第17話 王冠の機転と、女王の施し
──三日目・午後。
「パンがない?どういうことだ、王都の店が全部空っぽじゃないか!」
「東部からの街道が封鎖されたせいさ。女王様の不手際で領地との仲がおかしくなったんだって噂だぞ」
「情けない……。それに比べてバレストロ侯爵様はご自身の蓄えを民に無料で分け与えてくださっているというのに。王室は民が飢えるのを眺めているだけか!」
王都の市場はかつてないほどの怒りと、腹を空かせた獣のような不安に包まれていた。
小麦の焼ける香ばしい匂いは消え、代わりに漂うのは冷たい石畳の匂いと、行き場のない不満の熱気。
レオナールによる食糧封鎖の影響は、瞬く間に市民の胃袋を直撃していた。
──パン一つで、国は簡単に壊れる。
俺はルゼリアの頭上で王都の空気を肌で感じながら、そう確信していた。
***
王城の会議室。
そこには、今しがた軍用伝書鳩が届けたばかりの簡潔な軍書を握りしめたルゼリアと、眉間に深い皺を刻んだ宰相ヴォルデンの姿があった。
報告書には騎士団長ルシアンの力強い、けれど無念さに満ちた筆致でこう記されていた。
『……陛下、申し訳ございませぬ。街道を封鎖していたレオナールの私兵どもを捕縛いたしましたが、一足遅く。奴らは略奪した小麦を「防疫のための処分」と称して焼き払った後でした。物証となる現物がなく、これより残党の調査にあたりますが、帰還は明朝以降になります』
王都から検問所までは馬を飛ばしても往復に一日以上を要するということだ。
ルシアンの獅子奮迅の働きをもってしても、物理的な距離という壁までは越えられなかったのだ。
「……万事休すか。略奪の首謀者を捕らえても、証拠となる現物がなくては市民の腹は膨らみませぬ。それどころか民の間では侯爵が配っているパンが唯一の糧となり、王家よりも侯爵を信頼する声が広がっております」
ヴォルデンは宰相らしく、すでに最悪のシナリオを冷徹に分析していた。
『(……ただ食糧を出すだけじゃ、豚侯爵の後追いにしかならねえ。どうする、どうする俺!)』
俺の内側で思考が高速回転する。
ルゼリアも焦っているのか、膝の上で小さな拳を固く握り締めたまま、言葉が出ない。
「解決策はないのか、ヴォルデン。そなたなら、法の穴の一つくらい……」
ルゼリアが問いかけるが、声が僅かに震えている。
ヴォルデンは苦渋に満ちた表情で首を振った。
「王国の予備蔵を動かすには、我が国の実権を分かち合ってきた五つの有力家系──『五大家』の一角、農業総務を司るヴェルデ家の承認が必須。しかし、五大家が互いに権力を競い、牽制し合う不穏な均衡において、彼らはバレストロが投げつけた『防疫』という絶好の口実を逆手に取り、手続き上の不備を理由に静観を決め込んでいます」
『(五大家……!この世界、王様一人で決められないことが多すぎるだろ!えーと待て、落ち着け。法で動かせないなら、法の外にあるものを使えばいい。法の外……法の外……)』
俺は必死に頭を回転させた。
この世界の知識は断片的にしかないが、ルゼリアから聞いた講義の内容や、帳簿を読み漁った時に拾った知識の欠片をパズルのように組み合わせていく。
ナショナル──国家の資産。
法によって管理。五大家の承認が必要。
だが、もし国家のものとは「別の資産」があったなら?
『……ロイヤルだ!王家の個人資産なら、五大家の承認は不要のはず──!ルゼリア!ロイヤルだ!自分のお財布だ!』
「え?……あっ!」
俺の念話にルゼリアが目を見開いた。
つい声を上げてしまい、ヴォルデンが怪訝にこちらを見る。
「あわわっ、な、なんでもないっ!……ヴォルデン」
ルゼリアは真っ赤になりながらも、必死に女王の顔を取り繕った。
だが、その瞳の奥には閃きの光が確かに宿っている。
「ヴォルデン。講義で教わったはずだ。この国には議会や法が管理する王国の資産とは別に……王家が個人で所有し、何人の干渉も受けぬ王立の資産があると」
彼女の脳裏には、かつて父の傍らで居眠りしながら聞いていた、あの退屈で仕方のなかった家庭教師の老いた声が鮮明な黄金の輝きを伴って蘇っていた。
ヴォルデンが射抜かれたように顔を上げた。
「王立の備蓄である王立倉庫、そして王立金庫ですか。陛下、確かにあれを解放すれば当座の食糧と資金は確保できます。ですが、あれは禁じ手ですぞ。王国の不祥事を王立の私財で埋めるなど、一歩間違えれば王家の権限乱用として五大家たちの執拗な攻撃の的になります」
『(五大家……。バレストロの背後に、もっとデカい何かがいる気がするんだよな。けど、そいつより先に目の前の飢えをどうにかすることが最優先だ)』
ヴォルデンは、その解決策がはらむ政治的な毒を熟知していた。
だからこそ、彼は口にできなかったのだ。
『リスクは分かってる。だが、今はそれしかねえ!ルゼリア、ここからが本番だ。ただ王立倉庫を開けてパンを配るだけじゃ、バレストロの二番煎じだぞ。絶対的な差をつけなきゃ!』
「(わ、分かってる!でもどうやって差をつけるの、クラウン!?)」
『……いいか、考えろ。奴が配ってるパンは何で作られてる?』
「(えっと……もともと王都の市場に出回るはずだった小麦を買い占めて……あっ!)」
ルゼリアの瞳が、パアッと大きく輝いた。
『そう、そいつだ!奴のパンの原料は民から奪った麦だ!盗品を返して恩を着せてるだけだ!それを民にバラしてやれ!』
「(す、すごい!それならただパンを配るのとは全然意味が違う!……でも、それだけだと侯爵のパンを否定しただけで、民のお腹は空いたままだよね?)」
『……っ、そ、それはそうだ!くそっ!えーと、えーと……!』
俺も俺で若干テンパりかけていた。
だが、ルゼリアが小さな拳をぎゅっと握り直し、おそるおそるとこう囁いた。
「(……ねえクラウン。東の道が使えないなら、南や西から食べ物を買ってくることはできないかな?ファンドラなら商人の道をいっぱい知ってるはず──)」
『──それだあああああ!!』
宝石の芯から魔力がほとばしるほどの興奮を覚えた。
王立金庫の資金を解放し、ファンドラの商人ネットワークで東部以外のルートから食糧を緊急調達する!
バレストロの封鎖は「東部の街道」だけだ。
南と西が生きていれば、あの太っちょの包囲網は穴だらけだ!
『よしっ、作戦は決まった!一つ目の矢──王立倉庫を開放して、今すぐ飢えている民に食糧を配る!二つ目の矢──王立金庫を開けて、ファンドラの商人ネットワークで南と西から追加の食糧を買い付ける。これで倉庫が空になる前に補給が続く。三つ目の矢──クロエの口コミで侯爵のパンが盗品だとバラす!これなら二番煎じどころか、完全にあいつの上を行ける!』
「(うん……うんっ!やる!わたし、やるよクラウン!)」
『よし来た!じゃあ台詞を考えるぞ──全力の入れ知恵、いくぞ!』
俺は彼女の確かな意思を、女王の命令として完成させるために魔力を練り上げた。
法に縛られた老臣の迷いを断ち切るような、王冠の重厚な波動をルゼリアの声に乗せる。
「ヴォルデン。そなたの言う理は、民を救えるのか?民を飢えさせる臣を野放しにするのであれば、王家など不要である。これより余は、女王個人の権利を行使する。余の私財たる王立倉庫、および王立金庫の封印を直ちに解け!」
ルゼリアの声が、会議室の壁を震わせるほどの威厳を持って重臣に突き刺さった。
「まずは王城の食糧を広場で民へ配給せよ!並行してルシアンへ鳩を飛ばし、奴には現地でそのまま証拠を固めるよう命ずる。そしてファンドラに伝えよ──長丁場に備え、王立金庫の資金で南と西から追加の食糧を買い付けるのだ。商人ギルドの全ネットワークを使い、明朝までに王都へ届くよう手配せよ!」
ルゼリアの声が、さらなる熱を帯びた。
「クロエ。そなたにも命ずる。バレストロが民に配っている『慈悲のパン』の正体を王都の隅々にまで広めよ。あれはバレストロが民から奪った麦で焼いたパンだ。盗んだ物を返しておいて、恩を着せているに過ぎぬ。……侯爵のパンを食べた民に、本当の味を教えてやれ」
指示を出し終えたルゼリアが、ふうっと大きく息を吐いた。
そこへ、頭上からとんでもない追加注文が降ってきた。
『ルゼリア、もう一押しだ。食糧の配給、ただ騎士や役人に任せるだけじゃダメだぞ』
「(え……?どういうこと?)」
『バレストロは自分の手下を使って、わざわざ広場で侯爵の名前を叫ばせながらパンを配ってる。あいつの狙いは恩を売ること、つまり民の心を奪うことだ。それに対抗するなら──女王陛下が自ら直接、自分の手で民に渡すんだ』
「(わ、わたしが……!?広場に、出るの……!?)」
ルゼリアの心臓が跳ね上がった。
城の中ですら貴族に怯えていた彼女にとって、王都の民衆が押し寄せる広場に出るというのは、想像するだけで膝が砕けそうな恐怖だった。
『怖いのは分かってる。でも考えてみろ。名も知らない役人が「女王陛下からの施しです」って配るのと、ルゼリア本人が目の前に立って「わたしがあなたたちを守る」って言うのと──民の心にどっちが刺さると思う?』
「(……っ)」
答えは分かっていた。
分かっていたからこそ、怖かった。
「(……わたしが、行く。行かなきゃ、意味がない……よね)」
『……ああ。俺も一緒に行く。ずっと頭の上にいるから、何があっても全力でサポートする。絶対に一人にはしない』
その一言に背中を押されるように、ルゼリアはまだ震えている拳をぎゅっと握り直し、顔を上げた。
「ヴォルデン。配給は……余が、自ら広場に出向いて行う」
会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
「な……っ!?陛下ご自身が広場に!?なりませぬ!万が一のことがあれば──」
「万が一とは何だ。余の民が飢えている広場が危険な場所だと言うのか?ならば尚のこと、余が行かねばならぬ。王が民を恐れてどうする」
ルゼリアの声が震えていないことに、ヴォルデンは目を見開いた。
いや──よく見れば、膝はかすかに震えている。
それでも声だけは、鋼のように真っ直ぐだった。
『(……うん。それでいい。最高だ、ルゼリア)』
クラウンの念話だけが、彼女の震える膝を知っていた。
こっそりと王冠の宝石に視線を落とす。
「(ク、クラウン……わたし、上手く言えてた……?途中で噛まなかった……?)」
『百点満点だ。堂々として美しかったぞ、我が女王陛下。……ちなみに俺は裏で死ぬほどテンパってたけどな』
「(え、えへへ……わたしもだよ。膝がまだ震えてる……)」
二人して裏でガクガク震えていたことを互いに白状しながら、それでもちゃんと前に進めたことが、なんだか無性に誇らしかった。
ルゼリアの断決は、迷路に陥っていたヴォルデンの心に眩いばかりの光を穿った。
女王が自らの資産と名誉を盾に、民を救うと覚悟を決めたのだ。
もはや、重臣に退く理由はない。
「……ヴォルデン、ただちに陛下のご慈悲を形にいたします」
彼は深く、深く頭を垂れた。
お読みいただきありがとうございます。
話も終盤に差し掛かり終わりが見えてきました。
是非とも最後までお付き合いいただければと思います。
連載版、短編版ともに、たくさんの反応をいただきありがとうございます。




