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志織  作者: 越智千尋
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第7章

 翌日、ぼくらは、ぼくの家の近くの駅で、待ち合わせた。家を出る時に、図書館で勉強して来ると言うと、両親は、一瞬、ベジタリアンのライオンを見つけた様な顔をした。まあ、でも、基本放任主義の両親は、それ以上は、何も言わなかった。

 家を出て、駅に向かう。駅では、進行方向一番後ろにあるベンチに腰を下ろして、彼女を待った。

 彼女は、電車の一番後ろの車両に乗っていた。電車が止まろうとする時、彼女は、扉の前に立って、降りる準備をしていたけど、ぼくの姿を見つけると、そのまま、電車の中で待っていた。扉が開くなり、ぼくは、彼女の所へ近づいた。

 そういえば、ぼくは、はじめて彼女の私服姿を見る。水色のシャツに紺のスカートという地味な姿の彼女は、ぼくの目には、とても輝いて見えた。彼女は、少し自分の服装を恥ずかしがるような素振りを見せたけど、ぼくの目を見ると、はにかんだ微笑みを浮かべた。ぼくは、といえば、お気に入りのアロハにジーンズといういでたちだった。

 以前、たまたま休みの日に会ったクラスメートに言われたことがある。休みの日には、ぼくは、ヤクザみたいな格好をしていると。別に、ことさら不良ぶった格好をしているわけじゃないんだけど、自分の感性で服を選ぶと、世間一般の高校生とは、かけ離れた格好になってしまうようだ。

 地味な女の子とヤクザみたいな男の子が、周りの乗客の目に、どう映ったかは知らないけど、ぼくらは、他人の目を気にすることもできないほど、自分たちの世界に夢中になっていた。

 電車で学校をやり過ごして、二つ目の駅に図書館はあった。図書館のある駅は、改札が片側にしかなく、それは、図書館と反対側だった。

 ぼくたちは、改札を出ると、駅の近くの県道に出て、そこから踏切を渡った。踏切を越えて、一本道を進んでいくと、緩やかな坂道に出る。その坂を登りきった所に、広場があった。広場の中央には、池があり、その周りには円形にベンチが並んでいる。

 この広場には、桜の木が十本ほど植えられていて、春になると、花見の客も訪れる。でも、今は、桜の季節ではないから、人影も、まばらだった。その広場に隣接して、図書館と公民館がある。

 図書館といっても、この寂れた町では、さほどの蔵書数は望めない。一階には、子供向けの本、絵入りの「ピーターパン」や「家なき子」といった童話、また、「怪人二十面相」といったミステリー物が並んでいる。かくいうぼくも、子供の頃は、親に連れられて、ここをよく訪れたものだ。ただし、今はもう高校生になっているので、当然、ぼくらは、二階の大人のコーナーへと足を向けた。

 館内には、あまり人もいなくて、ゆっくりと勉強できそうだった。ぼくらは、隅の方の空いている席に腰を下ろして、さっそく勉強を始めた。

 ぼくは、徹底的に暗記科目に集中して勉強した。暗記科目なので、彼女に教えてもらう必要もなく、ぼくらは、それぞれの勉強に集中した。時折、彼女が、自分の勉強の合間にぼくの手元を見て、進行状況を確認していた。そんな時、ふと目が合うと、彼女は、ぼくに微笑みかけた。

 そうして勉強を続けているうちに、お昼が近付いてきた。ぼくたちは、弁当を持ってきていなかったけど、駅前にはコンビニがあったので、特に問題はなかった。ただ、お昼時の混みあったコンビニに入るのは、煩わしかった。そんなことを考えていると、彼女が、不意にぼくを見た。

 彼女は、

「お昼を外して、コンビニに行こうか」

 と言った。言うまでもないことだけど、ぼくの考えは、彼女に筒抜けだった。

「そうだね。お昼が過ぎて、空いた頃に行こうよ」

 ぼくは、彼女に答えた。

 ぼくたちは、そのまま勉強を続けて、時刻が一時を回った頃に、いったん荷物をカバンの中に片付けて、駅前のコンビニへと向かった。来た時とは逆に、なだらかな坂を下って、駅へと向かうと、踏切を渡ったすぐの所に、コンビニがあった。

 ぼくは、パンと紙パックの牛乳を買い、彼女は、おにぎりを二個とペットボトルのお茶を買った。それを抱えて、図書館脇の広場へと、二人で、向かった。池の脇のベンチに腰を下ろすと、ぼくらは、昼食をとり始めた。休みの日の広場は静かで、こうした場所で昼食をとるのは、解放感があった。

 お昼を食べ終えても、ぼくらは、とりとめもなく、その場所で過ごしていた。

「ねえ、ぼくさ、物理と国語の勉強もしようと思うんだけど」

 彼女は、ぼくの目をのぞきこんだ。多分、それだけで、彼女には、十分だっただろう。

「定期テストなんだし、国語なんて、暗記科目みたいなもんだよね。授業中に先生が黒板に書いたことを覚えれば、いいだけだし。あと、物理は二年生になってから始めた科目だから、今からでも、追いつけると思うんだ」

「確かに、そうね。世界史や生物だけだと、そんなに時間掛からないかも知れないね」

 彼女も、ぼくと同意見のようだった。そんなわけで、ぼくは、テスト勉強の計画を少し変更することにした。実際、暗記科目二科目だけだと、時間を持て余してしまう。どうせなら、その空いた時間を他の勉強にも、振り向けてみようと思ったんだ。

 ぼくが、そんなことを考えている時、広場の脇から、親子連れが現れた。歌を歌いながら歩いてくる女の子は、まだ幼く、両親も若かった。女の子は、時折、両親を振り向いて、微笑んでいた。両親も、そんな娘を愛おしげに見つめている。傍から見ていると、幸せそうな家族連れだった。

 ぼくは、微笑ましい気持ちで彼らを見ていた。ふと気がついて、彼女を見ると、彼女はぼくと違って、沈んでいるように見えた。

「どうしたの? 気分でも悪い?」

「ううん。そうじゃないの」

 彼女は、言葉少なに答えた。でも、ぼくの目には、さっきまでと違って、彼女は、落ち込んでいるように見えた。

「でも、何かおかしいよ。本当に何でもないの?」

 重ねて問いかけるぼくに、彼女は、静かに答えた。

「あの両親の心が、見えちゃったの」

 見たくないものが、見えてしまった、ということだろうか。彼女は、続けた。

「あの子ね、今、小学一年生なんだけど、歌うことが好きなの。でも、両親は、歌なんて、将来、何の役にも立たないことだから、何とかして、それを止めさせて、勉強の方に、あの子の気持ちを振り向けようって、考えてるの」

 ぼくにも、何となく、彼女に見えたものが、何なのか、わかってきた。

「あの子は、歌うことが大好きなんだけど、両親は、それは、あの子の幸せによくないって、考えているの」

 ぼくには、あの子の両親が、なぜそんなことを考えるのかが、理解できなかった。彼女は、そんなぼくの疑問に答えるように、話を続けた。

「あの子の父親はね、昔は、ミュージシャンだったの。でも売れなくて、貧乏だったのね。それで、あの子が生まれた時、病院代も払えずに、ギターや楽譜を売って、お金を作ったのよ。そんなことがあって、夢をあきらめる決心をして、普通の会社に就職して、今の暮らしを見つけたの。ささやかだけど、家族が一緒に暮らしていける今の生活をね。きっと、そんな経験をしてきたからだと思うの。あの子の両親は、夢をあきらめることで、人間は幸せになれるって思ってしまったのね。ああして、子供の歌を聴きながら、あの両親は、いずれあの子に歌うことを止めて、大事な勉強を頑張ってほしいと考えているわけ」

 彼女が、ふさぎ込んでいるわけが、ぼくにも、見えてきた。

 何て皮肉な話なんだろう。夢をあきらめることで、ささやかな幸せを手に入れた両親が、子供のせめてもの幸せのために、夢をあきらめることの大切さを教えようとしているなんて。

 でも、多分、あの両親にとっては、それは自分たちの人生から学んだ教訓なんだろう。そして、その教訓は、彼らの人生にとっては、正しかった。でも、あの子の人生にとっても、それは、正しい教訓なんだろうか。

 ふと、ぼくは、盲人と象の話を思い浮かべていた。昔、六人の盲人が象に触った。鼻を触った盲人は、木の枝のようだと言い、耳を触った盲人は、扇の様だと言った。牙を触った盲人は、パイプの様だと、足を触った盲人は、柱の様だと、腹を触った盲人は、壁の様だと、尾を触った盲人は、綱の様だと、それぞれ言った。六人の盲人は、みな同じ象を触ったのに、それぞれ別の見解を主張した。

 ぼくらは、自分の目に触れる世界だけを見て、世界についてあれこれと語るけど、それはまるで、この盲人たちの様なものじゃないのだろうか。あの両親は、人生という象に触れた。そこには、こう書かれていたんだ。

「人は、幸せになるためには、夢をあきらめなければならない」

 だから、あの両親は、子供には、夢をあきらめてほしいと願った。でも、それを非難できるだろうか。あの両親が、夢をあきらめることで、今のささやかな幸せを手に入れたことは、まぎれもない事実なんだ。

 でも、とぼくは考えた。それは、あの子の人生でも、真実なんだろうか。きっとそれは、誰にもわからないだろう。夢を叶えることで幸せになった人は、あの両親を非難するだろう。けれど、あの両親と同じように、夢をあきらめることで幸せになった人は、そんな非難をどう受け止めるんだろうか。

 ぼくたち、ちっぽけな人間は、結局、本当の意味での世界など、理解し得ないのではなかろうか。世界について、何かがわかったと思っているのは、ちっぽけな人間の幻想なのかも知れない。その幻想の中で、あの両親は、夢をあきらめることが、幸せをつかむために、一番大切なことだと思ってしまったのかも知れない。

 だが、それが、彼らの経験に基づいている以上、誰が、それを覆せるというんだろう。

だいたい、今、ここで、ぼくらが、あの両親に論争を吹っ掛けたところで、異常者扱いされることは、目に見えている。そもそも、人の心の中を見通せる人間なんて、いない。きっと彼らは、そう考えている。ぼくは、自分の無力を感じていた。

 それと同時に、彼女が、今まで何を見てきたか、その一端に触れてしまったことにも、気づいていた。こんなことが、四六時中見えてしまったら、人間は、どうやって正気を保っていけばいいんだろう。

「見たくないものを、見ずに済ませられるから」

 あの日、彼女は、寂しく、そう言った。その言葉が、胸に迫ってくる。ぼくたちは、しばらく、そこで、何も言えずに座り続けていた。

 ひとしきりの沈黙が続いた後、不意に彼女は、

「勉強に戻ろうか」

 と言った。

 その言葉を合図にぼくらは、図書館へと戻った。ぼくは、陰鬱な思いを傍らにどけて、とりあえず、勉強に精を出そうとした。

 ぼくは、多分、はじめて、彼女が、今まで背負ってきたものの一端を知った。こんな風に、他人の生活や心の中の思いがわかってしまったら、人は、どう反応すればいいんだろう。夢をあきらめることが幸せだなんていう、そんな考え方が世の中にあることさえ、ぼくは、知らなかった。そして、それを諌めることも、できないなんて。

 あの子は、大人になったら、どんな風になってしまうのだろう。両親の考え方を知って、反抗するだろうか、それとも、人生にあきらめることを覚えてしまうのだろうか。

 いずれにせよ、この世の中には、人の心が読める人間なんて、いない。それが、世間の常識だ。だから、それに立ち入ることも、できない。あるいは、人生なんていうものは、なるようにしかならないものだから、すれ違ったまま、忘れてしまえばいいんだろうか。

 誰かの幸せを願う、その善意の中に潜む悪意といったものを、ぼくは、初めて知った。そして、それは、善意に基礎を置いているがゆえに、どうしようもなく、人を縛り付けてしまうのだろう。ぼくは、テスト勉強をしながら、さっきの親子のことを考え続けていた。

 午後五時を過ぎた頃、彼女は、手を止めて、ぼくに言った。

「今日は、これぐらいにしようか?」

 彼女の言葉を聞いて、ぼくも、手を止めた。

「そうだね。だいぶ勉強も進んだし、今日は、ここまでかな」

 そう言うと、ぼくは、彼女とともに、帰り支度を始めた。ぼくたちは、黙って今朝来た道を駅へと向かっていた。

 彼女が、突然話し始めた。

「ごめんなさい。私が、余計なこと言ったから、相川君の勉強まで、邪魔しちゃって」

「いや、そんなことは、ないよ。確かに、ちょっとショッキングな話だったけど、今まで、榊さんが、背負ってきたものが、ぼくにも、少しだけわかった。それだけでも、十分だよ。それに、これは、大切な問題なんだと思う。ぼくには、何か、はっきりした答えがあるわけじゃないけど、でも、これからも、ずっと考えていかなければならないことだと思う」

 彼女は、そんなぼくの横顔をずっと見ていた。

「それより、榊さんは、平気なの?」

「うん。私は、もう、慣れちゃった。いつものことだから。だから、普段は、見なくていいものは、見ないようにしてるの」

 そんな話をしているうちに、ぼくらは、駅に着いた。

 電車に乗っても、彼女は、誰とも目を合わせないようにしていた。普通の人にとっては、何でもない日常が、こんな風に、彼女の心を傷つけている。そのことを、ぼくは、改めて思い知らされたような気がしていた。

「ねえ、これからは、今日のことも含めて、色んなことを二人で考えていこうよ。そうしていけば、ぼくらにも、何か答えが見つかるかも知れないし。今日みたいなことがあったら、一人で胸の内にしまっておかないで、ぼくにも、話してよ」

 そんな風に言うと、彼女は、すがるような目で、ぼくを見た。

「うん。ありがとう」

 彼女は、そう言った。

 きっと、こんな風に誰かと思いを分かち合うことも、彼女は、今まで、できなかったに違いない。でも、これからは、ぼくも、一緒だ。ぼくは、彼女の苦しみも、分かち合っていきたい。それが、ぼくが、彼女のためにできる精一杯だから。ぼくは、そんな風に考えていた。

 やがて、電車が、ぼくの家のある駅に止まると、ぼくは、一人電車を降りた。扉が閉まってからも、彼女はぼくを見ていた。彼女が、扉越しに小さく手を振るのが見えた。ぼくは、そんな彼女に何度も頷きながら、見送った。

「もう君は、一人じゃない、ぼくは、いつだって、君のそばにいる」

 そう叫び出したくなった。それと同時に、彼女の悲しみを救えない自分の無力にも、苛まれていた。

 家へ帰ると、夕食の支度が整っていた。ぼんやりと今日のことを考えながら、夕食を済ませた。リビングでくつろぎながら、ぼくは、昼間のことを両親にも聞いてみようと思った。あくまでも例え話として、昼間出会った家族連れの話を両親にした。

 両親は、ぼくが話し終わるまで、黙って聞いていた。

「確かに、難しい問題だな。親には、親の人生哲学があり、子供には、子供の希望がある。それが、噛み合っていればいいけど、噛み合わなかった場合には、不幸だよな」

 父親が言った。

「一つ、こんなことを考えてみないか。ここに、『無理心中』という言葉がある。どういう意味か、わかるか?」

 父親が聞いてきた。

「『無理心中』って、子供を殺して、自分も自殺するとか、そういうのだろ」

「ああ、そうさ。でも、問題なのは、『無理心中』という言葉なんだ。子供を殺せば、それは殺人なんだ。犯人が、その後、自殺するかしないかは、問題じゃない。子供を殺した時点で、それは、殺人なんだよ。なのに、この殺人を世間では、『無理心中』と言うんだ。そして、多くの人が、犯人に同情する。子供を殺さざるをえないほど、追いつめられていたのかってね。でも、子供は、親とは別の一人の人間なんだ。親を亡くして、施設に引き取られたとしても、その子が、将来幸せになれないというわけじゃない。自分がどれほど人生に絶望したといっても、子どもの未来を摘み取る権利なんて、誰にもないんだ」

 そう言って父親は、いったん言葉を切って、また続けた。

「子供を殺せば、当然非難される。ところが、それが『無理心中』というと同情を集める。法律学者として言わせてもらえば、これは、どちらも同じ殺人なんだ。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというわけでもない。要は、まだ、俺たちの暮らしている社会は、親と子供の人格的独立が、はっきりしていないということなんだ」

「ていうことは、親は、子供を支配する独裁者ってこと?」

「そこまで極端な考えを持っている人は、珍しいと思うよ。ただ、その境界線が、曖昧なだけだよ」

「つまり、誰も、その境界線をハッキリさせていないってこと?」

「少し違うな。その境界線を引くのは、この社会に暮らしている一人一人の役割なんだ。誰かが、勝手に決めるものではない。世の中の多くの人が、無自覚のまま、その境界線を曖昧にしているんだ。だって、『無理心中』は殺人だってことを、声高に主張する人なんてあんまりいないだろう。実際テレビに出ている文化人とか、知識人だって、無自覚に『無理心中』って言葉を使っているじゃないか。まあ、所詮、俺たちの暮らしている社会が、その程度のものだってことだよ」

「じゃあ、欧米では、違うってこと」

「たいした違いがあるわけじゃないよ。ただ、親子関係の在り方が、文化によって、違うってことだな。アメリカ人だって、日本人の視点から見ると、子供に対して独裁者のように振舞うことも、多いよ。それは、親子関係だけに限らないさ」

 父親は、そう言いながらも、笑顔を浮かべて、ぼくを見ていた。でも、その笑顔の中の目は、意外に思えるほど、真剣そのものだった。

「なあ、啓一」

 父親は、しばしの沈黙の後、そう切り出した。

「お前は、欧米は進んだ社会で、日本は遅れている。つまり、世界のどこかに行けば、こことは違う理想郷があって、そこでなら、問題は起きないって、考えていないか」

 確かに、父親の言う通りだった。ぼくは、心のどこかで思っていた。自分の目の前にある問題っていうのは、ここだけの問題であって、自分の考えが正義になる場所が、世界のどこかにあるんだって。父親に指摘されてはじめて、ぼくは、そのことに思い至った。

「なあ、啓一。世界には、いろんな国があって、いろんな文化がある。日本文化に特有の問題は、よその国に行けば逃れられるだろうさ。でもな、そこには、その文化に特有の問題が、また、あるんだよ。目の前の問題から逃れて、どこかに行けば、その問題からは逃れられる。けれど、そこでは、思いもよらなかった別の問題に直面することになる。そういうものさ。お前が、理想とか、社会のあるべき姿を探しているなら、この世のどこかに理想郷があって、その後を追いかけていればいいっていう発想は、捨てた方がいいな。それは、楽な考え方だ。自分で理想の社会のあり方を追及する必要はなくて、誰かの真似をしていればいいからな。でも、それでは、真実には、たどり着けないよ」

 父親の話は、ぼくには大き過ぎて、よくわからなかった。

「つまり、そういうことすべてを、ぼく自身が、結論を出さなきゃいけないってこと?」

「そういうことだな。大事なことは、誰かの言葉を、オウムのように繰り返すことじゃなくって、自分の頭で考えるってことさ」

 自分の頭で考える。考えてみれば、これほど難しいことはなかった。ぼくは、話のついでに、以前からの疑問の一つを、父親にぶつけてみることにした。

「あのさ、もうひとつ、聞きたいことが、あるんだけど」

「うん。何だ?」

 父親が、聞き返してきた。

 ぼくの疑問は、この街にある原子力発電所のことだった。ぼくらの街は、地方都市といっても、決して豊かな街じゃない。さしたる産業があるわけでもなくて、つまりは、寂れゆく街ということになる。

 そんな街の状況を改善するために、十数年前に、原子力発電所を誘致したんだ。当時は、反対派と賛成派とで、街を二分する論争が沸き起こった。最終的には、賛成派が勝って、この街のはずれに、原子力発電所が建設された。もっとも、今は、その原子力発電所は、使われてはいない。けれど、原子力発電の再開を求める人たちだって、いる。

 現に、この町の原子力発電所の原子炉には、今でも、燃料棒が入っていて、いつでも再開できるようになっている。

 ぼくが疑問に思うのは、原子力発電所の安全性だ。技術に、絶対はない。実際、人類の英知を結集した数々の技術も、事故と無縁なものはない。だから、原子力発電所がいくら安全だといわれても、その安全性は、絶対ではないはずだ。

 それだけじゃない。もしも、その原発を狙ったテロが起きたら、どうするんだろう。今、世界じゃあ、テロが幅を利かせている。世界は、平和になったと人は言う。だけど、その平和の中からはじき出された人は、テロという手段で、この世界そのものを、危機に陥れようとしているんだ。もしも、そんな連中が、原発をテロの目標にしたら、どうなるんだ。原発推進派は、そのことを考えているんだろうか。

 いずれにせよ、原発は、危険な存在であることは、疑いない。なのに、なぜ、そんなものを建設する必要があるのか、ということだ。

 ぼくの話を黙って聞いていた父親は、ぼくが、話し終えると、静かに口を開いた。

「なるほどな。それは、本当に難しい問題だよな。お前は、原発に反対なんだろう」

「当然だよ。絶対に安全だとは、言えないはずだし、事故が起きたら、この街の問題だけでは済まないからさ。父さんだって、原発には、反対していたんだろ」

「ああ、反対していたよ。でもね、結局、賛成派が勝ったんだ。でも、なんで賛成派が勝ったか、わかるか?」

「それで、得するヤツがいるからだろう。それに、反対派には、権力がなかった」

 父親は、いつになくまじめな顔で、話し始めた。

「権力か。でもな、啓一、考えてもみろ。フランス革命の勝利者は、権力を持たない民衆の方だったんじゃないか。権力を持った側が勝てば、それは、圧政だ。権力を持たない側が勝てば、それは、革命だ。権力の有無が勝敗を決めるのならば、なぜ、世界の歴史には、これほどたくさんの革命があるんだ」

 父親の言うことは、もっともだった。ぼくは、反論する言葉を失った。

「啓一、負けた理由に権力を挙げるのは、簡単なことだ。でもな、それは、負けた真の理由から目をそらせるための、都合のいい言い訳にしか過ぎない。お前は、常識に納得できないと言っていたが、政治は、権力のシーソーゲームで決まるという、常識的思考の中に、逃げ道を探していないか」

 父親の言葉が、圧倒的な説得力を持って迫ってきた。

「啓一、よく考えてみろ。賛成派が、原発の危険を全く知らなかったとでも思うか。彼らは、知っていて、なお原発の誘致に賛成したんだよ。なぜか、わかるか。それは、この街に産業がないからさ。ここで生きていくためには、危険とわかっていても、原発を誘致せざるをえなかったんだよ。だから、反対派が、いくら原発の危険性を訴えても、賛成派は、意見を変えなかったんだ。そもそも、そんなことは、彼らだって、知っていたからさ。もし、本当に原発の建設を阻止したかったら、それに代わる産業を作り上げなければならなかったんだ。原発反対を訴えることは、たやすいことだ。だが、真の意味で、問題解決を図るならば、原発に頼らなくても済む、この街に生きる新しい生活の在り方を示さなければ、いけなかったんだよ。父さんたちには、それが、出来なかった。だから、負けた。父さんたちに欠けていたのは、権力じゃない。この街で原発に頼らずに生きていく知恵だったんだ。残念ながら、反対運動に加わった、多くの反体制派の知識人や文化人の中にも、それができる人間はいなかった。彼らは、反体制派のヒーローになろうとはしたが、この街に生きる人々の暮らしのことは、考えていなかったんだ。啓一、もし、お前が、将来、行動を起こそうとするなら、ただ反対だけを唱えるのではなく、誰もが幸福に暮らせる、社会の在り方そのものを作り上げなければ、だめだ。それで、いつか、無力だった父さんたちを越えていかなければ、な」

 父親は、静かな笑顔で、ぼくを見ていた。父親は、自分を無力だと言ったが、ぼくは、自分が、それ以上に無力だと感じていた。世間を笑っていたぼく自身が、まだ世間を知らない子供にしか過ぎなかったと、思い知らされた。

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