第7話 川澄亮間に、彼女ができたらしい
御影南高校における噂の伝播速度は、公式には測定されたことがないものの、亮間の知る限り、昼休みの購買で最後のカレーパンが売り切れる速度より少し遅く、生活指導の倉橋が校門前で服装違反を見つける速度よりはるかに速い。
特に、恋愛関係の噂は強い。未成年能力者倫理、術式安全基礎、異種族共生学、境界災害避難訓練などという、いかにも御影市らしい授業を日々受けている生徒たちであっても、結局のところ休み時間に一番盛り上がるのは「誰と誰が付き合っているらしい」「あの先輩が誰かと駅前で歩いていた」「生徒会の誰かが他校の竜人混血といい感じらしい」といった、界素濃度よりずっと測定不能で、魔獣発生よりよほど広範囲へ被害を出す話題だった。
その日の御影南高校二年フロアでは、朝からひとつの噂が妙な説得力を持って広がっていた。
川澄亮間に、彼女ができたらしい。
文字にするとかなり雑な噂である。川澄亮間といえば、二年三組の問題児、御影南高校の拳、生活指導室の常連、近隣校の不良に絡まれるとだいたい相手も自分も面倒なことになる男、という肩書きが本人の了承なく増え続けている生徒であり、恋愛という柔らかい言葉とは相性が悪い。少なくとも周囲の多くはそう思っていたし、亮間本人も自分が甘酸っぱい青春の中心に立つより、反省文の山に埋もれている方が絵面的に自然だと考えていた。
ところが、状況証拠だけは妙に揃っていた。
まず、亮間の制服に銀色の長い髪がついていた。御影南高校には長い銀髪の生徒がいないわけではないものの、亮間の周囲にその条件へ当てはまる女子は少なく、さらにそれが肩口や袖に何本もついていたとなると、ただ廊下ですれ違っただけでは説明しにくい。次に、最近の亮間は放課後の寄り道が減っていた。黒羽横丁や駅前で見かける頻度が下がり、生活指導室へ呼ばれない日は妙に早く帰る。さらに、授業中や休み時間にスマホを確認する回数が増えており、その画面を見たあとで眉間にしわを寄せたり、ため息をついたり、時にはごくわずかに口元を緩めたりするという証言まで出ていた。
これを恋人の存在と結びつけた生徒たちは、御影市において異界化した倉庫の奥を覗き込む調査員と同じくらい危うく、同じくらい好奇心旺盛だった。
「川澄、ついに春来たんじゃね?」
「御影南高校の拳に彼女って、字面だけで強いよな」
「相手だれ? 他校? 年上? まさか隣界種?」
「銀髪ってことはエルフ系じゃない? いや、川澄がエルフ系美少女と付き合ってたら世界観が急にラノベになるんだけど」
「もともとこの街、だいぶラノベみたいなもんでしょ」
朝の教室で、祐介はそういう噂を聞きながら、机に突っ伏して肩を震わせていた。笑いをこらえているというより、面白すぎる災害に巻き込まれた避難民の顔だった。
「おい亮間、聞いたか。お前、彼女できたらしいぞ」
「俺の知らないところで俺の人生を進めるな」
「銀髪美少女だってさ。いいなあ、銀髪。しかも制服に髪がつく距離感。これはもう交際というより同棲疑惑まである」
「黙れ」
「え、当たり?」
「黙れって言ってんだろ」
亮間は自分の制服の袖を見た。たしかに、一本ついている。銀色の長い髪。今朝、家を出る前にミオが人のジャージの袖を掴んで「掃除機の界素フィルターってどこ?」と聞いてきたせいだろう。本人は隠れているつもりなのに、痕跡だけは堂々と学校へ同行しているあたり、あのダークエルフは秘密生活への適性が低すぎる。
亮間が指先で髪を取って机の端へ捨てようとしたところで、白井郁が隣から覗き込んだ。
「それ、銀髪だね」
「見れば分かる」
「長さと色味からして人間の染髪じゃなくて、エルフ系かダークエルフ系の可能性が高い。御影市内の高校生で最近行方不明とか、保護対象になってる隣界種の噂、いくつか流れてるよ」
「お前、朝から物騒な方向へ話を広げるな」
「川澄くんの周囲、物騒じゃない方向へ広がる話題の方が少ないから」
「否定しきれないのが嫌だな」
亮間はスマホをポケットの中で確認した。ミオからの通知が一件。画面には、たった今届いたらしい文面が表示されていた。
『リョーマ、掃除機がボクに反抗してる。あと冷蔵庫のプリン食べていい?』
亮間は無言で画面を伏せた。白井がそれを見て、ほんの少しだけ目を細める。祐介は身を乗り出そうとして、亮間に机の下で蹴られた。
「痛っ。お前、恋人からのメッセージに動揺して友達を蹴るなよ」
「恋人じゃねえ」
「じゃあ銀髪美少女居候?」
「蹴るぞ」
「もう蹴ってる」
教室のざわめきは、いつもの朝より少しだけ亮間に向いていた。面白半分、好奇心半分、少しだけ恐怖半分。全部足すと百を超えるあたりが御影南高校の噂話らしい。亮間は机に肘をつき、今日一日をどう乗り切るか考えようとして、そもそも家にミオを置いてきた時点で乗り切れていない気がしてきた。
一方その頃、二年一組では、朝比奈こはるが提出用プリントの束をそろえながら、女子たちの会話を耳にしていた。
こはるは御影南高校二年一組の学級委員であり、生徒会書記であり、境界災害安全委員も兼任している。肩書きだけ並べると、学校という組織が「ちゃんとした子」という概念を人間の形にして廊下へ配置したような生徒で、成績は上位、提出物は期限前、教師からの信頼は厚く、校内の小さなトラブルに巻き込まれても感情的に騒がず、まず状況を整理してから動く。さらに、長い黒髪を校則通りに結び、制服をきちんと着こなし、話すときは相手の目を見て、相槌のタイミングまで丁寧なので、周囲からは「朝比奈さんなら大丈夫」という、便利で重たい評価を受けていた。
その朝比奈こはるの手が、ほんの一瞬だけ止まったのは、隣の席の女子が何気なく口にした言葉のせいだった。
「二組じゃなくて三組の川澄くん、彼女できたらしいよ」
こはるは表情を変えなかった。プリントの端をそろえ、欠席者分を別にし、担任の机へ持っていくためのクリップを探す。その動きはいつも通りで、外から見れば何ひとつ乱れていない。胸の奥に落ちた小さな音だけが、本人にしか聞こえなかった。
「川澄くんって、あの川澄くん?」
「そうそう、目つき怖い方」
「怖い方って言い方だと何人か候補出ない?」
「生活指導の倉橋先生によく捕まってる人。最近、銀髪の女の子の髪が制服についてるって」
「え、なにそれ。隣界種?」
「しかも最近帰るの早いんだって。スマホも気にしてるらしいし」
「分かりやすっ」
こはるはクリップを見つけ、プリントを挟んだ。音は静かだった。必要以上に静かだった。彼女は自分でも驚くほど冷静に、まず噂の信頼性を考えた。銀髪。帰宅が早い。スマホを気にする。状況証拠はある。恋人と断定するには弱い。亮間の性格を考えると、簡単に誰かと付き合ったと噂されるような行動を取るとは思いにくい。けれど、彼は困っている人を見つけると、自分が損をすると分かっていても足を止めるところがある。そこまで考えて、こはるは少しだけ唇を結んだ。
昔は、亮ちゃん、と呼んでいた。
星屑ヶ丘住宅街の公園で一緒に遊んでいた頃、彼は今よりずっと笑う子どもで、木登りが得意で、転んだ年下の子を助けるくせに「別に」とそっぽを向くようなところは今と変わっていなかった。中学に入る少し前から、家庭のことや、学校でのことや、いくつかの小さくない出来事が重なって、亮間は少しずつ荒れていった。こはるは手を伸ばしたつもりだった。届かなかったのか、届く前に引っ込めてしまったのか、その境目はいまだに分からない。
今では、彼女は彼を「川澄くん」と呼ぶ。
呼び方ひとつで距離ができることを、こはるはよく知っていた。
「朝比奈さん、どうしたの? 顔、ちょっと怖いよ」
「え?」
「いや、プリントの角をすごい正確にそろえてるから」
「ごめん、少し考え事をしていただけ」
こはるは微笑んだ。周囲の女子たちはそれ以上踏み込まず、話題を別の生徒の恋愛噂へ移していく。こはるはプリントを抱え、教室を出た。廊下には二年生のざわめきが満ちており、休み時間の空気はいつもより少し浮ついている。彼女は歩きながら、自分に言い聞かせるように考えた。まず確認する。本人に直接聞く。感情で動かない。噂を信じない。必要があれば委員会の連絡という形で自然に話しかける。
幸い、こはるには口実があった。境界災害安全委員から各クラスへ配る、旧境界環地区周辺の立ち入り注意に関するプリントである。最近、御影市内では小規模異界化反応が増えており、魔対課が黒羽横丁周辺で動いているという話も学校側へ共有されていた。生徒に配る資料としては少し物々しいものの、御影市の高校においては、体育祭の雨天時対応と同じくらい現実的な連絡だった。
二年三組の前に着くと、中から祐介の声が聞こえた。
「だからさ、相手が銀髪ならせめて紹介しろって。俺たち友達だろ?」
「友達なら黙れ」
「友達だから聞いてるんだよ。なあ白井、どう思う?」
「川澄くんが急にスマホを気にし始めたのは事実。銀髪がついているのも事実。彼女かどうかは不明。隠していることがあるのは、かなり確率高め」
「名探偵じゃん」
「暇な高校生だよ」
こはるは一度だけ小さく息を整え、教室の扉を軽く叩いた。
「失礼します。三組の境界災害安全委員の人、いますか」
教室の視線がこちらへ集まった。朝比奈こはるが三組に来ること自体は珍しくない。委員会関係、プリント配布、生活指導の連絡、小テスト範囲の共有。彼女が顔を出す理由はいくらでもある。けれど、その視線のうちいくつかは、明らかに「また川澄の世話を焼きに来た」という色を含んでいた。
「お、朝比奈だ」
「川澄、呼ばれてるぞ」
「優等生から直々に生活改善指導か?」
「朝比奈さん、川澄の反省文もついでに見てやってください」
亮間は心底面倒そうに顔を上げた。
「俺じゃねえだろ」
「川澄くん、三組の境界災害安全委員、今日休みでしょ。代わりにプリントを受け取って、担任の先生に渡してくれる?」
「他の奴に頼め」
「川澄くん、他の人の話聞かないでしょ」
「俺も聞かねえよ」
「聞かないのに返事はするから、まだ渡しやすいの」
教室の数人が笑った。祐介は「おお、扱いが慣れてる」と小声で言い、亮間に睨まれて机の下へ逃げるように足を引いた。こはるは教室の中へ入り、亮間の机の横に立つ。彼の制服の肩口には、よく見ればまだ銀色の髪が一本残っていた。昨日今日ついたものではないかもしれない。掃っていないだけかもしれない。こはるはその可能性を一つずつ頭の中に並べ、どれも完全には捨てられないことを確認した。
「川澄くん、怪我、最近少ないね」
「何だよ急に」
「先月は毎週どこかに絆創膏貼ってたから」
「観察すんな」
「目立つんだよ、川澄くんは」
「倉橋みたいなこと言うな」
亮間は顔をしかめた。いつもの顔だ。目つきが悪く、言葉が乱暴で、相手との距離を最初から少し遠くに置く顔。こはるはそれを見慣れている。見慣れているからこそ、違いにも気づいた。ここ数日の亮間は、どこか柔らかい。喧嘩の匂いが薄い。疲れているのは変わらないのに、家へ帰ることそのものを拒むような空気が少しだけ弱くなっている。
その理由が、銀髪の誰かだとしたら。
こはるは、抱えていたプリントの端を指で押さえた。
「最近、変な噂があるみたいだけど」
「噂なんか毎日あるだろ」
「川澄くんに、彼女ができたって」
教室の空気が、露骨に固まった。祐介が口を開け、白井が紙パックのカフェオレを飲む手を止め、近くの男子が「本人確認入った」と小さく呟いた。亮間は一瞬だけ眉を動かしたものの、すぐにいつもの不機嫌そうな顔へ戻る。
「できてねえ」
「本当に?」
「本当に」
「隠してない?」
「隠す以前に、いない」
「銀色の髪、制服についてるよ」
亮間は肩を見て、しまったという顔をした。こはるは、その表情を見逃さなかった。彼女ではないという答えは、おそらく嘘ではない。亮間はそういうところで、変に正直だ。付き合っていないなら付き合っていないと言う。恋人ではない相手が家にいる可能性までは、普通の質問では拾えない。
「猫でも飼い始めたの?」
「猫じゃねえ」
「犬?」
「もっと違う」
「じゃあ何?」
「……髪の長いやつ」
「それは答えじゃないと思う」
「答える義務もないだろ」
亮間の声が、少し低くなった。教室の冷やかしが、その空気を察して少し静かになる。こはるは、それ以上踏み込めば壁ができると分かった。昔からそうだった。亮間は本当に触れられたくないことには、乱暴な言葉より先に沈黙で距離を作る。こちらが無理に押せば、彼は自分の方から一歩も二歩も離れていく。
「……分かった。じゃあ、そういうことにしておく」
「そういうことって何だよ」
「彼女はいない」
「事実だ」
「うん。そこは信じる」
そこは、という言い方に亮間が顔をしかめたものの、こはるはプリントを机に置き、表情を整えた。委員会の連絡を終えに来た優等生の顔へ戻る。
「旧境界環地区の立ち入り注意について、今日のホームルームで担任の先生から話してもらって。黒羽横丁の裏手も対象区域に入ってるから、放課後に寄り道しないようにって」
「俺を見て言うな」
「川澄くんが一番行きそうだから」
「行かねえよ」
「最近は帰るの早いもんね」
「……お前、ほんとにいちいち見てんな」
「いちいちじゃないよ。目につくだけ」
その言葉は、こはるにしては少しだけ本音が出すぎていた。亮間も気づいたのか、視線をそらす。二人の間に、幼馴染だった頃の呼び名だけが置き去りになっているような沈黙が落ちた。
祐介が空気を変えるように、わざとらしく咳払いした。
「朝比奈さん、ちなみに川澄に彼女がいない場合、こいつは放課後ひとりで何してると思います?」
「おい祐介」
「友人としてまじで心配で。最近すぐ帰るし、スマホ見て変な顔するし、炭酸とカップ麺を買い足してるし」
こはるの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「炭酸とカップ麺?」
「おいこら」
「あと昨日、『しょうゆ味じゃないと文句言われる』ってコンビニで呟いてた」
「榊」
「はい黙ります」
祐介は両手を上げて降参した。こはるは亮間を見た。亮間は明らかに面倒な顔をしている。怒っているというより、隠し方を間違えたことに気づいた顔だった。
「誰か、いるんだね」
「いない」
「今の流れでそれは無理があるよ」
「……家に、ちょっと面倒なやつがいるだけだ」
「その人、友だち?」
亮間は答えなかった。こはるは、その沈黙だけで十分だった。胸の奥が小さくざわつく。彼女ではない。亮間はそう言った。けれど家に誰かがいて、その誰かのために彼は早く帰り、スマホを気にし、炭酸とカップ麺を買う。昔、自分が踏み込めなかった場所に、誰かがもう入り込んでいるのかもしれない。
「川澄くん」
「何だよ」
「危ないことなら、ちゃんと誰かに相談して」
「お前に関係ない」
「関係なくても心配くらいするよ」
教室のざわめきが遠くなる。亮間は、こはるを見なかった。こはるも、それ以上近づかなかった。幼馴染という距離は、近いようでいて、今の二人には妙に扱いづらい。昔のように「亮ちゃん、ちゃんと話して」と言えたら、何か変わったのかもしれない。今のこはるには、その呼び方を口にする勇気がなかった。
「プリント、頼んだから」
「分かった」
「あと、小テスト範囲、今日の放課後に掲示されるから見ておいて。川澄くん、また聞いてないって言うでしょ」
「言わねえよ」
「先週言ってた」
「覚えてるなよ」
「覚えてるよ」
こはるは少しだけ笑った。亮間はそれを見て、気まずそうに目をそらした。
教室を出る直前、こはるは一度だけ振り返った。亮間は机の上のプリントを眺めながら、ポケットの中のスマホに触れている。誰かからの連絡を待っている手つきだった。
こはるは廊下へ出て、静かに息を吐いた。
彼女はいない。亮間はそう言った。たぶん、そこだけは本当なのだろう。
それでも、彼の近くに誰かがいる。
自分が「川澄くん」と呼ぶようになった少年を、誰かがきっと、もっと近い名前で呼んでいる。そんな気がして、こはるはプリントを抱える腕に、少しだけ力を込めた。
その頃、亮間のスマホには新しい通知が届いていた。
『リョーマ、掃除機は倒した。プリンは食べた。あと洗濯機が第二形態に入った』
亮間は画面を見て、天井を仰いだ。
「……あいつ、何してんだよ」
その呟きを聞いた祐介と白井が、ほぼ同時にこちらを見た。
「彼女じゃないんだよな?」
「彼女じゃねえ」
「じゃあ何なんだよ」
亮間は答えられなかった。居候。不審物。ダークエルフ。面倒なやつ。公安に追われているかもしれない少女。朝から人のジャージを着て、カップ麺の味に注文をつけ、掃除機と戦っている銀髪の厄介ごと。
どれも間違ってはいないのに、どれも正解には少し足りない気がした。
亮間はスマホを伏せ、低く言った。
「知らねえよ」
白井が、紙パックのストローをくわえたまま淡々と告げる。
「川澄くん、それは隠してる人の返事だね」
「うるせえ」
御影南高校二年フロアの噂は、その日も元気に育っていった。
そして朝比奈こはるは、その噂の奥にあるものを、まだ名前のつけられない不安として胸の中にしまった。




