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86 交易商人ダルハン 中編

 切りの良いところまで書こうと思ったら、すごく長くなってしまいました。読みにくくてすみません。

【1415年9月22日 昼下がり】


〈ダルハン視点〉


 簡易テントの中には、薄い煙と重苦しい沈黙が垂れ込めていた。


 外からは子どもたちの笑い声や家畜の鳴き声が聞こえてくる。だが、布一枚隔てたこの空間だけはまるで別世界だ。


 敷物の上に胡坐をかいたダルハンは、長い管の先からゆっくりと水タバコの煙を吐き出した。


 甘い香りが簡易テントの中に漂う。


 カラムは落ち着きなく足を組み替え、小さく咳き込んだ。


 木箱に置かれた干しナツメにも、水にも、まったく手をつけていない。


 ぐっと唇を噛み締めている弟を、サミルは心配気に覗き込んでいる。







 煙の匂いが、ふと遠い記憶を呼び起こす。あの夜もこんな風に、穏やかな日だった。


 ダルハンは煙の向こうに、懐かしい日々を思い描いた。もう二度と戻らない、平穏な日々を。


 砂上帆船を止めた小さな岩場の陰。


 焚き火の炎がぱちぱちと音を立てる。乾いた空気の中に豆の煮える匂いが漂っていた。


 レンズ豆と乾燥野菜を放り込んだ簡単なスープ。粗末だが、旅の食事としてはかなりマシな部類だ。


 それに何より。


「父さん、もういい匂いがしてるよ。」


 カラムが木匙で鍋をかき混ぜながら言った。


 まだ少年らしさの残る顔で、しかし手つきはずいぶん慣れたものだ。


「焦るな。豆はゆっくり火を通すんだ。でなきゃ、また腹を壊すぞ。」


 そんな軽口に、明るい笑い声が返ってくる。


 家族の笑顔があれば、質素なスープだって、世界で一番のご馳走。


 俺はそのことに、気づいていなかったんだ。そう。あの夜までは。






 あの日も、今日と同じように敷物の上に腰を下ろし、水タバコの吸い口をくわえていた。


 乾いた草の香りが喉をくすぐり、白い煙が夜空へ細く昇っていく。


 カラムの隣では、妻のハヴァーがタカキビ粉を練って薄焼きパンを焼いていた。


 丸い鉄板の上で生地がふくらみ、香ばしい匂いがあたりに広がる。


 母親と同じ、鮮やかな紫の髪をした幼い少女は、クッションの上で足をぶらぶらさせながら尋ねた。


「ねえ、父さん。今日のはお肉も入ってる?」


「入ってるとも。干し羊の欠片だけだがな。みんなで平等に分けよう。」


「やった!」


 嬉しそうに紫玉の瞳を輝かせる。


 ほんのわずかな肉片で喜ぶその姿に、胸の奥が温かくなった。


 サミルは少し離れた場所で、帳面を開き、積み荷と航路を確認していた。


「父さん、次のオアシスまで三日。水と飼料はぎりぎりだけど、問題ないはずだよ。」


「お前が言うなら間違いはないな。あとは、羊が痩せすぎなければいいが。」


 そう言うと、サミルは小さく頷いた。


 頼りになる長男。すこし臆病なのが玉に瑕だが、慎重さは交易商人を長く続ける上で、武器になることのほうが多い。






 カラムがスープをよそい、木の器を皆の前に並べていく。


 焼きたての薄焼きパンをちぎり、スープに浸して口へ運ぶ。


 素朴だが、身体の芯まで染み渡る味だ。


「ねえ、父さん。」


「なんだ、カラム?」


「次の町で家畜がうまく売れたら、兄ちゃんの船も買えるようになるかな?」


「ああ。きっとな。」


 俺はスープを飲み下して答える。


「そのための蓄えは十分にしてある。新しい船を買っても、次の仕入れは問題ないだろう。船が増えれば、儲けも増える。新しい航路の開拓だって、夢じゃないぞ!」


 その言葉に、妻がそっと微笑んだ。


 サミルも静かに頷く。


 そうだ。あの頃の俺は、本気でそう信じていたのだ。


 この砂海には、まだまだ商機がある。船を増やし、人を雇って、家族を養う。


 そして、いつかは安全な土地に腰を落ち着ける。それが俺の役目だと。


 水タバコの火皿を指で整えながら、俺は小さく胸を張った。


「父さんは商人だ。しっかり稼いでみせるさ。」


「うん。父さんはすごい商人だもんね!」


 幼い娘のその言葉が、何よりも誇らしかった。


 あの笑顔を、もう一度取り戻せるなら、俺は・・・!






 白い煙とともに、幼い笑顔が消え去った。残ったのは、簡易テントの中の重たい薄闇だけ。


 すべてが昨日のことのように鮮やかで。


 それでいて、もう二度と戻らない遠い幻のよう。


 あの頃は、時間がいくらでもあると思っていた。明日も、その先も、今日と同じように続くのだと・・そう信じて疑わなかった。


 だが現実は、いつも突然に牙をむく。


 あの夜の出来事が、すべてを変えてしまった。






 ダルハンは2人の息子に悟られぬよう、胸の奥で小さく息を吐いた。


 もしあの日の自分に、今の俺の姿を見せたら、なんと言うだろう。


 金のために焦り、時間に追われ、息子たちとさえ意見を違えるようになってしまった今の自分を。


 きっと信じはしまい。だが同時に。


 家族のために足掻き続ける今の俺を、励ましてくれるはずだ。お前には、まだやれることがある、と。


「・・時間は戻らん、か。」


 誰に聞かせるでもなく、ダルハンは小さく呟いた。


 テントの外で、羊が短く鳴く。


 重苦しい沈黙の中、子どもたちの笑い声が遠くから聞こえてきた。


 




「・・親父。」


 沈黙に耐えきれなくなったのか、カラムが低い声で言った。


「本当に、こんなにのんびり待ってていいのかよ。」


「焦るな。」

 

 ダルハンは短く答える。


「交渉とはそういうものだ。相手に主導権を握らせるな。待つのも仕事のうちだ。」


 そう言いながらも内心では、自身が一番、焦りに苛まれ続けている。


 焦るな。ここは勝負の時。


 テントの外に広がる光景。


 豊かな畑、整備された水路、堅牢な外壁。そして、広場に鎮座する美しい女神の小神殿。


 どれ一つを取っても、砂海の辺境ではありえない奇跡だ。


 これだけの奇跡と恵みを生み出している場所なら、多少吹っかけたところで痛くも痒くもないはず。


 相場の二倍どころではない。五倍、いや十倍でも通るかもしれない。


 ここは普通の相場で考える場所じゃない。『奇跡の村』には、それに相応しい『奇跡の値段』をつけてやればいい。


 これは、まさに千載一遇の好機だ。






 最初は、女たちのみすぼらしい服装を見て、金を持っていないのではないかと警戒した。


 だが、外壁の上に掲げられた旗を見て、すぐにその考えを捨て去った。


 黒地に描かれた金色の髑髏。右目に刺さる短剣のその文様は、見間違えようがない。


 あれは交易者の守り神として名高い私掠傭兵『紅玉女帝』マール・アッシャールの旗。


 フラシャールの太守自らがその功績を称え、『紅の至宝アッシャール』の名を授けたほどの傑物と噂に聞いている。


 ここは彼女の庇護下にある村。そんな場所に、金がないわけがないのだ。


 なんなら最悪、物々交換でも構わない。


 これだけの奇跡を生み出す村であれば、女神の加護を受けた武具や魔導具の一つくらいは眠っているだろう。


 それを西方都市アシュルで売り払えば、羊100頭でも、十分お釣りが来るというものだ。


 要は、交渉次第。ここの連中から、残らず毟り取ってやる。






 その考えを見透かしたように、サミルが静かに口を開いた。


「でも親父。正直、俺はちょっと怖いよ。」


「何がだ。」

 

「金が、だよ。」


 苛立ちを込めて聞き返した自分に、長男は声を潜めた。


「もし本当に大金を手に入れられたとして・・・それを抱えて、また砂海を渡るんだろ? 砂賊だってうろついてる。目立てば必ず狙われる。」


「そんなことは承知の上だ。」


 ダルハンは、その怯懦を鼻で笑った。


「危険があるからこそ、商いは儲かるんだ。俺たちは金が必要なんだ。」


 サミルはそれ以上反論しなかった。だがその拳は膝の上で硬く握りしめられている。


 カラムが苛立たしげに足を揺すった。


「親父は、金の話ばっかりだ。こんなに待たされても金が大事なのかよ。」


「当たり前だ。商人だからな。」


「そうじゃねえよ!」


 次男は思わず声を荒げる。


「金よりも、今は時間だろ! 早く帰らなきゃ・・・!」


「カラム、声が大きい。」


 サミルが低く制した。ハッとして、カラムは口をつぐむ。


 ダルハンは息子たちの様子を横目で見ながら、ゆっくりと苦い息を吐いた。


 分かっているさ。そんなことは。


 幼い日の娘の笑顔が脳裏をよぎる。


 だからこそ、ここで失敗するわけにはいかない。






「いいか、カラム。」


 ダルハンは声を落として言った。


「俺たちは命がけでここまで来た。内砂海の危険も承知でな。だからこそ、安売りはできん。中途半端な額では意味がないんだ。」


「でも・・!」


「だがな。」


 言葉を遮るように、彼は続けた。


「俺も馬鹿じゃない。無理に引き延ばして機会を逃すつもりもないさ。妥協点は見極める。」


 サミルは小さく肩を落とした。


「親父の気持ちは分かってる。カラムもそれは同じだ。」


 カラムはまだ不満げだったが、それ以上は何も言わなかった。


「・・そろそろ、戻ってくる頃合いだな。」


 そう呟いたその時。


 テントの布が揺れ、外から足音が近づいてきた。


 3人は同時に顔を上げる。


 それぞれの胸に同じ願いと、違う思惑を抱えながら。






〈十四郎視点〉


「お待たせして申し訳ありません。」


 交渉役のユーリィが頭を下げると、ダルハンは鷹揚に頷いて、持っていたパイプを木箱の上に置いた。


 笛みたいな形をしたそのパイプからは、白い煙が上がっている。


 日本のタバコほど強い匂いはしないが、テントの中は結構煙たい。


 俺、現実リアルではタバコ吸ったことないし、何ならちょっと苦手だ。


 こんな煙が充満した場所に、ユーリィをいさせるわけにはいかないな。


「ナビさん、この煙、どっかやってくんない?」


『指定迷宮領域内の煙を吸収しました。』


 あっという間に煙が消えて、テントの中の空気がきれいになった。ついでに、mpが10減っていた。


「御使い様の御力によるものです。」


 驚くダルハンたちに、澄ました顔でフーリアちゃんが説明した。よし、これでようやく話ができるぞ。






 俺はユーリィに彼との交渉をお願いした。彼女は小さく頷いた後、彼に切り出した。


「家畜を売っていただけるというお話、大変ありがたいです。それで、1頭あたりの値段をお聞きしたいのですが。」


「そうですね。ヤギ1頭銅貨400枚・羊1頭銅貨600枚でいかがでしょうか?」


 ユミナさんが、小さく頭を振る。


 すげえ、ふっかけてきやがった。


 さっき、俺たちが打ち合わせた時には、ヤギ40枚・羊60枚が相場だと、ユミナさんが教えてくれた。


 ダルハンが持ちかけてきたのは、相場の10倍。いくらこれから交渉するからといっても、流石にやり過ぎだろ。






「そのお値段は法外ですね。相場から離れすぎてはいませんか? ヤギ30枚・羊50枚が妥当だと思いますが。」


 ユーリィがそう応えると、ダルハンはわずかに口元を緩めた。


「相場、ですか。ええ、その通りですな。実は今、内砂海では家畜の値が上がっておりまして・・。」


 ほう? それは本当ですか?


「ペルアネゲラで内紛が起きた影響で、物資の流れが止まっているのです。そのせいで、内砂海の村々では家畜不足が深刻化しているとか。」


 なるほど。一見筋は通ってる。本当かどうかは分からないけどな。






「つまり、かなりの高値が期待できる、と?」


「ええ、まあ。仕入れ値もそれなりに上がっておりまして、これ以上は私どももお値引きできません。」


 曖昧な言い方。言い訳をしているが、肝心な数字は決して口にしない。


「相場にはそぐわない。それはそうでしょう。しかし、ここで家畜を一から増やす手間を考えれば、あなた方にとっても破格の値段ではありませんか。」


 くっそ。確実に足元を見てきやがる。


 手の内を見せない、商人らしいやり口だ。ダルハンは続ける。






「最近は南砂海道のほうがずいぶん安全になりましてね。魔獣の出現もめっきり減ったとか。」


「それはよいことですね。きっと、シャーレ様の御力によるものでしょう。」


 フーリアちゃんの言葉に、ダルハンは真面目な顔で頷いた。


「まったくその通りです。慈悲深いシャーレ神に感謝を。しかし、その分、内砂海が荒れてきているようでして。だから今は、内砂海に近づきたがらない商人が多いのです。しかし・・。」


「しかし?」


「しかし、だからこそ商機がある。そう思って、命を懸けてここまで来たのです。こうやって皆さんに巡り会えたのも、きっとシャーレ神のお導きに違いありません。」


 そこで言葉を切り、彼はこちらの様子をちらりと窺った。


「もちろん、みなさんがお困りでいらっしゃるのも分かります。出来れば双方にとって、なるべく良い形のお取引になればと考えております。それをお含みおきいただき、条件をご提示ください。よければ、現金以外のものでも、お引き受けいたしますよ。」


 彼はそこまで言うと、口を固く引き結んだ。これ以上は聞かれなければ話さない、という姿勢だ。


 あえて、こちらに条件を提示させることで、主導権を握ってしまった。さすがは、歴戦の商人だ。






「(御使い様、どうしたらいいでしょう? いくらなんでも、600枚は無理です。)」


 ユーリィはダルハンの方を見たまま、念話で俺に話しかけてきた。


 さっき、銅貨を出したアイコンを調べてみた所、俺が今出せる銅貨の上限は合計20774枚であることが分かった。


 仮にダルハンのヤギと羊が40頭ずついるとすると、彼の提示した額で考えるなら総額は銅貨40000枚になる。


 所持金の倍以上だ。話にならない。


 もちろん、ふっかけてるのは間違いない。だから、あとは交渉次第だな。


 俺はユーリィと念話しながら、ダルハンと交渉してもらうことにした。






「分かりました。仕入れ値が高騰しているのなら、仕方ありませんね。ではヤギ50枚・羊70枚ならいかがでしょうか?」


「それでは我々の商売になりません。私に死ねとおっしゃっているんですか。シャーレ様は慈悲深い女神だとお聞きしておりましたが?」


「そうです。私たちはシャーレ様の慈悲におすがりして生きております。ですから、あえて家畜を買う必要がないのではないかと思いました。今回は残念ですが、このままお引き取りいただくことになりそうですね。」


「いやいや、それは早計です。私も同じく、シャーレ様にお救いいただいた身。皆さんへの感謝の気持ちで、ここは一つ勉強させていただきましょう。ヤギ380枚・羊580枚ではいかがです?」


 やっと折れてくれたか。けど、先は長そうだ。






 ユーリィはその後も、懸命に交渉を続けてくれた。


 日がすっかり暮れ、ユーリィが緊張で汗だくになるまで、細かい数字の駆け引きが続いた。


「これ以上は、話がまとまりませんな。では、ここは一時、お開きとしませんか。」


 ダルハンの言葉に、ユーリィが思わず疲れた笑顔を見せた。本当によく頑張った。えらいぞ、ユーリィ!!






「主様、このやり取り、やはり非効率だと感じるのですが。お互い、最初から決着点は見えていますよね?」


 パトラの言う通り。ダルハンはおそらく相場の2〜3倍を妥協点に設定しているように思う。


 多分、これからが交渉の本番になるだろう。


「それはそうなんだよ、パトラ。でも、これが人間のやり方なんだ。」


「ふむ。これが『道徳』なのですね。納得はできませんが、理解はできました。」


 パトラがそう言うと同時に、ダルハンは笑顔で大きく手を広げた。


「今日はよいお話合いができました。では、今夜一晩、お互いよく考えてみるとしましょう。明日になればきっと・・・。」


 ところがその言葉は、突然遮られた。






「いい加減にしろよ、親父! 明日も、こんな茶番を続けるつもりか!!」


 突然、弟カラムが声を荒げた。


「もういいだろ! そんな回りくどい言い方してないでさ!」


「カラム、黙っていろ!!」


「黙ってられるかよ! そんな悠長なことしてたら・・!」


 少年は拳を握りしめ、叫んだ。


「ナシームが死んじまうだろうが!!」


 その言葉に、場の空気が凍りついた。


「カラム!」


 サミルが慌てて弟の肩をつかむ。


「ご、ごめん兄ちゃん! でも、俺もう我慢できなくて・・・!!」


 その場に崩れ落ち、両手で顔を覆って声を上げて泣き始めるカラム。


 ダルハンは衝撃を受けたように、青い顔をしてその様子を呆然と見つめている。


 さっきまでのやり手の商人の顔は、完全に影を顰めてしまっていた。


 サミルは静かに父親に向き直った。






「親父。もういいだろう。ここらが潮時だ。」


 無言で立ち尽くすダルハンの肩を抱き、サミルは訥々と語りかけた。


「この人たちは命の恩人だ。それに、ちゃんと俺たちのことを考えて真っ当に取引をしようとしてくれてる。そんな人たちから、これ以上、何を奪おうっていうんだ。」


 落ち着いた声だった。


「それに・・そんな金を持って帰って、母さんやナシームが喜んでくれるのか。俺には、とてもそうは思えない。」


 その言葉に、ダルハンは歯を食いしばって、天を仰いだ。やがて。


「・・そうだな。」


 彼は深くため息をついた。


「すまなかった。どうやら、私はあなた方を見誤っていたようです。」


 商人の仮面が剥がれ落ちた彼は、もうすっかり一人の父親の顔になっていた。


 彼はその場に座り込むと、両手をついて深く頭を下げた。


「正直にお話します。私は、私の家族はどうしても・・・金が必要なのです。」

お読みいただき、ありがとうございました。

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