第2話「書架の隙間に隠した傷」
目が覚めたとき、台所で包丁の音がしていた。
高橋志乃は布団の中で少しのあいだ目を閉じたまま、その音を聞いた。
とん、とん、とん。
リズムが均一で、迷いがない。
父・芳雄が大根を切っている音だ。
包丁の使い方だけは昔から上手で、料理の出来映えはともかく、刻む動作だけはいつも正確だった。
七時前。
起きなければ、と思いながら、もう少しだけ、とも思った。
この部屋の天井の、シミの形を確認する。
右上のシミは飛んでいる鳥みたいだ、と子供のころから思っていて、大人になった今も同じ見え方がする。
子供のころから何も変わっていないものが、この家には多い。
台所へ行くと、芳雄がエプロンをしていた。
「お父さん、何作ってるの」
「味噌汁」
「昨日も味噌汁だったよ」
「毎日飲んでいいものを、毎日作っているだけだ」
論破できないな、と志乃は思いながら冷蔵庫を開けた。
父の朝食用の薬を確認する。
糖尿病の予防薬と、血圧の薬と、膝の炎症を抑えるもの。
三種類の錠剤が、小分けの袋にまとめてある。
今日の分が、まだ袋のまま置かれていた。
「お薬、まだ飲んでないね」
「飲んだよ」
志乃は袋を見た。
封が切られていない。
「お父さん。この袋、開いてない」
「……そうか?」
芳雄が振り返って、袋をしばらく見た。
その目に、うっすらとした困惑が浮かぶ。
自分が何をしたのか、していないのか、ちゃんと思い出せない——そういうときの目だ。
志乃はもう見慣れていた。
見慣れているのに、見るたびに、胸の奥がわずかに冷たくなる。
「飲んだと思ったんだが」
「食べながら飲んで。ちゃんと見てるから」
「そんなふうに言わなくてもわかる」
「お父さんが言わなくてもわかる人なら、こういうこと言わないよ」
ちょっと言いすぎたかな、と思ったが、芳雄は「ふん」と小さく言っただけで、味噌汁をよそい始めた。
怒っているのかいないのかわからない背中。
娘には甘いくせに、頼られることには敏感なところがある。
二人で食卓に座って、味噌汁を飲んだ。
芳雄の作る味噌汁は、具が多すぎる。
今日は大根、豆腐、わかめ、油揚げ、それからなぜかコーンが入っていた。
「コーン、入ってる」
「冷凍庫にあったから」
「……まあ、悪くないけど」
「だろう」
父が少し得意そうな顔をした。
その顔を見て、志乃は思わず笑ってしまった。
つられたように、芳雄も笑った。
薬を飲み忘れていた五分前のことは、二人ともそれ以上触れなかった。
台東区立の図書館までは、徒歩十五分だった。
谷中の路地を抜けて、日暮里方向へ歩く。
坂が多い街で、朝は下りが続くから楽だ。
帰り道は逆になる。
古い石畳の道、電柱、猫の多い空き地。
志乃はずっとここで育ったから、この街の凹凸を体が覚えている。
どこで段差があるか、どこに水たまりができやすいか。
四月の朝は、花が多い。
玄関先の植木鉢に、名前も知らない白い花が咲いている家がある。
通るたびに目に入って、毎回、きれいだな、と思う。
思うだけで、立ち止まったことはない。
立ち止まったら、何かを欲しがっている人間みたいで、いやだった。
図書館の玄関を入ると、紙の匂いがした。
古い本の、インクと乾いた紙と埃が混ざったような匂い。
志乃はこの匂いが好きだった。
嗅ぐたびに、少しだけ体の力が抜ける気がする。
それが昔からそうなのか、働き始めてからそうなったのか、もうわからないけれど。
「おはようございます、志乃さん!」
カウンターの裏から声がした。田中奈緒だった。
「おはよう。今日、早いね」
「息子が五時に起きちゃって。もう諦めて早番に替わってもらいました」
奈緒はショートカットで、今日はネイビーのブラウスを着ていた。
育休から戻って三ヶ月。
見た目はほとんど変わっていないのに、話す内容が丸ごと変わった。
話題の八割は息子のことだ。
志乃はそれが嫌いではない。
ただ、笑顔を作るのに、少しだけ力がいる。
「五時は辛いね」
「でも五時に笑顔で起きてくるんですよ。無条件に可愛いんですよね、それが」
「……そうだね」
返す言葉を、志乃は一瞬だけ選んだ。
一瞬で選ぶことに、慣れていた。
午前の図書館は静かだった。
平日の開館直後は、常連の利用者が数人来るだけだ。
新聞コーナーに陣取る老人たち。
参考書を広げる学生。
絵本の棚の前で、息子を抱いた若い母親がしゃがみ込んでいた。
志乃はカウンターの業務をしながら、その母親を見ないようにした。
見ないようにしながら、見ていた。
赤ちゃんは、十ヶ月くらいだろうか。
母親に抱かれたまま、棚の本をじっと見つめている。
小さな手が、絵本の背表紙に触れた。
ぺたぺた、と触る。
赤ちゃんの手は、指がまだ完全に伸びていなくて、ふっくらとしていて、信じられないほど柔らかそうだ。
胸の奥が、キュッとなった。
別に、泣くような感覚ではない。
キュッとなる、というのが一番近い。
何か小さなものが、内側から絞られるような。
志乃はそれを表情に出さないまま、返却された本にスタンプを押し続けた。
十二年前のことを、今でもこういうとき思い出す。
二十五歳だった。
交際していた男性との子だった。
妊娠がわかったとき、男はしばらく黙っていて、それからゆっくりと言った。
「今は、難しい」と。
今は、という言葉が持つ意味を、志乃はすぐに理解した。
今は、ではなく、これからもずっと、難しい。という意味だ。
一人で決めた。一人でクリニックへ行った。
父には言えなかった。
男は、その後すぐにいなくなった。
連絡が取れなくなったのではなく、自然に薄れるように消えていった。
それが余計に、傷の輪郭をあいまいにした。
怒る相手もいなければ、責める先もなかった。
残ったのは、じわじわと、自分の内側へしみ込んでいく感覚だけだった。
自分のせいだ。
と、なぜかそう思った。
論理的に考えれば、自分だけのせいではない。
でも感情は、論理で動かない。
自分が何か致命的なものを欠いているから、こういうことになったのだ、という確信が、あの日から消えなかった。
棚の前でしゃがんでいた母親が立ち上がり、息子を抱えたまま絵本を二冊持ってカウンターへ来た。
「貸し出し、お願いします」
「はい」
志乃はバーコードを読み取りながら、赤ちゃんに目を合わせないようにした。
赤ちゃんはこちらを見ていた。
黒くて大きい目で、まっすぐに。
その無防備な視線が、一番こたえる。
罪悪感があるとか、憎いとか、そういうことではない。
ただ、まっすぐに見られると、自分が何かを隠していることが、ばれてしまうような気がする。
「ありがとうございました」
母親が去ると、志乃は小さく息を吐いた。
午後、奈緒が志乃の隣に来た。
「志乃さん、最近どうですか。なんか、疲れてる感じ?」
「そう見える?」
「なんとなく。お父さん、大丈夫ですか」
「まあまあ。今日また薬を飲み忘れてた」
「それは大変。一人で抱えすぎてませんか」
志乃は少し笑った。
奈緒はこういう聞き方をする。
ずけずけしているが、根底に心配がある。
そのバランスが、あまり他人には感じられない、本物の温かさだと志乃は思っていた。
「大丈夫だよ。慣れてるから」
「慣れてるって、必ずしもいいことじゃないですよね」
「……そうかもね」
「誰かに話せてますか、ちゃんと」
誰かに話せているか。
志乃は少し考えた。
答えは、はっきりしていた。
話せていない。
友人はいる。
大学時代の友人、地元の友人。
でも彼女たちはもう、夫がいて、子供がいて、家があって、「親の介護」と「一人でいること」の話を、正直にできる気がしない。
できなくはないが、する気になれない。
話すということは、自分の現在地を言語化することで、言語化すると、それが確定してしまうような気がするから。
「まあ、ね」と志乃は言った。
奈緒は何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
閉館十五分前になると、館内の利用者が少なくなる。
志乃は書架の整理をしながら、返却された本を棚に戻していった。
文学の棚、郷土史の棚、子供向けの棚。
どの本がどこにあるか、全部頭に入っている。
それが、この仕事の唯一、誇れることだと思っていた。
棚の中間の段に、背表紙が内側に向いて差し込まれた本があった。
誰かが戻したのだろう。
志乃はそれを取り出して正しい向きに差し直しながら、タイトルを確認した。
『かもめのジョナサン』。
古い文庫だった。
誰が読んでいたんだろう、と思いながら、次の棚へ移動した。
そのとき、館内に音楽が流れ始めた。
ドビュッシーの「月の光」。
閉館五分前の合図だった。
この図書館では十年以上前からこの曲を使っていて、志乃が働き始めたころからずっと同じだった。
旋律はゆっくりと、水が広がるように広間に満ちていく。
静かで、少し寂しい音楽だ。
また一日が終わる。
志乃は棚の前で立ち止まって、その音楽を聞いた。
利用者がカバンを片付け、帰る準備をしている気配がする。
館内が少しずつ、明日のための沈黙へ移行していく。
今日も何もなかった。
と、思ってから、何もないことが「正しい」と感じている自分に気がついた。
何もないことが、今の自分には一番安全だ、という感覚がある。
誰かに近づかない。
深く話さない。
何かを期待しない。
そうすれば、失わない。
失わなければ、あの感覚を、また体験しなくてすむ。
「月の光」の旋律が、高音部へ移行した。
きれいだな、と思う。
聞くたびにきれいだと思う。
それなのに、この音楽が流れると決まって、胸のどこかに重いものが落ちてくるような気がする。
今日もここで終わりだ、という合図だから。
帰り道は、来た道を逆に歩く。
坂を上がって、路地を抜けて、猫の多い空き地の前を通って。
夕方の谷中は、朝とは少し空気が違う。
家々から、夕飯の匂いがする。
焼き魚、醤油の焦げる香り、カレーの気配。
住んでいる人の気配が、匂いとして路地に溢れ出してくる時間帯だった。
玄関の鍵を開けると、台所から出汁の匂いがした。
「ただいま」
「おかえり。今日は蕎麦にしようと思って」
居間から芳雄の声がした。
テレビがついている。
NHKの夕方の番組だ。
「お父さん、また料理してたの」
「志乃が帰るのを待っても仕方ないだろう。出汁を取るだけだ」
台所を覗くと、鍋にだしが張られていた。
煮干しから取っているらしい。
確かに出汁だけだった。
蕎麦を茹でるのはこれからだ。
「手伝う」
「手を洗ってきなさい。鞄も置いてから」
「わかってる」
志乃は自室に鞄を置いて、制服から普段着に着替えた。
鏡を見た。
三十七歳の自分の顔。
今日、奈緒に「疲れてる感じ」と言われた。
そう見えるのか、と思いながら、自分ではよくわからなかった。
台所に戻って、芳雄の隣に立った。
蕎麦を茹でる鍋を火にかけながら、志乃は父の横顔を横目で確認した。
今朝は薬の飲み忘れがあった。
最近、こういうことが増えてきた。
病院の先生は「様子を見ましょう」と言っている。
その言葉の意味するところが、少しずつ重くなっていく気がする。
「お父さん、最近眠れてる?」
「眠れてる。眠りすぎて困るくらいだ」
「それはそれで心配だよ」
「うるさいな」
芳雄が少し笑った。
出汁の匂いが、台所に広がった。
二人で蕎麦を食べた。
芳雄は「うまい」と言った。
出汁を自分で取ったくせに人ごとみたいに言う。
志乃は「お父さんが取った出汁だよ」と言うと、「そうだったか」と芳雄が言った。
それが本当に忘れていたのか、軽口なのか、志乃には判断できなかった。
夜、志乃は自室で本を開いた。
読もうとして、読めなかった。
目が文字の上を滑っていく。
意味が入ってこない。
仕方なく本を閉じて、仰向けになった。
天井の染み。
右上の、鳥みたいな染み。
今日も一日が終わった。
特に何かがあったわけではない。
薬の飲み忘れ、赤ちゃんを抱いた母親、奈緒の「誰かに話せてますか」という言葉、「月の光」の旋律。
そういうものが、それぞれにちいさく、でも確実に、志乃の中に積み重なっていく。
ひとつひとつは大したことではない。
でも積み重なると、重くなる。
自分は何かを欠いているのだ、という感覚が、夜になるとはっきりしてくる。
欠けている、というのは正確ではないかもしれない。
壊れている、とも違う。
ただ、何年も前に、自分の中の何かが止まった。
時計の針のように。
そのまま今も、その針は動いていない気がする。
夜が静かだ。
谷中の夜は、街の音がよく聞こえる。
遠くの踏切の音、
誰かの引き戸を開ける音、猫が鳴く声。
ひとつひとつの音が、夜の空気の中でくっきりしている。
この音の中で、自分だけが止まっている。
幸せになっていい人間と、そうでない人間がいるとしたら、自分はどちら側にいるのだろう。
志乃は目を閉じた。
答えはいつも、同じ方向を向いていた。
だから聞くのをやめた。
聞くのをやめて、眠ることにした。
明日の朝も、父の薬を確認して、出汁の匂いで目が覚めて、図書館へ向かう。
それだけのことが、今の自分に許されている時間だった。
「月の光」の旋律が、また頭の中で鳴った。
水が広がるように、静かに、寂しく。




