第一話: 楽しい船旅
長年というわけではないが今の会社で働いてなんとなく節目を感じ、溜まりに溜まった有休を消化するためにも船旅に出ることにした。
海はいい。地平線まで続く、青い海、頬を撫でる湿った潮風。自由と開放感がたまらない。
分刻みのスケジュール、終わらないタスクに追われる日常が遠い世界の出来事のように思えてくる。
デッキの手すりに身を乗り出しぼんやりとただ海を眺めていた。
平日の昼下がりで風が少し強いせいか広いデッキには私一人しかいない。海鳥が船を追いかけ、目の前を通り過ぎていく。彼らのように自由に飛び立てたら。
ガチャリと音がして重い扉が開く音がした。
現れたのは三人の家族連れで、両親に付き添われた一人の少女が頼りない足取りでデッキに足を踏み入れる。少女は白いワンピース、透き通るような白い肌、淡い色の髪、一目で育ちの良さが知れるお嬢様のようだが、両親に手を引かれる姿は脆さと儚さを感じる。
「渚、足元気をつけて。落ちたら大変だよ。」
父親の優しい声に渚と呼ばれた少女は小さく頷く。
彼女は船の揺れに怯えながらも必死で手すりまで辿り着くと、キラキラした瞳で世界を見渡した。
「わぁ…海が広い…鳥さんも飛んでる」
少女は感動したように海を見渡している。その表情があまりに無垢で思わず見惚れてしまう。
彼女は船の先頭から遠く見ようとしたのか、手すりを伝って一人でこちらへ近づいてくる。
ぼんやりと海を眺めていた私の背後を通ろうとしたその瞬間……
ゴォッと猛烈な突風がデッキを叩いた。
「きゃっ…!」
悲鳴と共に彼女の体が大きくよろめく。完全に身を乗り出していた私の背中に体当たりするような形でぶつかった。
「あっ」
衝撃で重心を崩した私の体は無常にも手すりの外側へ押し出される。
「危ない!」
少女が咄嗟に私の腰にしがみついた。しかし彼女の細い腕に私の体重を支える力はなかった。
私は手すりから離れて宙を舞う。少女もしがみつく状態のまま、道連れとなり私たちは真っ逆様に落下した。
ドボォォン!鈍い衝撃と共に水面に叩きつけられて、視界が真っ暗な水に包まれる。
夏場とはいえ、海水は冷たい。水面に突きつけられた全身が痛むが、必死に水をかき、水面へ顔を出して空気を吸い込む。
すぐ隣に少女が浮いていた。衝撃で気を失っているのかぐったりして動かない。
見捨てるわけにはいかない
必死に彼女の顎を水面上に抱え上げ、呼吸を確保する。
無情にも遠ざかっていく、強大な船。船から悲鳴や叫び声が聞こえた気がした。
その時にオレンジ色の救命胴衣がいくつか投げ入れられた。
少女の両親か、乗組員か投げ入れてくれたのかもしれない。
私は必死に泳ぎその一つを掴み取った。自分と少女の体を救命胴衣に固定し、あとは波に身を任せる。
流されるまま救助を待つこと数時間。一向に助けの来る気配はなく、少女も目を一向に覚さず、静かに呼吸を繰り返しているだけだ。
視線の先に黒い影が見えた。島だ。残りの体力を振り絞り、私は彼女を引きずりながら必死に水を掻いた。




