第16話 バレストロ侯爵の焦燥と、冷徹なる大公の影(バレストロ視点)
──同じ三日目の早朝。王都から離れた場所では。
王都から少し離れた場所に建つ、バレストロ侯爵の別邸。
豪華な絨毯が敷き詰められた書斎でその主──肉の塊のような男、バレストロは真っ白な大ぶりなパンに厚くバターと蜂蜜を塗りたくって、それを下卑た音を立てて脂ぎった口に押し込みながら、手にした水晶を粉々に握り潰した。
「馬鹿な……ありえん!この邸の三階、ワシの寝室にある金庫には、触れるだけで魔力を吸い取りミイラに変える死の呪印が施されていたのだぞ!?扉のすぐ外を固めていた私兵たちも異常なしと報告しておったではないか!」
脂ぎった顔が怒りと恐怖で引き攣り、顎からは咀嚼途中のパンの欠片が絨毯にボロボロとこぼれ落ちる。
細い目が充室している。
寝室の秘密金庫が、金貨だけを残して綺麗さっぱり、塵一つ残さず空にされていたのだ。
彼が最も秘匿していた、この数年の収穫量と密売先を記した帳簿──民を飢えさせ、王家を欺いた証拠の結晶だけが消え失せていたのである。
「あの泣き虫のガキ……ルゼリアめ。王冠を載せてもらっただけの飾りのくせに、本物の王のつもりか。ワシのような功臣の財産を掠め取るとは不届きにも程がある。廃位の後は、言葉も出ぬよう喉を潰し、その美しい瞳に絶望が染み付くまで地下牢で魔力を絞り出す魔術触媒にでもしてくれようか」
彼は指に食い込んだ特大の金指輪を、まるで脂身をなめるようにおぞましくいじりながら、下卑た笑みを漏らした。
彼にとって領民が何人餓死しようと不景気ではない。
供給が減れば、自邸の倉に山積みされた隠し小麦の価値が跳ね上がる。
民の死は、彼にとっては「絶え間ない黄金の雨」に過ぎなかった。
「しかし、ワシを嵌めるためにどこの馬の骨とも知れぬ刺客を雇いおったか。……いや、違う。あの鮮やかな魔力操作の跡、並の隠密の仕業ではない。まさか、あの『生ける伝説』を動かしたというのか……?」
その言葉を吐き出した直後、書斎のロウソクの火が激しく揺れ、部屋の空気が一瞬にして氷点下まで凍り付いた。
バレストロの首筋に、鋭利な刃を押し当てられたような本能的な悪寒が走る。
抗いようのない死の気配を背後から感じ取り、彼の脂ぎった身体は、己の意志とは無関係にガタガタと音を立てて震え始めた。
静寂を切り裂き、冷ややかで絶対的な重圧を伴う足音が近づく。
「見苦しいな、バレストロ。帳簿一冊管理できぬとは。貴公の強欲もその程度の器であったか」
振り返ったバレストロの瞳が、驚愕と恐怖に大きく見開かれる。
そこに立っていたのは、漆黒の外套に身を包んだ男。
逆光の中でその表情は判然としないが、放たれる威圧感だけでバレストロの膝を折らせるには十分だった。
「ヴ、ヴォルガスト様……!なぜ、これほど早くに……」
「貴公の不始末が、私の庭まで汚れを広げようとしているのでな。……雛鳥が王冠を戴いてから妙な動きを見せている。宰相どもが動く前に、貴公の不手際を片付けに来てやったのだ」
男──ヴォルガストの声には、感情の機微が一切含まれていない。
バレストロは蛇に見込まれた蛙のように震えながら、必死に自らの有用性を訴えた。
「案ずるな。帳簿が奪われたのなら、それが公に出る前に既成事実を作ってしまえばよい。……息子の方は、予定通り動いているな?」
「は、はい!レオナールが東部街道の検問所を完全に封鎖いたしました!防疫を名目とし、王都へ向かう食糧の全てを差し押さえ、キャンプにて管理させております!」
バレストロは男の冷徹な眼光に射抜かれ、必死に自らの有用性をアピールした。
「安心なされ。既に王都のパン屋からは小麦が消え失せ、予定通りワシが無料で配る慈悲のパンに民衆が群がっておりますわ!今頃は無力な女王への恨みを募らせ、我が名を救世主と崇めている……!」
「……御前会議を待つ必要はない。こちらから会議の招集をかける。証拠が突きつけられる前にルゼリアの『統治能力の欠如』を突きつけ、廃位へと追い込むのだ」
ヴォルガストは踵を返し、影に溶けるように立ち去った。
残されたバレストロは冷や汗を拭いながら、下卑た笑みを浮かべた。
「そうだ……証拠など……。あの泣き虫のガキに、本当の重みというものを教えてやるわ……!」
***
一方、同じ頃。
王都へと続く街道の検問所では、バレストロの息子レオナールが、無理やり差し押さえた小麦の袋に火を放っていた。
「見ろ!この小麦は全て汚染されているのだ!民に毒を食らわせるわけにはいかんからな。こうして無害な灰にしてやるのが、このレオナール様が唯一与えてやる慈悲であり、聖務なのだぞ!」
レオナールは、パチパチと音を立てて燃え上がる小麦の袋──実際には都の胃袋を支えるはずだった正常な穀物を、証拠隠滅のために無慈悲に焼き払いながら陶酔したように鼻を鳴らした。
「ふははっ。見ろ、パンの焼けるいい匂いだ。汚らしい民の体臭よりもよほど心が洗われるとは思わんか!もっと薪を足せ!王都のガキどもが泥を啜りながら、我が父の施しを涙を流して待つ姿を想像すれば、これ以上の美酒はあるまい!」
燃え盛る炎を前に輸送隊の商人が、文字通り積み上げてきた人生が灰になるのを目の当たりにして絶望に打ちひしがれる中、レオナールの私兵たちは酒杯を掲げて嘲笑を浮かべていた。
彼らは知らない。
この地獄絵図の全てが、ファンドラのネットワークを通じて、ルゼリアの瞳に裁きの炎を灯させていることを。
暗雲が王都を包み込もうとする中、星天の王冠だけが、夜明けの逆転を期して静かに青い光を灯していた。




