天国の碧
鬼次郎はまた同じ空を見上げていた。鬼が城、牟婁から熊野に婿入りした以外は、なにも変わっていない。いやさ、ここでオトナになった。
今度は逃げ帰ったりしない。我は五郎八とは違う。小佐に着いても、またスカタン喰らわせられるだろう。だったら、師崎回って三河に攻め込んだらええ。あそこには米蔵があるという。
気がかりなのは王居だ。半島南部を統べる王が住んでいると聞いた。豊浜、内海の衆に知恵つけてるのはそいつだろう。そんな所は迂回して、直で三河に攻め込んだらええ話やろ。
アカネがツイ、ツイと飛ぶ中、鬼次郎は男衆宿に入った。
面々が雁首揃えていた。いつか見た切迫した貌だ。既に衆議は決している面持ちだった。
おんしら、ええかの。
屋の薄暗い闇のなかで、黒い顔に白目だけギラギラ光らせた顔らが頷く。
決死などというものではない。動かなければ、間違いなく村の衆何人かが飢えて死ぬ。そういう話なのだ。
船八艘が揃った。流石に、熊野は規模が違うと、鬼次郎は腕組みしながら思った。
静々と、船団が進んでいく。
鬼次郎の頭の中には、海図ができていた。神島で一泊だ。
もはや若い滾りもなくなった鬼次郎は、女郎の乳を弄んでいた。他の者らも、篝火に浮いた女どもを思い思いに選び、みそぎをしていることだろう。
翌朝、小佐を襲撃すると、予想通り汁と酒とお土産の米があった。
今日はここで泊ろうやないか。
屋には火をかけてやりたいほどだが、おもてなしが存外効いて、そこまではできない。
またの翌朝、海賊船団は師崎を回った。ここで潮目がかわる。更に進むと、海の色は碧になった。
なんやこれは。
紺の海しか見たことのない海賊どもは、口々にもらした。
ここでなら、死んでもええ。
天国の海。海面は銀盤となって光り、海賊どもの脳裏まで刺す。
エーラヤ、ヨッコイラ
櫓をこぐ。
王居を過ぎた。こんなところに攻め込んでいたのでは、命がいくつあっても足りない。我らは、一散に三河を目指す。あそこは、都から来た大伴が治めている。そんなところなら、一撃だ。
一方王居では、小佐が上げた狼煙を受け取っていた。
来たか。伊勢で不漁だとは聞いたが、またぞろ来やがったか。
王は思った。王というよりは、世話好きの爺であり、近郷の衆には何くれとなく相談に乗っていた。それで信頼が集まっただけのことで、威張った様子もない。地黒な顔で、小柄。両の肩を少し前に突き出して、ヒョイヒョイと歩く。
狼煙をあげよ。三河様に伝えなあかん。
富貴から額田、そして岡崎まで、ほぼ一瞬の間に伝わる狼煙。
安城のねごす郎もまた、ほほう来たかとほくそ笑んでいた。今度のやつは、いささか気骨があるらしい。
理由がある。岡崎には朝廷大伴氏の眷属の大伴氏が入っていた。
へへえ、お噂はかねがね。あの大伴氏の股従弟の大伴さま、どうかこの地を治めてください。われわれでは到底おぼつきませぬゆえ。
そう言ったのは祖先ねごす衛門だったが、その末のねごす郎とて、なんら変わらぬ心持ちで仕えている。立ててさえおけば、おれらあを守ってくれるし、おれらあはあんのんとして暮らせる。都の色白がいくら威張ったとしても、へへーと言っておけばすむ。
ご注進、ご注進! 伊勢の衆が攻めてまいりました。いかがなされます?
そういわれて渋い顔をしたのは大伴だった。内心では、めんどくせ、と思っている。したが、この地の統領として、出馬しないわけにもいかない。
陣ぶれをだせ。撃ってでる。
大伴旗下の精鋭は強い。この血統が遥か後代の三河武士団である。これがなければ、殿様の権威そのものがないといっていい。
蒼白の顔をしたホンターケ(誉田別)が進み出る。合戦の場は、どこになりましょうか。
そんなことは考えてもいなかった大伴は反問する。どこになると思う?
さすれば、富貴か、半田あたり。きゃつらは、岸にそって北上しますから、岸から火矢の雨を降らせてやれば、莚の帆が燃えますな。
おんし、ようおれの考えを読んだな。
恐れ入ります。
集まった者どもにホンターケは告げた。合戦は、亀崎である。矢先には松脂を塗り、火矢とせよ。
へへい。
岡崎から陸路で進む。彼我の速度を計算すれば、亀崎に陣取り、待つこと暫しであるだろう。
エーラヤ、ヨッコイラ。
海賊船団は、死んでもよいと思わせるほどの碧海を北上する。
どこら辺りまで進んだか、突然岩壁から雲霞のごとく矢が降ってきた。びゅうびゅうと鳴る火矢も混ざっている。次々と矢に射られるまつろわぬ者ども。
あかんあかん、あかんで。火矢を抜け。帆を燃やすな。
崖の上から一部始終を見学し、わははと笑っていた大伴に、ホンターケが注進する。
殿、お下がりくだされ。もそっと陣の後方へ。きゃつらとて矢を放ちましょう。殿に万一のことあらば、我々崩壊いたします。
そんな必要もない勝ち戦には見えたが、ホンターケにも逆らえず、渋々大伴は陣後方へ引っ込んだ。
握り飯でも食うか。
壊滅した海賊船団がどうなったのか、語り継がれてはいない。




