第8話 ミカゲ・ゲートモール潜入買い物作戦
ミオ・ヴェルノワールが川澄家に転がり込んでから一週間と少しが過ぎた土曜の朝、川澄亮間はリビングの床に広がった衣類の山を前にして、世の中には放っておけば自然に解決する問題と、放っておくほど洗濯かごの底からじわじわ現実味を増してくる問題があるのだと学んでいた。
問題の中心にいるダークエルフは、今日も亮間の高校ジャージを羽織り、下はコンビニで買った黒いハーフパンツ、髪は寝起きのまま銀色のしっぽみたいに後ろで雑に結び、本人いわく「休日の標準戦闘服」らしい格好でソファにあぐらをかいていた。見た目だけなら、古代の森から出てきた神秘的な影の一族の少女という説明で通りそうなのに、膝の上にはゲーム機のコントローラー、テーブルの上にはしょうゆ味のカップ麺、足元には脱いだ靴下が丸まっており、神秘という言葉は川澄家の生活感に敗北していた。
「そろそろ限界だな」
亮間が洗濯かごを見下ろしながら言うと、ミオは画面から目を離さずに首を傾げた。
「何が?」
「お前の服と生活用品」
「ボクはまだ戦えるよ」
「そういう問題じゃねえ」
「リョーマのジャージ、動きやすいし、着心地いいし、ちょっと大きいから楽なんだよね」
「それは俺のジャージだからな」
「うん。分かってる。借り物は大事にするタイプだよ?」
「大事にしてるやつは、袖でカップ麺のふた押さえない」
ミオはそっと袖を見た。しょうゆの小さな染みがついている。彼女は二秒ほど黙り、何かを悟った顔で言った。
「これは戦場の勲章」
「洗濯の敗北だ」
ネット注文で済ませようとしたことはあった。亮間は昨夜、端末で衣類や日用品を検索し、長耳種向けの帽子、隣界種対応インナー、魔力循環を妨げにくい素材の部屋着、ダークエルフ向け夜用スキンケア用品など、普通の高校生男子が土曜の夜に調べるにはだいぶ説明しづらい商品群を眺め続けた結果、サイズ感も素材も種族対応の細かい違いも分からず、何より本人が横から「これ、走りにくそう」「こっちは影に潜るとき引っかかりそう」「この帽子、耳が死ぬ」と好き勝手に口を出すため、ついに画面を閉じた。
「買いに行くぞ」
「どこへ?」
「ミカゲ・ゲートモール」
その名前を聞いたミオの目が、明らかに光った。御影市中央区にある大型商業施設 《ミカゲ・ゲートモール》は、普通のアパレル、雑貨、映画館、書店、フードコートに加え、長耳種向けの帽子専門店、尻尾対応の試着室、翼持ち用の広幅通路、魔導家電売り場、魔力回復ドリンク専門店、結界アクセサリー店、学生向け術式文具コーナーまで備えた、現代異世界融合社会の利便性と商魂がごちゃ混ぜになった巨大な箱である。御影市民にとっては休日に家族連れが集まる普通のモールであり、観光客にとっては「エルフがフードコートで香草プレートを食べ、竜人が映画館でポップコーンの大盛りを抱え、獣人の子どもが魔導カートに乗りたがって親を困らせている」光景をまとめて見られる、なかなか濃い観光地でもあった。
「モール、行くの?」
「生活用品買うだけだ」
「これ、潜入任務っぽいね」
「ただの買い物だ」
「じゃあ潜入買い物」
「そんな言葉はない」
「作戦名は?」
「ない」
「えー。作戦名ないと士気が上がらないよ」
「士気を上げるな。目立つな。お前は公安に追われてる可能性がある人間だって自覚しろ」
「隣界種だから、正確には人間じゃないけど」
「そこを訂正する余裕があるなら、自覚も足せ」
外出準備は、買い物へ行く高校生二人というより、目立つ要素をひとつずつ布で包んでいく作業に近かった。銀髪は黒いキャップの中へ押し込み、長い耳は長耳種用の簡易イヤーカバーで隠し、その上からフードをかぶせ、顔にはマスク、服装は亮間の黒いパーカーと濃い色のパンツでまとめる。結果としてミオは怪しいダークエルフではなく、休日に素顔を隠して歩きたいストリート系の少年みたいになった。
「どう?」
「不審者っぽいな」
「ひどいな。せめて潜入者って言って」
「潜入者もだいぶ不審者寄りだろ」
「リョーマも帽子かぶる?」
「なんで俺まで」
「相棒感が出る」
「出すな」
それでも、玄関を出たミオは少し楽しそうだった。星屑ヶ丘住宅街の朝の光を浴び、マスクの下で口元がゆるんでいるのが目だけで分かる。亮間はその顔を見て、これが初めての普通の外出なのかもしれないと気づき、胸の中に浮かんだものをその場で言葉にしないまま、駅前へ向かって歩き出した。
ミカゲ・ゲートモールは、駅直結の巨大な建物だった。吹き抜けの天井には浮遊型案内板がゆっくり回転し、館内モニターには現在の界素濃度、混雑状況、魔獣災害時の避難経路、翼持ち利用者向けの上層通路案内が並んで表示されている。入口の自動ドア横には人間用、広幅、翼持ち、車椅子・尾部補助具利用者用のゲートが分かれており、長耳の親子が帽子専門店の割引チラシを見ながら歩き、獣人の学生グループが高タンパクバーをかじり、魔導家電売り場の前では「今なら界素浄化フィルター二個セットでお得です」と店員が元気に叫んでいた。
ミオは足を止めた。
「リョーマ、あれ何?」
「魔導家電売り場」
「すごい。武器屋みたい」
「家電だ」
「でも光ってるよ」
「光る家電もある」
「じゃあ、あの青いやつは?」
「界素対応掃除機」
「掃除機があんなに強そうでいいの?」
「家で掃除機に負けたやつが言うな」
ミオは目を輝かせて周囲を見回した。女の子らしいショッピングへの高揚というより、初めて巨大なダンジョンの入口に立った冒険者の顔だった。服屋のマネキンより、館内配送用の小型魔導カートに反応し、アクセサリーショップより、術式文具コーナーの自動で罫線を引くペンに食いつき、結界アクセサリー店の前では「これ、殴ったらどうなるの?」と店員が聞いたら泣きそうなことを呟いた。
「最初は服だ。余計なものを見るな」
「余計じゃないよ。ちゃんと社会勉強しなきゃ」
「社会勉強で魔導家電を武器評価するな」
「じゃあ服屋で装備を整える」
「買い物って言え」
入ったのは、隣界種対応アパレルを扱う大きな店だった。長耳種用の襟ぐりがゆったりしたトップス、尻尾穴つきのパンツ、翼持ち用に背面が工夫されたジャケット、魔力循環を妨げにくい素材のインナーが並び、試着室も種族別に分かれている。亮間はなんとなく、女子の服売り場へ踏み込んだ時点で自分が場違いな生物になった気がして、なるべく壁際の安全そうな位置へ移動した。
「これとか普通じゃないか」
亮間が手に取ったのは、落ち着いた色のワンピースだった。自分でもなぜそれを選んだのか分からない。たぶん、女子の服といえばそういうもの、という貧弱な知識が勝手に動いたのだろう。
ミオはそれを見て、真剣に眉を寄せた。
「これ、動きにくそう」
「服って戦う前提で選ぶもんなのか?」
「走れない服は信用できない」
「基準が不良より物騒なんだよ」
「あと、ひらひらしてると影に入るとき邪魔」
「普段の買い物で影に入る予定を立てるな」
ミオが選んだのは、黒いオーバーサイズTシャツ、ゆったりしたカーゴパンツ、ハーフパンツ、薄手のパーカー、スポーツ系インナー、指ぬきグローブ風の小物、ミリタリー風ジャケット、そしてやけに頑丈そうなスニーカーだった。美少女ダークエルフの買い物というより、部活男子が合宿前に動きやすい服をまとめ買いしている光景に近い。
近くにいた店員が、にこやかに声をかけてきた。
「彼氏さんも一緒に選ばれますか?」
亮間の思考が一度止まった。
「違います」
その反応はあまりにも早かった。本人でも少し引くくらいの速度で否定した。
店員は慣れているのか、笑顔を崩さずに「失礼しました」と下がっていった。ミオは意味が分かっているのかいないのか、試着用の服を抱えたまま首を傾げる。
「彼氏さんって、リョーマのこと?」
「他に誰がいるんだよ」
「違うの?」
「違う」
「じゃあ何?」
「居候と家主」
「それ、お店で言ったらもっと変な顔されそう」
「だから黙ってろ」
試着室へ入ったミオは、思ったより早く出てきた。黒いTシャツにカーゴパンツ、上から薄手のパーカー。耳と髪を隠していても、姿勢の良さと動きの軽さのせいで妙に目を引く。本人は鏡の前で肩を回し、膝を曲げ、軽く跳ねて、完全に服の可愛さではなく可動域を確認していた。
「リョーマ、これどう?」
「動きやすそうだな」
「服の感想として合ってる?」
「お前の基準には合ってるだろ」
「じゃあ採用」
次に出てきたミオは、ハーフパンツにスポーツ系の上着を合わせ、キャップを後ろ向きにかぶっていた。ボーイッシュという言葉をそのまま人の形にしたような姿で、本人は無邪気に亮間の前まで寄ってくる。
「こっちは?」
「近い」
「服見せてるんだから、近くないと見えないじゃん」
「そういう問題じゃねえ」
「じゃあどこ見てるの」
「床」
「服見てよ」
「見たら負けな気がする」
「何と戦ってるの、リョーマ」
亮間にも分からなかった。ミオ本人に色気を出す意識がまったくないせいで、こちらだけが勝手に意識しているような状態になり、それが余計に腹立たしい。ミオは亮間の反応を面白がったのか、試着用のキャップを彼の頭にかぶせてきた。
「似合うじゃん」
「勝手にかぶせるな」
「ちょっと不良感が薄まった」
「元からそこまで濃くねえ」
「うーん、七割くらいになった」
「かなり残ってるな」
服と日用品をひと通り買い終える頃には、亮間の財布はだいぶ軽くなっていた。ミオは申し訳なさそうにしながらも、新しいスニーカーの箱だけは何度も見ている。亮間が「それは必要品」と言うと、彼女は少しだけ嬉しそうに笑った。
その後、通りかかった魔導スポーツ用品店で、ミオのテンションは本日最高値を記録した。
「リョーマ、これ見て。術式対応スニーカー。着地の衝撃を界素で逃がすって書いてある!」
「高い」
「こっちは身体強化用サポーター。膝の負担を減らせる」
「高い」
「影属性対応グローブ。影素親和持ち向けだって。すごい。ボク向けじゃん」
「もっと高い」
「じゃあ見るだけ」
「目が買う気の目なんだよ」
ミオはショーケースの前に貼りつき、まるでゲームのレア装備を眺める子どものように目を輝かせていた。銀髪褐色の美少女が、影属性対応グローブの縫製とグリップ力について真剣に悩んでいる。亮間はその横顔を見ながら、やっぱりこいつの中身は運動部男子に近いと思った。
「いつか自分で買え」
「うん。いつか買う」
ミオは素直に頷いた。その「いつか」が、彼女にとってどれくらい遠いものなのか、亮間には分からなかった。社宅にも戻れず、集落にも帰れず、公安に見つかることを避けながら人の家に隠れている少女の「いつか」は、普通の高校生が口にするそれよりずっと曖昧で、不安定なものに聞こえた。
昼食はフードコートになった。人間向けのラーメンやハンバーガーの隣に、獣人向け高タンパク定食、エルフ向け香草プレート、竜人向け激辛火山カレー、ダークエルフ向け夜香スパイス丼、魔力回復ゼリー専門スタンドが並び、席も種族ごとに少し工夫されている。尻尾を通せる椅子、翼を畳みやすい広い席、角がぶつからない高めの仕切り。御影市では、そういう配慮が珍しくない代わりに、昼時の席取り争いも種族を問わず平等に厳しい。
「ボク、肉がいい」
「ダークエルフってもっと草とか木の実食うんじゃねえの?」
「それは偏見だよ。肉はどんな種族にも正義なんだよ?」
「夜香スパイス丼って肉なのか?」
「肉。黒いソース。辛い。最高」
「説明が男子高校生の牛丼レビューなんだよ」
ミオは夜香スパイス丼の大盛りを選び、亮間は無難にラーメンを選んだ。席につくと、ミオはマスクを外し、周囲に耳や髪が見えにくいようフードを少し深くかぶったまま、目の前の丼に集中する。ひと口食べた途端、彼女の耳がぴくりと動いた。
「うま」
「お前、飯食うとだいたい幸せそうだな」
「おいしいものは正義だから」
「正義多いな」
「肉と炭酸とカップ麺とスニーカーは正義」
「世界の基準を雑に決めるな」
フードコートのざわめきの中で、ミオは本当に楽しそうだった。魔導カートを目で追い、子ども向けの浮遊風船に反応し、隣の席の獣人親子が食べている高タンパク定食を興味津々に見て、館内放送の「現在の界素濃度は安全基準内です」という案内に小さく笑う。黒羽横丁の夜や、川澄家のリビングで見せる顔とは違う、明るい場所で普通に休日を過ごしている少女の顔だった。
「こういうの、あんまり来たことないのか」
亮間が何気なく聞くと、ミオはスプーンを止めた。
「うん。ボク、買い物ってもっと面倒なものだと思ってた。値段見て、必要かどうか考えて、早く済ませて帰るだけっていうか、店員さんと話すのも苦手だし、人混みも得意じゃないし」
「実際、面倒だろ」
「面倒だよ。帽子は蒸れるし、マスクは息苦しいし、リョーマはすぐ不審者扱いするし」
「不審者みたいな動きをするからだ」
「でも、リョーマといると面倒でも楽しい」
亮間は返事に困った。ラーメンの麺を持ち上げたまま、数秒ほど固まる。ミオは自分が何を言ったのか分かっていない顔で、夜香スパイス丼の続きを食べている。無邪気というより、思ったことをそのまま口にしただけなのだろう。
「……そうかよ」
「うん」
「食ったら帰るぞ」
「え、魔導家電売り場は?」
「行かない」
「見るだけ」
「見るだけで済む顔じゃない」
「じゃあ、術式文具コーナー」
「学生でもないのに文具買うな」
「ボクも戸籍上は高校生だよ」
「実生活上は家の掃除機に負けてる居候だろ」
「今日は勝ったし」
「倒したってメッセージ来たぞ」
「あれは精神的勝利」
ミオは笑った。亮間も、少しだけ笑いそうになって、ラーメンの器で顔を隠した。
ミカゲ・ゲートモールの午後は、相変わらず賑やかだった。館内モニターには安全基準内の界素濃度が表示され、子どもたちは浮遊風船を追いかけ、店員たちは週末セールを叫び、長耳種向け帽子店では新作イヤーカバーが売れている。そんな普通の休日の真ん中に、公安から隠れているかもしれないダークエルフの少女と、問題児扱いされている男子高校生が、買い物袋を抱えて並んで座っている。
普通ではない。
普通ではないのに、亮間はその光景を、思っていたより悪くないと思ってしまった。




