第3話「雨の駅前、重なった注文」
雨は、昼過ぎから降り始めた。
佐藤哲也がそれに気がついたのは、事務所の窓から外を確認したときだった。
朝、家を出たときは曇りで、傘を持つか少し迷って、やめた。
四月の雨は予報が外れやすいと経験的に知っていたが、今日に限っては外れなかった。
定時に退社して、駐輪場に向かった。
空は一面の鈍色で、雨の勢いは増していた。
これで自転車は無理だ、と判断した。
経験と勘による判断で、物流の仕事で培ったそれと変わらない。
できることとできないことを、感情より先に識別する。
哲也はロープで自転車のカバーをかけ直して、歩くことにした。
日暮里から谷中へ向かう道を、傘なしで早足に歩いた。
途中でコンビニに寄って傘を買えばよかったが、なんとなくそうしなかった。
雨に濡れるくらい、どうということもない。
それより、どこか雨をよけられる場所があれば、少し落ち着いてから帰りたかった。
なぜそう思ったのかは、自分でもわからない。
根津の交差点を曲がったところで、哲也は少し迷った。
いつもは大通りをまっすぐ行くが、雨が強くなってきたので路地に入った。
路地は石畳で、両側に古い民家が続いていた。
軒が深い家が多いから、歩いていると少し雨が凌げる。
しばらく歩くと、小さな喫茶店の灯りが見えた。
「昭和堂」
木の看板に、手書きの文字だった。
看板そのものが年季入っていて、文字はくっきりしているが周りが黒ずんでいる。
ガラス窓から店内の灯りが漏れていて、橙色の、温かい色だった。
哲也はそこで立ち止まった。
昭和堂。
その名前を、一度だけ聞いたことがある。
母・和子が、若い頃よく来ていた店だ、と話していた。
具体的にいつの話かは覚えていないが、「根津の方に昭和堂っていう喫茶店があって、お父さんと付き合ってた頃によく行ったのよ」と、テレビを見ながら言っていた。
その後に何か続いたかもしれないが、哲也は聞いていなかった。
なんとなく、扉を開けた。
雨宿りのつもりで入る、と自分に言い訳した。
カウンターが六席。
奥に四人がけのテーブルが二つ。
それだけの店だった。
壁には古い映画のポスターが貼ってあって、床は年季入った板張りだった。
カウンターの中に、六十代くらいの男性がいた。
白いシャツにエプロンをして、コーヒーを落としていた。
「いらっしゃい」
「一人です」
「カウンター、どうぞ」
哲也はカウンターの端に座った。
濡れたスーツの肩を、軽く手で払った。
マスターがおしぼりを出してくれた。
「傘、持ってこなかったんですか」
「朝は曇りだったんで」
「今日はそうなりますよ、夕方から。あいにく」
マスターは特に咎めるでもなく、そう言ってから、メニューを差し出した。
ラミネートされた一枚の紙だった。
黄ばんでいて、端が少し浮いている。
手書きで、品名と値段が書いてある。
ブレンドコーヒー、アイスコーヒー、紅茶、ミルク。
食事は、トーストとゆで卵のセット。
ホットケーキ。
サンドイッチ。
値段はどれも、今どきの喫茶店より少し安かった。
哲也はブレンドコーヒーとトーストのセットを頼んだ。
マスターがコーヒーを落とし始める音を聞きながら、哲也は店の中を見回した。
壁の映画のポスター——小津安二郎の「東京物語」だった。
白黒の、よく知っている映画のポスターだ。
母が好きな映画で、哲也も一度だけ一緒に見たことがある。
母はこの店に来て、このポスターを見たのだろうか。
そんなことを考えながら、哲也はカウンターの上に組んだ手を見た。
扉が開いた音がした。
哲也が顔を上げると、女性が入ってきた。
三十代くらい。
細面で、髪を後ろで束ねていた。
薄手のトレンチコートが雨で濡れていて、肩のあたりが色が変わっていた。
手に文庫本を持っている。
マスターが「いらっしゃい」と言うと、女性は「すみません、一人です」と言った。
声は小さかったが、はっきりしていた。
カウンターの、哲也から二席ほど離れた場所に座った。
コートを脱いで、丁寧に畳んだ。
文庫本をカウンターの上に置いて、それからメニューを手に取った。
哲也はそこで目をそらした。
じろじろ見るものではないと思った。
自分も今日、傘なしで雨に入った人間だ。
お互い様だ。
マスターが女性のところへ行き、注文を聞いた。
女性が言った。
「ブレンドコーヒーと、トーストのセットで」
哲也は少し驚いて、手元のメニューを見た。
自分が頼んだのと、まったく同じだった。
それだけのことだ。
人気のメニューなのだろう。
でも、なんとなく、おかしかった。
おかしい、というより、少しだけ意外だった。
このメニュー表の中から選べるものは限られているが、それでも同じものを選んだという事実が、なぜか小さく引っかかった。
高橋志乃が昭和堂に来るのは、今日で三回目だった。
最初に来たのは三年前で、きっかけは偶然だった。
雨の日に根津の路地に迷い込んで、そこで灯りを見つけた。
入って、ブレンドコーヒーを飲んで、そのまま一時間いた。
二回目に来たのは去年の今頃で、それは偶然ではなかった。
四月の中旬は、志乃にとって特別な時期だ。
十二年前のあの日がちょうどこの頃で、毎年この季節になると、体の中の何かが重くなる。
重くなるのを誤魔化すために、自分なりの「けじめ」として、何かをする。
今年はここに来ることにした。
理由は、うまく説明できない。
ただ、この店に来ると、少しだけ正直になれる気がする。
華やかでも洗練されてもいない、古くて、小さくて、変わらない店。
自分を飾らなくていい場所が、志乃にはあまりなかった。
メニューを見て、ブレンドコーヒーとトーストのセットを頼んだ。
いつも同じものを頼む。
コートを丁寧に畳みながら、カウンターに文庫本を置いた。
帰りに読もうと思って図書館から借りてきた本だったが、今日は読めそうになかった。
ただ、手ぶらでここに来るのも落ち着かないから、持ってきた。
隣の席に、男性がいることに気がついた。
スーツを着た、四十くらいの男性だ。
肩が濡れていて、傘を持っていないらしかった。
背が高く、体格がいい。
横顔は、物を考えているような静けさだった。
志乃はそれ以上見なかった。
コーヒーが来た。
濃い、深い色だった。
一口飲むと、苦みと酸味が均等にきた。
インスタントとは全然違う。
哲也はしばらくカップを両手で持ったまま、その味を確かめた。
隣の女性のコーヒーも来た。
同じカップだった。
トーストが来た。
バターが塗ってあって、小さな皿にゆで卵が乗っている。
ゆで卵には、小袋の塩が添えてあった。
哲也が塩をゆで卵に振りかけようとしたとき、隣から小さな音がした。
ぱさ、という音。
見ると、女性の文庫本から、何かが落ちていた。
カウンターの下に、白いものが滑り落ちるのが見えた。
栞だった。
女性は気がついていないようだった。
コーヒーを飲んでいた。
哲也は少し迷ってから、「あの」と言った。
女性が顔を向けた。黒くて大きい目だった。
「栞が落ちましたよ」
「……え」
女性が下を見た。
哲也は椅子から少し身を乗り出して、床に落ちた栞を取った。
古い栞だった。
紙製で、端が少し黄ばんでいる。
デザインは何かの花の絵で、名前は知らない花だった。
「これ」と差し出すと、女性が受け取った。
「ありがとうございます」
「いえ」
それだけだった。
女性はすぐに視線を前に戻した。
哲也も前を向いた。
マスターがどこかへ引っ込んで、店の中が静かになった。
雨の音だけがする。
窓の外の石畳を、雨が叩いている。
栞を受け取りながら、志乃はそれを見た。
ずいぶん古い。
二十年近く前に、本に挟んで、そのまま忘れていたものだ。
本の方はどこかに消えたけれど、栞だけが残った。
出所も意味も曖昧になった栞を、志乃はずっと使い続けていた。
捨てられない理由は、特にない。
ただ、捨てられなかった。
隣の男性に横目で礼を言いながら、志乃はコーヒーを飲んだ。
男性は静かに食べていた。
ゆで卵に塩を振って、トーストを半分に割って、丁寧に食べていた。
急いでいない。
でも、のんびりもしていない。
何か別のことを考えながら食べているような、そういう静けさだった。
雨の音が、少し強くなった。
「この雨、止みそうですかね」
気がつくと、志乃は言っていた。
男性が顔を上げた。
少し意外そうな顔をして、それからマスターの方を見た。
マスターが戻ってきていた。
「どうですかね」とマスターが言った。
「夜まで続くかもしれません。春の雨は長引きますから」
「そうですか」
「傘、お持ちでしたか」と男性が志乃に聞いた。
「折り畳みを持ってます」
「そうですか」
「あなたは?」
「持ってきませんでした」
志乃は少しだけ笑ってしまった。
笑うつもりはなかったが、なんとなく。
「朝、曇りだったので」と男性が言った。
「私もそう思って、一瞬迷いました」と志乃は言った。
「でも結局持ってきて」
「正解でしたね」
「……まあ、結果的には」
「この辺りの方ですか」
「谷中の方です。あなたは」
「同じく。谷中です」
志乃はそれを聞いて、少し黙った。
この街に住んでいる人間が、雨の日にこの店に迷い込む。
それほどおかしなことではないかもしれないが、なんとなく、不思議な感じがした。
「昭和堂は、よく来るんですか」と男性が聞いた。
「たまに」と志乃は言った。
本当は「年に一度」だが、それは言わなかった。
「前を通ったら灯りが見えて、つい」
「僕も今日が初めてで。雨宿りに」
「そうですか」
「母が昔、よく来ていた店だと聞いたことがあって、気になってはいたんですが」
志乃は少し驚いた。
「お母さんが?」
「ええ。若い頃に、父と一緒に来ていたらしくて」
「それは——素敵な理由ですね」
男性は少し首をかしげた。
素敵かどうかよくわからない、というような顔だった。
「たまたま雨に降られただけです」と言った。
志乃はまた少し笑った。
今日、二回笑ってしまった。
珍しいことだと思った。
二人はそれぞれのコーヒーを飲み終えた。
マスターが「お代わりはどうですか」と言った。
二人は同時に「いただきます」と言った。
それに気がついて、二人とも少し黙った。
マスターが薄く笑いながらコーヒーを注いだ。
哲也は、自分が話しすぎたかもしれない、と思った。
こういう場所で隣の人間と話す習慣はなかった。
なんとなく口が動いた。
なぜかはわからない。
ただ、この女性は、話す前から、黙っていることに慣れているような気配がした。
それが少し、自分に似ていると感じた。
似ている、というのは正確ではないかもしれない。
ただ、同じ雨の日に、同じ店で、同じものを注文した。
それだけのことが、なぜかもう少しここにいてもいいという気にさせた。
二杯目のコーヒーを飲み終えたころ、マスターが「もう一杯いかがですか」と声をかけた。
哲也は腕時計を見た。
七時を過ぎていた。
母の夕飯の時間を考えて、首を振った。
「いえ、そろそろ」
志乃は少し迷った。
帰っても父はもうNHKの前にいるだけだろう、と思ったからだ。
薬は今朝ちゃんと確認した。
夕飯は昨日の残りがある。
あと少しだけここにいても、誰も困らない。
そういう夜が、たまにあった。
帰らなければならない理由を一つずつ確認して、それでも足りなければ、もう少しだけ、と思える夜が。
「もう一杯、お願いします」と志乃は言った。
マスターがコーヒーを注いでいる。
哲也は外を見た。
雨は少し弱まっていた。
「よければ」と哲也は言った。
「お名前だけでも聞いてもいいですか。近所なら、どこかで会うかもしれないし」
女性が少し間を置いた。
「……高橋と言います。高橋志乃」
「佐藤哲也です」
「佐藤さん」
「高橋さん」
それだけ言い合って、また少し沈黙した。
変な間だった。でも、嫌な間ではなかった。
マスターがカウンターを拭きながら、
「お二人とも、谷中の方ですか」と聞いた。
「そうです」と哲也が言った。
「そうです」と志乃も言った。
「この店、谷中の方の常連さんが多いんですよ。根津は根津でいい街ですが、谷中から来る方が多い。不思議なんですけどね」
哲也は答えなかった。
志乃も答えなかった。
どちらも、それがなぜなのか、少しだけわかるような気がしていた。
谷中の人間は、時々この街では満たせない何かを、根津の路地へ探しに来るのかもしれない。
そういう道があることを、体が覚えているのかもしれない。
でもそれは、言葉にしなかった。
雨は小降りになっていた。
志乃が三杯目のコーヒーを飲み終えて、「そろそろ」と言って立ち上がった。
財布を出すと、哲也が「割り勘にしませんか」と言った。
「え、でも」
志乃はすぐに気がついた。
自分はコーヒーを三杯、佐藤さんは二杯。
セット代は同じでも、コーヒー一杯分だけ自分の方が多い。
割り勘にすれば、その差は消える。
つまり、相手の方が少し多く払うことになる。
「私、一杯多く飲んでいるので」
「コーヒー一杯の差です。気にしないでください」
あっさりした言い方だった。
得をさせようとか、距離を縮めようとか、そういう下心のある言い方ではなかった。
ただ、面倒なことを省いているような、そういう淡々とした提案だった。
志乃は少し考えた。
見知らぬ人に、初対面で、たかがコーヒー一杯分とはいえ、借りを作ること。
それが昔から苦手だった。
誰かに何かをしてもらうと、その重さをずっと覚えている。
返さないと落ち着かない。
そういう体質だった。
でも今夜は、不思議と、いいか、と思った。
「……じゃあ、ありがとうございます」
二人でお金を出して、マスターに渡した。
「また来てください」とマスターが言った。
二人に向かって言ったのか、それぞれに向かって言ったのかわからない言い方だった。
入り口で、志乃が折り畳み傘を開いた。
「気をつけて」と哲也が言った。
「あなたも」と志乃が言った。
「濡れすぎないうちに」
志乃が先に路地へ出た。
傘が開くと、その下に消えた。
哲也は軒先でしばらく、雨が少し弱まるのを待った。
古い栞のことを考えた。
あの古さは、長く使ってきたものの古さだ。
大切にしているのか、捨てられないでいるのか、どちらかわからない。
でも、ずっと本に挟んでいるということは——何かの目印にしているということだ。
どこかで止まったままの、目印。
雨の音が、少しだけ穏やかになった。
哲也はコートの襟を立てて、根津の路地を歩き始めた。




