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76 砂海の大浴場

 もうしばらくは日常回を書くつもりです。話はあまり進みませんが、まったり読んでいただけると幸いです。

【大陸歴1415年9月6日 夕刻】


〈オリー視点〉


「あ〜最っっっ高ぅ、これ〜。」


 マールは広々とした浴槽の中で大きく手足を広げる。


 そして、白い石で造られた浴槽の縁に頭を乗せ、ゆったりと息を吐いた。


 真紅の美しい髪が、少し熱い湯の中で泳ぎ、炎の閃きのように広がる。


 浴室の扉を開け、湯けむりの向こうにそのだらけきった姿を見た瞬間、思わず声を上げてしまった。


「あんた、また入ってるの?」


「あんたが考えたコレ、マジで最高だわ〜。」


 湯の中で脱力しきったマールは、目を瞑ったまま間延びした声で返事をした。


「最初は『信じられない!』って言ってたくせに。あと、湯船に髪をつけない!」


 マールの後頭部をぱちんと軽く叩いたあと、浴槽に沈みかけている彼女の身体を引き起こした。


 だが、脱力しきったマールは、またすぐにお湯の中に身体を沈めていく。困ったものだと小さなため息が出た。






 これは流石にやりすぎたかもしれない。


 そう思って、広々とした大浴場を見回した。


 あの御使いとかいう光の球に、どんな建物がほしいかと聞かれ、故郷にあった湯屋の話をした。


 自分の故郷、ガンド大砂海の南方に広がるグリムエル大森林では、天然温泉を利用した共同湯屋で入浴をする習慣がある。


 この亜熱帯樹の森とガンド砂海は、グリム山地という山々によって隔てられており、裾野には多くの温泉が湧き出ているのだ。


 グリムエルの森に住む森妖精エルフたちは、この温泉を利用し、独自の文化を形成している。


 生まれたときからこの文化の中で生活してきた彼女にとって、入浴はごく当たり前の習慣だったのだ。






 でも、砂海を旅するようになって、すっかりその習慣からは遠ざかってしまった。


 当たり前だ。湯を確保するための水と燃料まきは、砂海において何よりも貴重な資源なのだから。


 砂海において、身体を清潔に保つ方法は、湿らせた布で身体を拭く程度が限界だ。


 その頻度は女性でも数日おきに一回。髪を洗うなんてことは、それこそ月に一度あるかないか。


 男性に至っては、数ヶ月水浴びすらしないということもざらにある。


 砂海を旅する人間にとって、水浴びや入浴は、フラシャールやペルアネゲラ、フレンなどの大都市に滞在しているときくらいしか許されない贅沢。


 しかも、フレンなどの西方地域では、蒸し風呂文化が発展しているため、湯船に浸かるというのはなかなかに難しい。






 そんな環境だからこそ「どんなものがほしいか」と聞かれたとき、真っ先に湯屋が欲しいと答えた。


 水浴びではなく、温かいお湯にすっぽり身体を浸してみたい。


 湯船でなくてもいいから、せめて桶にたっぷり湯を張ってみたい。


 そんなささやかな願いを、御使いに話したのだ。


 でも、出来上がった湯屋は想像を遥かに超えるものだった。






 高い天井を持つ広々とした大浴場の中央。


 そこには、一度に数人が入れるほどの大きな浴槽がある。今、マールが伸び切っているのが、それだ。


 でも、浴槽はこれだけではない。


 大浴場の壁際には、小さく区切られた一人用の小浴槽が、いくつも造られているのだ。


 これらの小浴槽は、それぞれお湯の温度が異なっていて、好みの温度を選べるようになっている。


 浴槽の縁にある操作盤に手をかざせば、水温の細かい調節も可能。






 驚くべきは、浴槽ばかりではない。


 小浴室がある向かい側の壁には、仕切りで区切られた身体を洗うためのスペースが設けられている。


 しかも、ひとりでにお湯を吐き出す吹き出し口が一つ一つの仕切りごとに造られているのだ。


 その他に、湯から上がって休憩するための石造りのベンチや、寝そべることのできる寝台などもある。


 そして、何よりうれしいのは、壁のいたるところに様々な大きさの鏡が設置されていることだ。


 鏡なんて、魔法文化の進んだ東方でもめったにお目にかからない超貴重品。それを日常使いできるなんて、こんなに贅沢な話はない。






「そりゃまあ、ハマるよね。」


 これだけ完璧な大浴場なのだ。


 入浴習慣のない北方出身のマールが、あっという間に夢中になってしまうのも頷ける。


 小さくため息をついて洗い場に向かうと、備え付けられたベンチに座った。


 丁度良い高さに造られたベンチは、白い石でできている。


 磨き上げられたようにすべすべで、表面には美しい植物の浮き彫りレリーフが施されていた。


 フレンの大地母神殿でしか見たことがないような、流麗な装飾だ。






 正面の壁に備え付けられた鏡を覗く。


 そこには金色の長い髪をおろした、褐色の娘が映っていた。


 どういうわけか、この鏡は蒸気の中でも、まったく曇ることがない。


 この鏡だけでなく、御使いが作り出した品々はどれも自分の理解を超えるものばかりだ。


 鏡に映る肌や髪には、いささかのくすみも見えない。思わず笑みがこぼれる。


 ここ数日、毎日入浴しているおかげで、肌や髪の質は格段に改善していた。


 手元の操作盤に手をかざすと途端に、頭上から心地よい温度のお湯が、雨のように降り注ぐ。


 故郷の夏の雨を思わせるその優しさに、思わず「ああ」と声を漏らした。






 鏡のすぐ下にある小スペース。そこに備え付けられた陶器瓶から、液状の石鹸を少量手に取り、髪につける。


 これはマールの船の積荷だった植物油を使って、この村の女たちが作ったもの。作り方を教えたのは、あの御使いらしい。


 ちなみに、この植物油は討伐した砂賊からの戦利品だ。


 きしみのない髪は指を絡み取ることなく、きめの細かい泡を立てる。


 頭上から降り注ぐ温かいお湯で洗い流すと、白い泡は長い髪を伝って足元へと流れ、壁際に設置された排水溝へと流れ込んでいった。






 そのとき、突然背後から人の気配がした。


「失礼いたします。」


 泡が入らないように目を瞑っていたため、ギョッとして振り返る。


 そこにいたのはこのオアシスに暮らす3人の幼い少女たち。彼女たちは、手にそれぞれ小さな陶器瓶を握っている。


 最初は入浴しにきたのかと思った。だが、彼女たちはみんな服を着たままだ。


「おー、待ってたよ、あんたたち!」


 何しに来たのと尋ねるよりも早く、浴槽から勢いよく立ち上がったマールが、嬉しそうな声を上げた。


 彼女はいそいそと石の寝台へ向かい、その上に仰向けになって横たわった。


 あの寝台は石自体が暖かくなっている。


 どういう仕掛けかはまったく見当がつかないけれど、御使いの魔力によるものらしい。


 一度横になったことがあるけれど、そのまま眠ってしまいたくなるくらい気持ちが良かった。






 幼女たちは、横になったマールの身体に慣れた様子で清潔な布を被せた。


 続いて彼女の頭と腕、足に陶器瓶の中の琥珀色の薬液を塗りつけ始める。


 独特の匂いからすぐに、それが砂漠大サソリの毒腺から作った香油であると分かった。


 北方諸国の貴婦人たちが、嗜好品として愛用しているそれは、それこそ信じられないほどの高額で取引されている超高級品だと、以前マールが話していた。






 幼女たちはその小さい手で、マールの身体をもみほぐし始めた。


 備え付けの石の枕に頭を乗せたマールは「はああああぁ」と大きな息を吐いた。


「・・・あんた、あたしが知らない間に、この子たちにそんなことやらせてたの?」


「いや、あたしがやらせてるわけじゃないってば。」


 マールは目を瞑ったまま、そう抗議した。


「そうです、オリー様。これはすべてあたしたちが自分から進んでやっていることです。」


「マール様にはいろんな物を提供していただきました。その感謝の気持ちを表すためにどうすればいいかって聞いたら、御使い様がこの方法を教えてくださったんです。」


「マール様は、みんなをフラシャールに連れて行ってくださると聞いてます。これはあたしたちが出来る精一杯のお礼です。」


 マールの言葉を、3人の幼女が肯定した。その言葉に、言いようのない引っかかりを覚える。


「これを・・御使いが?」


 幼女たちに気づかれないよう、訝しげにそう呟いた。






 一体、あの御使いというのは何者なのだろう?


 信じられない奇跡を起こすことから、すごい魔力を持った存在であることは間違いない。


 神霊の類、伝説の精霊ジンであると言われても、信じられそうだ。


 しかし、精霊や神の使いの類であるというには、あまりにも人間への理解が深すぎる。


 この大浴場がまさにそれ。


 オイルを使ったマッサージなど大都市の浴場、しかも一部の貴族や富裕層しか行っていないはず。


 その知識を、砂漠の神の使いがいったいどうやって得た?






 あの御使いは、人間のことをよく分かっていて、気持ちいいと思うところをうまい具合に突いてくる。


 そして、それがすべて何の代償もなしに行われる。魔術の常識に照らして、そんなことは決してありえない。


 御使いは、いったい何を代償にして、これほどの奇跡を生み出しているというのか?


 すべては神の思し召し。きっと、フーリアならばそう言うだろう。


 しかし、精霊魔術を扱う身としては、その言葉を鵜呑みにすることはどうしてもできなかった。






 この状況は人間にとって都合が良すぎる・・・罠に嵌っているのではと疑ってしまうほどに。


 人間の欲望を引き出し、それに溺れさせる罠。


 一度嵌ると二度と抜け出すことのできない、快楽の落とし穴。


 もう少し警戒したほうがいいのかもしれない。マールにもそう警告しよう。


 そう思ったとき、マッサージを終えた幼女たちが声をかけてきた。


「オリー様もいかがですか?」


「いや、あたしは・・。」


「いいや、あんたも絶対にやるべきよ! 普段、船ではダラダラ寝てばっかりのくせに、何こんなとこでカッコつけてんのよ!」


「あれは船酔いのせいで、あっ、ちょ、なに、やめ、あああああああぁ!」


 あっさりとマールに捕まった。体術では彼女に到底太刀打ちできない。


 マールと幼女たち、四人がかりで全身をもみほぐされる。


「ふあああ、やめてえぇえ!」


 石の寝台の程よい温度と体の疲れを癒す手の動き。


 そのあまりの心地よさに、さっきまで心に抱えていたはずの警戒心は、いつの間にやら泡のように溶け去ってしまっていた。

お読みいただき、ありがとうございました。

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