
少し間をおいてから、彼女は、一度俯いて、それから、顔を上げて答えた。
「うん」
もしも、幸せというものに、形があるとしたら、おそらく、それは、その時のぼくのような姿をしているに違いない。それほど、ぼくは、有頂天になっていた。
丘から見下ろす海の潮騒のように、ぼくの心は、寄せたり、引いたりしながら、さざめいていた。近くで見る彼女の横顔には、笑顔の花が、咲いていた。あでやかではないが、心に染みる可憐な花だった。どんな花も、いつかは散るものだとしても、彼女の横顔に咲いたその花だけは、守りたいと思った。
ぼくたちは、いろんな話をした。話をしながら、時折、互いの目を見て、笑いあったり、時には、黙って二人一緒に海を見ていたり。
気がつくと、太陽が西の空に沈もうとしていた。
彼女の家は、丘の下の公園から駅を越えた反対方向にあり、それほど離れていなかった。ぼくたちは、駅まで一緒に歩き、それからまた、電車が来るまでの間、二人で一緒に過ごした。別れ際に、電車のドア越しに見た彼女は、笑っていた。
ぼくは、部屋で一人で過ごしながら、彼女のことばかり考えていた。誰かと一緒にいることが、こんなにも心を弾ませるものだということを、ぼくは、知らなかった。彼女が、そばにいてくれる、ただ、それだけのことが、こんなにもぼくの生活を輝かせてくれるなんて。
次の日の朝になっても、ぼくの心は、躍っていた。いつもより早めに家を出て、駅へ向かう。ホームに着くと、全車両の乗客が確認できるように、進行方向後ろにあるベンチに座った。
やがて、電車が入って来ると、ぼくは、先頭車両から、彼女の姿を探して目を走らせた。彼女は、ぼくより二駅遠くから通学してくるから、電車に乗っていれば、見つけられるはずだった。
滑り込んでくる電車の中に、ぼくは、同じ学校の女子の制服を探した。最初の電車には、彼女は、乗っていなかった。ぼくは、昨日の自分の迂闊さを恨めしく思っていた。こんなことなら、昨日のうちに約束しておけばよかったんだ。でも、彼女を待っているこの時間さえも、ぼくには、楽しかった。
電車がホームに入ってくると、ぼくの胸は、高鳴り、期待に震える。電車が行ってしまうと、もう、ぼくは、彼女のことを考えている。彼女は、電車のどの辺りに乗っているんだろうか。どんな顔をしているんだろうか。彼女を見つけたら、どんな風に声をかけようか。同じことを何度も繰り返して考え続けていたが、決して飽きるということはなかった。
そうやって、二本ほどやり過ごした後、三本目の電車に、彼女は、乗っていた。彼女は、一番後ろの車両の後ろの壁にもたれて立っていた。そのまま所在無げに外を見ていたけど、ぼくの姿を認めると、最初、驚いたような顔をして、すぐにそれが笑顔に変わった。
電車の扉が開くと、ぼくは、彼女に近づいて行った。
「おはよう」
「おはよう」
互いに、朝の挨拶を交わす。
「いつも、この電車なの」
ぼくは、彼女に聞いてみた。
「いつもは、もう一本後の電車。学校に早く着いても、やることないから」
彼女の、いかにも彼女らしい答えに、ぼくは笑った。
「相川君は、いつも、この電車なの」
「あ、うん、そうだね」
彼女に聞かれて初めて、ぼくは、気がついた。何も、いつもより早く出てくることはなかったんだ。結局、いつも通りじゃないか。それでも、彼女を待つ時間は、それは、それで、楽しかったから、それで、よかったのかも知れない。
彼女と並んで電車に乗っていると、いつもの見慣れた風景が、別の物のように映る。まるで、自分の中の大切な部分が隣にあって、昨日まで粗いデジタル画像だった世界が、アンチエイリアス処理を施されたようだった。
こんな何でもないことに、はしゃいだり、浮かれたり。恋愛は、人を詩人に変えるというけれど、ぼくの場合は、陽気なピエロにでもなった気分だった。
だけど、不意に電車の中を見ていた、彼女の目が、曇った。なにごとかと彼女の視線の先を見ると、同じクラスの女子がいた。彼女たちは、ぼくたちの方を見ながら、ヒソヒソ話をしている。
この間の事件の後、ぼくが、彼女と一緒にいるのだから、彼女たちにしてみれば、好奇の対象になったんだろう。
「気にすることないよ。オレは、榊さんと一緒にいるのが楽しいから。言いたいヤツには、言わせとけば、いいよ」
その言葉を聞いて、彼女は、ぼくの目を見た。彼女には、それで充分だった。ぼくが、本心からそう言っていることは、彼女なら理解できたはずだ。
「うん。ありがと」
彼女は、ぼくの目から視線をはずして、うつむきながら答えた。
学校前の駅で降りると、同じ学校の生徒の姿が目立った。バス通学の生徒たちも加わって、いつもの坂道を登り始める。ぼくたち二人が、並んで歩く姿は、否応なしに、同学年の生徒たちに注目された。
一年の時、彼女と同じクラスだったヤツらは、当然としても、好奇の目が多過ぎた。この間の事件が、それほど有名になっていたのか、それとも、もともと彼女が、一年の時から注目されていたのか、ぼくには、判断がつかなかった。
教室にたどり着くと、さらに凄いことになった。教室の扉を開けて、ぼくと彼女が、入っていくと、クラス中の会話が止まり、みんなが、ぼくたちに視線を送った。
特に上田は傑作だった。目を開いて、茫然とした様子でぼくたちを見ていたけど、事態が理解できるようになってくると、その表情は不安へと中身を変えていった。
無理もない。この間のことで、きっとヤツは、要注意人物のリストの中に、ぼくの名前を書き加えたはずだ。そのヤツにとっての危険人物二人が、連れ立って登校してきたのだから、ヤツのセンサーは、イエローを通り越して、いきなりレッドゾーンに突入していたはずだ。いうなれば、アメリカとロシアを同時に敵に回してしまった、小国のような気分だっただろう。
彼女とぼくは、クラス全員の注目を浴びたまま、それぞれの席に着いた。ぼくは、カバンから教科書を取り出して、机の中にしまうと、教室の中を見渡した。小池が、隣で唖然とした表情をしていた。他のみんなも、彼女とぼくの間に視線を走らせて、何が起きているかを理解しようとしていた。
ぼくは、立ち上がって、一通りみんなを見渡した後、言った。
「何か、言いたいことでもあるのか。あったら、聞くぞ」
みんな、黙っていた。続けて、ぼくは言った。
「ぼくは、榊さんが好きだ。だから、彼女を悲しませるようなヤツがいたら、ソイツは、ぼくの敵だ」
そう言って、もう一度クラス全員に視線を回すと、彼女の姿が目に入った。ぼくには、彼女のような能力はなかったけれど、彼女が、何を考えているかはわかった。彼女は、こう考えていたはずだ。
「一体何を言い出すの?」
ぼくは、彼女に向って微笑みかけ、小さく頷いた。彼女は、顔を赤らめて、一度視線を落としたが、すぐに上目づかいにもう一度、ぼくを見た。そんな可愛らしい彼女の仕草が、愛おしかった。
クラスの反応は、ほぼ二種類に分類できた。不安そうな顔をしている者と、これから何が起きるのかという好奇に満ちた者だ。
「まるで、リトマス試験紙だな」
と、ぼくは、思った。
以前、小池が言っていた。このクラスには、ぼくを支持しているヤツもいると。
好奇の目を浮かべているのが、それだろう。全員ではないとしても、少なくとも、上田グループに不満を持っている層だと考えていい。逆に、不安そうにしているのが、上田グループの支持者だろう。
それを見て、上田たちが、ぼくとの対立を避けようとした理由が、ハッキリとわかった。見たところ、上田たちの支持者は、クラスの三分の一といったところだろうか。過半数に達していない。つまりは、彼らの支配体制は、盤石とは言い難いということだ。
もし別の有力なリーダーが現れれば、彼らのグループが、片隅に追いやられることも、十分に考えられる。彼らとしては、ぼくが、その対抗馬になる危険を感じたのだろう。
だが、ぼくは、そんなクラス内の権力闘争には、全く興味がない。ぼくの行動原理は、もっとシンプルだ。ぼくには、彼女さえいればいい。それだけだ。
もしも、クラス全員が、彼女を迫害するようなことになれば、ぼくは、何の躊躇いもなく、クラス全員を敵に回すだろう。言いたいことだけ、言い終わると、ぼくは、席に着いた。
隣で小池が、何か、言いたそうにしていたが、何をどう言っていいか分からない、そんな顔をしていた。ぼくが、席に着くや否や、クラスのあちこちで、ヒソヒソ話が始まった。上田グループの金沢と浜田は、すぐさま上田のところに駆けつけて、怯えた顔で話し始めた。島田、中根、内川の野球部トリオも、上田のところに集合して、眉間にしわを寄せながら、話に加わっていた。
そんな彼らの姿を見ながら、ぼくは、思っていた。数の力を頼って、多数という権威にしか縋ることのできない連中は、哀れなものだ。彼らは、自分の信念に基づいて行動することができないのだろう。だから、自分たちが、多数派から転落するということは、彼らにとって、何よりも恐ろしいんだ。多数派が、間違っていて、少数派が、正しいことだって、世の中にはいくらでもある。
ガリレオは、地動説を唱えたがゆえに、異端審問に送られたし、戦前、滝川幸辰は、その自由主義的言論によって、京大を追われた。自分の信念に自信があれば、たとえ自分が悪だと断定されても、貫くべき道は見えるはずだ。
でも、多数派絶対主義者たちは違う。彼らは、自分が多数派に所属することだけが、絶対の真理であり、そこから外れれば、自分の存在価値すら見失う。彼らには、信じるものがないんだ。
でも、ぼくには、ある。今のぼくにとって、最も尊い価値を持つものは、彼女だ。彼女を守るためなら、ぼくは、喜んでどんな悪にでも手を染めよう。
午前中の授業は、異様な雰囲気の中で過ぎて行った。午前中の授業がすべて終わって、昼休みになると、ぼくは、彼女のところへ行った。
「一緒に購買へ行こうか」
彼女は、ニコリと笑って、
「うん」
と言った。
二人で、まだ、あまり生徒たちの集まって来ていない購買で、目当てのパンを買うと、ぼくらは、校舎裏の杉の木の所へ行った。そうして、二人で並んで、今しがた手に入れた戦利品を胃袋の中へと引っ越しさせた。
食べ終わると、彼女は、今朝の出来事に対する尋問を開始した。とはいっても、榊検察官による追及は、穏やかで優しく、本気でぼくの罪を追及しているわけではないようだった。
「クラスみんなの前で、あんなこと、言うなんて、びっくりしちゃった。相川君って、本当に不思議な人ね」
「そうかな。ぼくは、思ったことを、そのまま言っただけだけど。でも、上田のリアクションは、傑作だったね。アイツ、これから、どうするつもりなんだろ」
「私たちは、これから、どうするの」
「どうにかして、もっと親しくなるしかないよね。クラスみんなの前で、あんなこと、言っちゃったからさ」
ぼくの言葉に、彼女は顔を赤らめた。
この間からの彼女を見て、ぼくは、気づいていた。彼女は、本当は表情豊かで、もしも、彼女の能力さえなければ、きっと、クラスの人気者になれたんじゃないかって、ぼくは思っていた。
彼女は、ぼくに聞いた。
「勉強の方は、手ごたえを感じているみたいね」
「うん。榊講師の個人レッスンがあったからね」
そう言って、ぼくは、彼女を見た。彼女は、また赤くなっていた。
「どうして、そんなことばかり、言うの」
「でも、本当に、勉強もはかどったよ。ありがとう。多分、生まれて初めて、テストを心待ちにしてる」
「じゃあ、頑張らないとね」
テストは、明日からだった。全くいいタイミングで、停学になったものだ。おかげで、テスト対策は万全だ。彼女と過す午後のひと時が、穏やかに流れていた。校舎の中の喧騒も、ここへは届かない。
ぼくは、ふと思った。彼女は、この学校でも優等生だ。そして、ぼくは、劣等生。なんて釣り合わないカップルだろう。でも、今、ぼくは思っている。彼女にふさわしい男になりたい。彼女を守れる男になりたい。そのためには、まず今度の中間テストで、結果を出さなくちゃいけない。ぼくは、本気だった。
「気合、入ってるのね」
そう言って、彼女は笑った。そんな他愛もない話をしている内に、昼休みも終わりを告げ、ぼくたちは、教室へ戻った。
教室では、上田たちが、集まって話をしていたが、ぼくたちを見ると、途端に話を止めた。彼らは、しばらく、ぼくたちを見ていたが、やがて、黙ってそれぞれの席へと散っていった。おそらく、ぼくらに対する対策会議でも開いていたのだろう。
彼らにとって、ぼくと彼女は、史上最悪のカップルだった。少なくとも、暴力少年のぼくと、何を考えているか分からない彼女を相手に、戦争を仕掛ける勇気はないようだった。
午後の授業が終わると、ぼくは、彼女を誘って、一緒に帰ることにした。そんなぼくらを、上田たちは、黙って見ていた。
二人で学校前の坂を下り、大通りを渡って、電車に乗った。どちらからということもなく、ぼくらは、昨日のあの場所、海の見える丘の上に向かっていた。昨日と同じように、ぼくらは、いろんな話をした。
「悪いけど、今度のテストでは、オレは、榊さんをライバルだと思っているから」
「じゃあ、私より、いい点取るつもり?」
「うん。全教科は、無理だけど、勉強した科目では、負けたくないな」
彼女は笑っていた。
「どうして、そんなにムキになるの?」
「だって、今のままじゃ、榊さんは、優等生で、オレは、劣等生だよね。でも、オレは、榊さんにふさわしい男になりたいから」
「そんなことのために、勉強してるの?」
「当然だよ。だって、これからも、ずっと榊さんを守りたいから」
彼女は、ぼくの言葉を聞くと少し目を伏せた。そして、小さな声で言った。
「ありがとう」
その日は、お互いの家族が心配しないように、昨日よりも早めに切り上げて、ぼくらは、家路についた。
彼女は、昨日と同じ様に、電車の駅までぼくを送ってくれた。電車の扉越しに、彼女に別れの挨拶をした時、彼女は、少し怯えたような顔を見せた。その彼女を見ながら、どんなことがあっても、彼女を守ろう。絶対に、彼女を一人ぼっちになんか、させない。ぼくは、そう決意していた。
翌日から、テストが始まった。ぼくは、いつになく真剣にテストに取り組んだ。以前のぼくなら、きっと、こう考えていたはずだ。こんな紙切れが、何になるんだろうって。でも、大事なことは、高校生のぼくらの値打ちは、テストによって、はかられるってことだ。そして、一つ一つの教科が、その項目だ。彼女にふさわしい男になると決めた以上は、決して、手抜きは許されなかった。
さすがに、世界史や生物は、勉強に力を入れてきただけあって、確かな手ごたえがあった。物理や国語も、同様だった。だが、数学は、相変わらず、暗号の羅列にしか見えない。
テスト期間中、英語の西田が、試験の監督に現れたことがある。世界史のテストの時だった。西田は、教室内を見回りながら、答案用紙にスラスラと鉛筆を走らせるぼくを見て、満足そうにうなずいていた。
テスト期間中も、ぼくと彼女は、毎日、駅で待ち合わせて、一緒に登校した。帰りももちろん一緒で、そのまま、ぼくの家に寄って、翌日のテストの勉強を続けた。そうやって、ぼくらは、テスト期間を乗り切った。
やがて、テストの荒波が、来た時と同じように、急ぎ足で去っていくと、いよいよ大天使ミカエルによる最後の審判の時が訪れた。
今まで、ぼくは、テストが返ってくる度に、一喜一憂をするクラスのヤツらを涼しい顔で見送っていたのだが、今回ばかりは、ぼくも、その中に混ざっていた。当然のことながら、英語や数学は、低空飛行を維持していたが、世界史と生物、それに、国語と物理は、成果が出た。
いちいちクラスの誰が何番かなんて、発表はないから、普通は、クラス内の順位はわからないものなんだが、その四科目の、ぼくのクラス内順位はわかった。
世界史と物理は、ぼくが、クラスの最高点だった。生物に関しては、彼女が、クラスの最高点だったんだけど、ぼくも、一点差で続いていたから、多分、ぼくが、クラスで二番手だろう。国語も、おそらくはクラスの上位グループへ食い込んでいた。
昼休みに校舎裏の杉の木の所で、ぼくと彼女は、結果報告を行ったんだけど、彼女は、ぼくの成績に、ぼく以上に喜んでくれた。
「やっぱり、相川君は、やればできるんだよ」
そう、彼女は、言ってくれた。いい点を取るというのは、ちょっとばかり気分のいいものだと、ぼくも、思い始めていた。世界史、生物、物理、国語の四教科の答案を返す時の教師の驚いた顔は、見ものだった。
でも、ぼくにとって大切なのは、教師に認められることじゃなくて、彼女にふさわしい相手になることだったから、
「よく、頑張ったな」
という教師の言葉には、何の感動もなかった。もっとも、ぼくの場合は、みんなが全教科の勉強をしている時に、四教科に絞った勉強をしていたので、これで満足してしまうのは、早計かも知れないが。
彼女は、これを機会に、数学や英語なども、一年の基礎に帰って、勉強した方がいいと言ってくれた。わからないところがあれば、自分が、教えると。彼女は、本気で、ぼくの将来のことを心配してくれていた。
「相川君は、将来のことなんて、どうでもいいと思っているみたいだけど、私は、相川君には、勉強も頑張ってほしい。だって、もし将来、相川君にやりたいことができても、ある程度の学歴がなかったら、実現できないかも知れないでしょ。もしも、相川君が、将来やりたいことが決まっていて、それが、大学とか関係ないものなら、今のままでも、いいと思う。でも、そうじゃないなら、将来の希望が、決まっていないからこそ、今、頑張っておいた方がいいと思う」
彼女は、そう言った。
彼女の意見は、もっともだと思った。極端な話、三年生になってから、医者になりたいと思っても、その時、学力が足りていなければ、諦めるしかないだろう。彼女にふさわしい人間になりたいのならば、今、妥協しちゃいけないと思う。
ぼくは、彼女と出会ってから、自分の考え方が、ずいぶん変わってきたのを感じていた。
だから、その後も、彼女との勉強は続けた。いつの間にか、ぼくと彼女は、
「相川君」
「榊さん」
ではなく、
「啓一君」
「志織」
と呼び合うようになっていた。もう、ぼくには、彼女なしの生活なんて、考えられなかったし、彼女の居なかった毎日を思い出すことさえ、できなくなっていた。
ぼくらは、学校帰りには、時々、あの海の見える丘へ行った。二人並んで腰を下ろしながら、時には、黙って海を見たり、時には、他愛もない話で笑いあったりしていた。
そんなある日のこと、ぼくは、彼女に言った。
「ねえ、今度の日曜日に、二人で遊びに行かない?」
彼女は、穏やかな微笑みとともに、振り向いた。
「どこへ、行くの?」
ぼくには、はっきりとした目的があるわけじゃなかったけど、勉強以外でも、彼女と過ごしたいと思っていただけだった。
別に思い出作りというわけじゃない。だいたい、ぼくらは、今を生きることが最優先事項で、いつか、それを振り返る日が来るかどうかなんて、考えてもいなかった。
でも、今、彼女から、行き先を聞かれて、ぼくは、戸惑っていた。
「私、啓一君が、いつも行く場所に行ってみたい」
彼女が、不意にそう言った。
「ぼくが、行く場所っていっても、時々、古本屋に行ったりするぐらいで、大して趣味なんてないよ」
「それでも、いいよ」
そんなわけで、ぼくたちは、日曜日に、ぼくの行きつけの古本屋へ行くことになった。
日曜日の朝十時に、ぼくの家の近くの駅で、待ち合わせた。ぼくは、ホームのベンチに座って、彼女を待っていた。
やがて九時四十七分発の電車が、ホームに滑り込んでくると、ぼくは、電車の中に彼女の姿を探した。彼女は、通学の時と同じように、一番後ろの車両に乗っていた。彼女の姿を見つけると、ぼくは、ドアが開くのを待つのももどかしく、電車に飛び乗った。
彼女と二人、電車の椅子に並んで座った。彼女が、そばにいてくれさえしたら、ぼくには何だってできる様な気がしていたし、ぼくたちのことを、誰が、どんな風に思っていても、そんな障害は、簡単に乗り越えられると思っていた。
ぼくたちは、電車に乗って、そこから二つ目の駅を目指した。電車を降りると、ぼくたちは、駅前の商店街の中へ入って行った。
日曜日だというのに、商店街は、閑散としていた。いや、日曜日だから、閑散としていた、と言った方がいいだろうか。八百屋や魚屋、あるいは、和菓子屋だとか、喫茶店などが軒を連ねる商店街では、日曜日よりも、平日の方が、人出を見込めるかも知れない。
その商店街の奥の、目指す古本屋へ辿り着くと、ぼくたちは、二人で並んで品定めを始めた。店には、二つの入り口があり、入口を入ると、奥のカウンターに向かう狭い通路の両側に、本棚があって、中には、ぎっしりと本が詰まっている。
右の入り口から入ると、高校生の財布には不似合いな、単価の高いハードカバーが並んでいて、左の入り口から入ると、安い文庫本や新書が並んでいた。
ぼくは、彼女を案内して、左の入り口から、店の中へ入って行った。奥では、いつものお婆さんが、店番をしている。店内には、ぼくらの他には、誰もいなくって、ゆっくりと本が選べそうだった。
彼女は、物珍しそうに、本棚に並んだ本の背表紙を物色し始めた。ぼくも、彼女と一緒にその日の獲物を探し始めた。彼女は、これは、と思うタイトルの本があると、手に取って、表紙や裏表紙をチェックし始めた。何度かそうやっているうちに、ふと気づいたように、ぼくを振り向いた。
「これって、値段は、どこに書いてあるの?」
彼女は、小声でぼくに尋ねた。ぼくは、思わず笑ってしまった。
ぼくのようなベテランなら、わかりきったことだが、初心者には、わかりづらいかも知れない。ぼくは、彼女が持っている本の裏表紙をめくると、最後のページの上の方を指差した。
「ここだよ」
そこには、数字が書かれていて、その数字が本の値段だった。彼女は、新しい発見をした子供のような、無邪気な可愛らしさで、目を輝かせた。
「ああ、そうなのね。私、気がつかなかった」
「仕方ないよ。初めてだからね」
ぼくは、彼女のそんな反応を、いじましく感じながら、言葉を添えた。
ぼくは、この店では常連なので、たいていの在庫は頭に入っている。だから、頭の中の在庫リストと照らし合わせながら、今日の新入荷を探し始めたけど、彼女にとっては、初めての店だ。一冊一冊手に取りながら、表紙のデザインを確かめたり、文庫本の裏に記されたあらすじなどを読んでいた。
古本屋めぐりの楽しさは、こんなところにある。表紙のイラストの美しさに目を奪われたり、あらすじから本の内容を想像してみたり、あるいは、手に取った本の厚さを確かめながら、どの位の時間で読み終えるだろうかと想像してみたり。時には、ページを開いて、最初の方を読んでみたり。
本との出会いは、人との出会いにも、似ている。そうやって、吟味に吟味を重ねて選んだ本でも、人生の多くの局面で、期待と結果が一致しないように、思わぬ肩透かしを食らうことがある。逆に、さほど期待していなかった本から、思わぬ感銘を受けることもある。そうした予想外の展開も、古本屋の醍醐味の一つなんだ。
彼女は、ことのほか、古本屋が気に入ったようで、一心に本を探していた。当然のことながら、常連のぼくは、彼女が、まだ文庫本の棚の端の方を調べている間に、文庫本や新書のチェックは、済んでしまった。なので、彼女に一声かけて、反対側のハードカバーが並んだ通路の方へと、場所を移した。
普段は、あまり、こちらの棚は見ていないので、結構な時間つぶしにもなった。
そうして、思い思いに本を探している内に、ぼくは、ハードカバーの棚に、少し気になる本を見つけた。シモーヌ・ウェーユという人の本だ。なぜ、その本が気になったのか、と聞かれると、上手く説明できない。でも、出会いなんて、そんなものなのかも知れない。
なんでもない出会いが、自分の運命を変えてしまうことだってある。そう、ぼくと彼女の出会いのように。その時のぼくには、そのシモーヌ・ウェーユという人の本が、気になって仕方がなかった。それで、少しページをめくって、中身を拾い読みしてみた。
どうやら、このシモーヌ・ウェーユの晩年の文章や死の直前の書簡を収めた本らしい。少々値は張るが、ぼくの興味をひきつけてやまない、何かが、あった。
ぼくが、その本を手に取りながら、頭を悩ませていると、向こうの通路から、彼女が、一冊の本を持ってやってきた。ぼくが、悩んでいるのに、すぐに気付いたようで、と言っても、彼女が、気付かないはずもなく、ぼくの手にした本をのぞき込んできた。
「悩んでるみたいね」
「うん。値段が、高いからね」
彼女は、ぼくの目を見て、クスクスと笑った。
「でも、悩むってことは、欲しいってことだよね」
図星だった。彼女のその言葉が、ぼくの背中を押した。
「そうだね。ぼくは、これを買うよ。志織は、もう決めたの」
「うん、これにする」
彼女の手元を見ると、一冊の文庫本があった。タイトルは、『オッド・ジョン』とあった。
ぼくらは、それぞれの戦利品を抱えて、カウンターに座っているお婆さんの所へ向かった。お婆さんは、ゆっくりとした仕草で、包み紙を取り出して、ぼくらの選んだ本を器用に包み始めた。
彼女は、お婆さんの様子を興味津々といった様子で見ていた。無理も、ないだろう。普通の本屋なら、文庫本には、カバーをつけて渡されるし、ハードカバーなら、袋に入れておしまいだ。多分、こういうのは、彼女にとっては、初めての体験だろう。本を受け取って店を出ると、もう一時を回っていた。
時間が時間なので、ぼくらは、昼食をとることにした。
「何か、食べたいものある?」
ぼくは、彼女に聞いた。
「何でもいいよ。私、好き嫌いないから、啓一君の食べたいものでいい」
「だったらさ、そこにトンカツ屋さんが、あるんだけど、それで、いいかな?」
そのトンカツ屋は、商店街の中ほどにあり、手ごろな値段の定食を出していた。
「うん。それで、いい」
ぼくは、彼女と一緒に、五百円という、今時珍しい値段で、トンカツ定食を出している店に入った。
この店は、老夫婦が、経営しており、隣のクリーニング店とは、親子のようだった。儲けようという気は、あまりないらしく、年季の入った店を二人で切り盛りしていた。ぼくたちは、値段に相応しい肉を揚げて作られたトンカツを、ご飯とみそ汁で、腹に収めた。
空腹に別れを告げて、店を出ると、彼女は、
「ねえ。ここ、海から近いよね。少し歩こうか」
そう言って、彼女は、ぼくの服の袖をつかんだ。
高校生に過ぎないぼくの懐具合は、およそ潤沢とは言い難く、かといって、彼女との時間をここで終わらせたくないぼくにとって、彼女の提案は渡りに船だった。
ぼくらは、そこから、海に向かって歩き出した。駅前の商店街を駅とは反対の方角へ向かうと、すぐに人家は途絶え、田んぼが広がっていた。
誰もいないその道を歩きながら、彼女の手を取ると、彼女も、ぼくの手を握り返してきた。指と指とを絡ませながら歩くその道は、まっすぐに続いていて、海から吹きつける風が、ぼくらとすれ違って行った。触れ合う肩と肩が、優しいリズムを刻んでいた。
「私、こうして歩くの、大好き」
彼女が、優しく呟いた。
「ぼくは、志織と一緒にいるのが、大好きだ」
ぼくの言葉に彼女は、笑顔を返すと、空いた手で、ぼくの腕を掴み、体を寄せた。
「ねえ、志織」
海へと続く道を寄り添い歩きながら、彼女の名前を呼ぶと、彼女は、
「何?」
と言って、ぼくの顔を覗き込んだ。
「実はさ、志織のために、短歌を作ったんだ」
彼女は、少し驚いた顔をした。
「えっ。短歌を?」
「うん、短歌」
確かに意外だろう。今どきの高校生が作るラブソングといえば、ロックとかヒップホップとか、そんな種類のものになるだろう。もっとも、普通は、それすら、難しいんだろうけど。
好きな相手に短歌を送るなんて、平安時代の貴族じゃあるまいし、彼女が、ビックリするのも仕方ない。でも、文字として書いた時に、何のリズムも、味わいもないものは、嫌だった。ぼくが、彼女に寄せる思いの優しさを語るには、短歌の方が、しっくりきた。
「どんな短歌?」
そう問いかける彼女に、ぼくは、微笑で答えながら、歌った。
あおぎ見る
うす紅にふと思ふ
君がほほ笑み
散ることなかれ
彼女は、驚きのあまり、少し口を開いたまま、ぼくを見ていた。彼女の歩みが、少し遅くなったのを感じていた。
「それ、啓一君が、作ったの?」
「そうだよ。もう桜の季節じゃないけど、出会った時の志織を思い出しながら、作ったんだ。どう、気に入ってくれた?」
彼女の頬が、少し紅に染まっていた。そんな彼女の姿を見て、ぼくは、胸の辺りから温かいものが、こみ上げてくるのを感じていた。
「優しい短歌ね。啓一君って、本当に、すごいよね。そんな歌が、詠めるんだから」
彼女の言葉に、ぼくは、嬉しくなったけど、それでも、こんな短歌では、彼女に寄せるぼくの思いには、足りていなかった。
もっと、もっと、優しくなりたかった。もっと、もっと、彼女にふさわしくなりたかった。もっと、もっと、深く彼女を愛せる自分になりたかった。海へと真っすぐ続く道の中で、ぼくらを包み込む風よりも、もっと、もっと、優しく彼女を抱き締めたかった。どんな言葉でも足りないほどに、彼女への思いが募っていた。
海へは、十五分ほどで着いた。波打ち際には、小さな砂浜があり、ぼくらは、そこに腰を下ろして、遠い海から波が運んでくるささやきに耳を澄ませた。
こうしていると、この彼女と過ごす時間の他には、何もなくて、このまま、こうして一生を終えてしまっても、いいような気がした。彼女が、こうして、そばにいてくれるなら、それ以外の一切合切が、どうでもいいことに思えた。
「好きだ、志織」
ぼくが、そう言うと、彼女は、目を細めて、ぼくを見た。
「うん。私も」
彼女が、かすかに答えた。ぼくは、絡めた指をほどいて、彼女の肩を抱き寄せた。彼女は、ぼくに寄り掛かると、頬をぼくの肩に押し当てた。
潮騒が、ぼくらの耳をなでて、通り過ぎて行く。ぼくは、彼女の頬にそっと手をあてた。やわらかな頬のぬくもりが、ぼくの心を包んだ。親指で彼女の頬をなでると、彼女は、ぼくの手に自分の手を重ね合わせた。
今、この瞬間が、ぼくのすべてだった。今、ここに、生きる全てがあり、ここに、この世の真実の全てがあった。ぼくは、彼女の顔に唇を寄せて、彼女の唇と重ねた。ぼくたちは、その日、生まれて初めてのキスをした。




