77 村の名前
今日は節分ですね。私は恵方巻じゃなくて、ロールケーキが食べたい派です。
【大陸歴1415年9月6日 夕刻】
〈マール視点〉
「なんか、知らない世界見ちゃった気がする・・・。」
放心したように呟くオリーを連れて、大浴場のエントランスへと戻る。
「マール様、こちらをどうぞ。」
陶製の取っ手付き酒器を持ってそう声をかけてきたのは、ユーリィの母ユミナだった。
彼女に礼を言って、ひんやりとした酒器を受け取る。火照った身体に、そのひんやりとした感触が心地よい。
中身を一気に煽った。
「かーっ、キンキンに冷えてやがる!」
「その言い方、完全にオッサンよ・・。」
ぐったりとしたままオリーが突っ込む。
酒器の中身は苦みの強い黒麦酒。北方出身の彼女には馴染みの深い酒だ。
航行中の水代わりにとフラシャールで仕入れ、大樽に詰めておいたもの。
航行中、樽に詰めた水はどうしても数日で傷んでしまう。そのため、多くの船は代わりとして、酒を積み込んでいく。
ただ、酒は飲みすぎると、より一層喉の乾きを呼び起こしてしまう。
故に、僅かな量を舐めるように飲むのが、砂海の船乗りたちの常識。航行中の酒は嗜好品ではなく、命を繋ぐ糧なのだ。
しかし、風呂上がりに一気に飲む冷えた麦酒が、こんなにも美味いとは!
御使いが作ったという不思議な貯蔵庫。
そこで冷やされた麦酒は、日頃飲んでいる生ぬるいそれとはまるで別物だ。
もう二度とぬるい麦酒には戻れないかもしれない。彼女は空になった酒器を見ながらそう考えた。
「あー、もうあたし、ここに住むわ。」
エントランスに設けられている座卓。
そこにジョッキを置いて、クッションに寄りかかった途端、そんな呟きが口から漏れた。
「その気持ちも分からないじゃないですがね、船長。」
冗談とも本気ともつかないマールの呟きに答えたのは、破鐘のような男の声だった。
「ザッパ、あんたも入ってたの?」
「へい、あっしはあの『蒸し風呂』ってやつが気に入りました。若い連中は、まだ中でがんばっていやすよ。」
マールと同じ酒器を手にしたザッパは、その見事な禿頭を輝かせながらそう答えた。
赤みを帯びたその頭頂部は、火竜山の溶岩流に住むタコのように艶々としている。
彼はつい先程、大浴場の男湯側から出てきたばかりだ。
「そんな船長にはちょっと残念な知らせですがね。船の修理の目処がつきました。明日の夕刻には出航できそうですぜ。」
「えー、もう出発するの? もう少し、いいでしょ?」
「もう、食糧の備蓄がねえんですよ。なにしろ、ここで補給できませんでしたからね。なんなら乗員を増やすことになっちまったんですから。」
「本当に申し訳ありません、ザッパさん、マール様。あと半月もすれば、収穫したものをご提供できるのですが・・・。」
自分の言葉を聞いて頭を下げたユミナに、ザッパは慌てて手を振った。
「いやいや、別にそんなつもりで言ったんじゃありやせんぜ! 気の抜けちまったうちの船長に発破をかけただけですって!」
その様子を端から見ていたユーリィは、クスクスと笑いを漏らした。彼女の両手には、黒麦酒がなみなみと入ったジョッキが2つ握られている。
小さく肩を竦めて、空になった酒器をユミナに手渡し、ユーリィからおかわりを受け取った。
「しょうがないか。ザッパ、登録用の航路図と旗の準備は?」
「手筈通り整えてありますぜ、船長。」
「帰るとなったら、誰よりも早く帰らなくちゃね。こっからは、速さが勝負だ。」
その言葉に、ザッパも真剣な表情で大きく頷く。
砂海の航行については、自分よりもザッパのほうがより一日の長がある。
頼もしい副長の様子に満足して、傍らにいる2人に目を向けた。
「ユーリィ、ユミナ、本当にあんたたちは戻らなくていいのかい?」
ユーリィは、胸にその小さな手を当てながら、まっすぐにこちらを見た。
「あたしは御使い様から授かった使命がありますから。」
「あたしはユーリィの側にいます。残った家族は、もうこの子だけですから・・・。」
ユミナの言葉に小さな胸の痛みを感じ、彼女の目を見つめた。
遠い日の面影。まだあどけなさの残るかつての彼女が思い出される。
ユミナと彼女の夫ユーニス。2人と出会ったのはもう10年以上も前。
まだ、駆け出しの傭兵としてフラシャール砂上船軍の船に乗っていた頃の話だ。
魔獣を追って訪れた村での戦いがきっかけだったが、年齢が近いこともあり、立場を越えてすぐに打ち解けた。
もちろんこれには、差別の対象である傭兵を温かく迎え入れてくれた、若夫婦の人間性が多分の影響している。
以来、補給で村を訪れるたび、親交を深めてきた。
その後、魔剣『紅蓮』を求め、自分の私掠船を手に入れるため、彼女たちの元を離れた。
しかし、その間も、彼らはきっと幸せでいてくれるだろうと信じ、願っていたのだ。
砂の上を漂う薄い板に命を預け、魔獣や砂賊と戦う日々。
そんな自分にとって、2人の変わらない日常はかけがえのない癒やしだった。
それが失われて初めて、そのことに気付かされた。もう二度と、戻ってくることのない日々が。
今、その事実が痛烈に胸に刺さる。
マールの視線を受けて、ユミナは小さく頷いた。そして、その目線を傍らに立つ愛娘へと落とした。
ユーリィを見つめるその目には、かつて自分が眩しいと感じた、深い愛情に満ちている。
そうだ。まだ失われてはいない。
今度は、あたしが2人を守ってみせる。
ここへ旗を残していくのは、そのため。
そして、これから向かうのは、そのための勝負だ。
「使命・・砂漠の民に伝わる伝説か・・・。」
マールはそう呟いた後、小さく笑って軽く頭を振った。そして、努めて明るい声でユミナに告げた。
「分かったよ。それじゃあ行ってくる。次に戻ってくる時は、たっぷり物資を積んでくるからね。楽しみに待ってな!」
「ありがとうございます、マール様。」
「あたしの方もよろしく頼むよ。あたしの旗を、うんと目立つところに掲げておいておくれ。」
マールの言葉に、ユミナは力強く頷いた。
その目に薄く涙が浮かんでいることには、あえて気づかないふりをした。
胸の奥で、誓いを新たにしながら。
翌日の夕刻、マール一行は村を出発して帰路についた。
乗員として村の女性と子どもたちが10人以上加わっているため、船足はやや重くなっている。
「船長、フラシャールには半月ほどで着く予定です。」
「一番近い村まで、どのくらいだい?」
「ここは砂海のド真ん中。ほぼ中央部ですからね。北砂海道の南端までだと、おそらく10日、いやこの風なら8日で行けそうです。」
「8日でも、糧食はギリギリだね。節約すればなんとかなるが、もっとゆとりが欲しい。オリー、あんたの力を貸しな。」
風の精霊と縁を持つオリーは、船足を上げるための風を起こすことができる。
声をかけられたオリーは甲板に備え付けられた簡易ベンチから身体を起こした。
「特別料金って言いたいとこだけど。今回はしょうがないか。いいよ。」
「あんたにしちゃ、やけに素直だね。」
「そりゃね。早く行かないと、あの村、他の船長にとられちゃうんでしょ。それはあたしも困るもの。」
ユミナたちがいるあの村は、知る限りどの航路図にも記載されていない。
未登録のオアシスが発見された場合、位置を特定し、それを砂上船ギルドにもっとも早く登録した者が、最優先探索権と先任開発権を持つことになる。
これは複数の国にまたがる砂上船ギルドで明確に認められているルールだ。
いわゆる早いもの勝ち。冒険者ギルドにおける、未発見迷宮報告なども、これと同じだと聞いている。
もちろん、登録することで他の多くの船もその航路を使用することになるし、砂賊などの襲撃を受ける危険も増す。
しかし、今後、継続的にユミナたちを守ろうと思うのであれば、メリットのほうが遥かに大きい。
村に逗留すると決まった日、副長のザッパやオリーとも相談した結果、そう判断したのだ。
誰よりも早く、そして密かに。ここからは時間と情報を巡る戦いだ。
「船長、登録名はどうしやしょうか?」
ザッパに問いかけられ、思わず天を睨む。
これまで名前など付けたことがない。
大切にしている愛騎でさえただ『相棒』と呼んでいるくらいなのだ。
「うーん、そうだねぇ・・・単純にシャーレ、でいいんじゃないかい?」
「そりゃあ・・・本当にいいんですかい?」
思わずそう問い返すザッパ。
確かに言われてみれば、神の名を冠する村など、あまり聞いたことがない。
強いてあげれば、聖女教の聖地であるエクターカーヒィーン(麗しのカヒ)くらいだろうか。いや、あれは初代聖女の名ではないんだっけ?
なんだか、考えるのが面倒になってきた。
「いいも悪いも、あの村の連中が自分のことを『シャーレの使徒』って言い張ってんだ。なら、それでいいじゃないか。ほら、登録用の航路図を出しな。」
しょうがないという顔をするザッパから航路図を受け取り、羊皮紙に羽ペンを走らせる。
「これでよし、っと。」
地図上にある無数の点とそれを結ぶ点線。
その中の一つに『シャーレ』と大陸公用文字で書き込む。
うん、なかなかうまく書けた。
数年前に私掠船を手に入れてから、文字の手習いを始めたにしては、だが。
・・・やはり、ザッパに書いてもらったほうがよかったか?
そんな気持ちを振り払い、彼女は北に広がる地平線に目を向けた。
どこまでも続く砂のうねりを、沈みゆく夕日が深紅に染める。
夕闇の中、砂海を渡る風が帆布を鳴らし、錨鎖が低く軋む。
朱に染まった砂丘が、静かに後ろへと流れていく。
「すぐに戻る。待っててユミナ。」
言い聞かせるように呟いた言葉。
しかし、その言葉は瞬く間に風に溶け、誰の耳に届くこともないまま消えてしまった。
お読みいただき、ありがとうございました。




