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97 破滅への序曲

 ちょっとややこしい話なので、少し短めにしました。

【大陸歴1415年9月18日 昼】


〈ナクリアット視点〉


「馬鹿が随分暴れてくれたようだな。」


 仕立ての良い装束に身を包んだその小男は、脇に控える半裸の美女に杯を差し出した。


 彼女のむき出しになった太ももに刻まれているのは、手のひらほどもある複雑な文様。この小男への隷属を強制する呪われた刻印だ。


 表情のない彼女がゆっくりと盃を満たすのを待って、2人の前に立った男は話し始めた。


「手練れの護衛たちが、かなり殺られました。ですが、見事に疑似餌に引っかかってくれたようで、取引への被害は殆どありません。」


 恭しい態度でそう報告した中年男性、ビラールへ鷹揚に頷いた後、小男は酒杯を煽った。


 年代を経た上質な香り。この一杯で庶民の1年分の生活費が賄えるほどの葡萄酒だ。


 ビラール自身がつい先程、目の前の小男、ナクリアットに付け届けとして献上したものである。


「ああ、そっちの方は報告を受けている。一人、契約前に上玉を逃したのは痛いが・・まあ、代わりはいくらでもいる。」


 ナクリアットは美女を横目に見ながらそう言った。


 そろそろ、この女にも飽きてきたところだ。売り払うにはちょうどいい機会だろう。


「私も聞き及んでいます。帳簿を管理していた者たちも殺害されたとか。そちらは大丈夫だったのですか?」


「抜かりない。昨日の内にすべて私自身が目を通しておいた。賊はザイヤード一家の死にぞこないだそうだな。」


 ビラールは、ぐっと口角を引き上げて答えた。


「はい。捕まえた女たちを責めて吐かせましたので、間違いありません。」


 ビラールの言葉を聞いて、半裸の美女がビクリと身体を震わせた。


 かつて自分も受けた責め苦。それを思い出したのだ。


「腕は立つようだが、何が重要かも見抜けん間抜けよ。あんな男を側近にしたザイヤードの底が知れると言うものだ。」


 計略に嵌った邪魔者の最後を思い、ナクリアットは愉悦の笑みを浮かべた。


 彼のしたことと言えば、ちょっとした金をちらつかせ、甘言を弄しただけ。


 こちらに対して散々、武を誇ったあの男の最後は、配下の裏切りによる惨めな死だ。こんなに愉快なことはない。


 弱みと金で動かせぬものなど、この世にいないということを、今頃は地獄の底で思い知っていることだろう。


「まったくでございます。間もなくナクリアット様はこの都市ペルアネゲラの支配者となられる方。その際は、どうぞよろしくお願いいたします。」


 床に頭を付けて平伏するビラール。


 名家出身で、都市の商会を束ねるこの男が、自分の足元に這い蹲る様子を、ナクリアットは満足げに眺めた。


「お前にもたっぷりと甘い汁を吸わせてやる。せいぜい骨身を惜しまず働くことだ、ビラール。お前の差し出したあの娘、タティアのためにもな。」


「はい、もちろんでございます。どうぞ末永く、私どもをお引き立てください。」


 顔を伏せたまま、ビラールはそう言った。だから、彼が伏せた顔の下で奥歯を固く噛み締めていることを、ナクリアットは知る由もなかったのだった。






〈バグラ視点〉


「さすがだぜ旦那。よくやってくれた。」


 シディーカの娼館の一室。奥まったその部屋で、傷の手当を受けているデケムに対し、バグラは心からの賞賛を送った。


「きっちり条件は果たしてもらった。今度はあたしが、約束を果たす番だね。」


 黒狐の老獣人ファティーマは、座卓についたまま、そう2人に語りかけた。


「サファとタティアの容態は?」


 デケムの問いかけに、ファティーマはわずかに目を伏せた。


「タティアって娘は無事さ。ちょっと不安定だが、まあじきに落ち着くだろう。サファの方は・・・薬が抜けるまでしばらくかかるだろうね。」


 サファが大量投与されたのは魔力で作られた強力な媚薬。


 心を壊し、相手を意のままに操るこの薬は依存性が強く、高位の神聖魔法を持ってしても、その効果を完全に消し去ることは難しい。


 激しい離脱症状に苦しみながら、薬の影響が抜けるのを待つしかないのだ。


 寝台に横たわっていたデケムは、厳しい顔で身体を起こした。


 バグラは、その肩をそっと押し留め、もう一度、彼を寝台へと戻した。


「なあに、サファは強い女だ。必ず戻ってくるさ。だから旦那も、今はしっかりと身体を休めるこった。」


 ニカっと笑ってそう言った後、バグラは表情を引き締め、ファティーマに向き直った。


「それよりも、この後の話だ。あの野郎を、完全に潰す。」


「潰すって、一体どうするつもりさ。こっちにはもう裏帳簿きりふだがあるんだ。わざわざこっちが手出ししなくたって、あの男はもうおしまいさ。」

 

「それじゃ、ダメだ。」


 ファティーマの言葉を、バグラは真っ向から否定した。






「あんたのやり口は分かってる。あの男がやり取りしたヤバい連中に働きかけて、そいつらに始末させるつもりなんだろう?」


「そうさ。あたしらは荒事は得意じゃないんでね。それの何が気に食わないってんだい?」


「それじゃ、あいつのしたことは闇から闇に葬られちまう。あいつ一人が死んだって、この都市ペルアネゲラに手出ししようとした連中も、それになびいた奴らも、全部残ったまんまだ。」


「あんた、自分が一体何を言ってるのか、分かってんのかい? それじゃまるで・・・!」


 顔色を変えたファティーマに、バグラははっきりと言い切った。


「言っただろう、俺はすべてを手に入れるってな。」


 ファティーマは小さく唾を呑み込んだ後、フッと笑みを漏らした。


「あたしも耄碌したようだね。あんたの器を完全に読み違えていたようだ。分かったよ。そこまで覚悟があるんなら、あたしも手を貸そうじゃないか。」


「約束だからか?」


 そう言ったバグラと、ファティーマは目を合わせてニヤリと笑った。


「意地の悪い男だね。そりゃ、あのシディーカが、おぼこ娘みたいにメソメソ泣くわけだ。」


 悪い笑みを浮かべる2人。そのやり取りをずっと聞いていたデケムが、バグラに問いかける。


「おい、お前ら一体何お話をしてるんだ。俺にはさっぱり話が見えてこないぞ。ちゃんと説明してくれ。」


「もちろんさ。あの野郎を徹底的に潰すために、旦那にもきっちり働いてもらうからな。まずは。」


 バグラは左手の銀鈎を使い、座卓の上に置かれていた裏帳簿を、さっと引き寄せた。


「こいつに働いてもらうとするか。」







〈ナクリアット視点〉


「た、大変です! ナクリアット様! これを見てください!」


 血相を変えてナクリアットの元へやってきたのは、ビラールだった。その手には、丸めた羊皮紙が握られている。


「・・『三日法』の告発書? これが一体どうしたと言うんだ?」


「告発人は、あのバグラです! あの男、あろうことかナクリアット様を、外患誘致の罪で告発しました!」


 それを聞いたナクリアットは、一瞬呆気にとられた顔をした後、腹を抱えて笑い始めた。


「馬鹿のやることは、予想がつかんな! いや、まったく恐れ入った!」


「な、ナクリアット様?」


 呆然と立ち尽くすビラールを前に、ナクリアットは中身をさっと一瞥した。


「『ナクリアットはフラシャールと結び、六都市同盟を危機に陥れた上、それに反対した評議員ザイヤードを殺害した』か、くだらん。」


 ナクリアットはそう吐き捨てると、羊皮紙をビラールに投げ返した。


「それで、裁定人は?」


「は、はい。ザイヤードの護衛隊長だったデケムが名乗りを上げています。」


「ふむ。まあ、そうだろうな。この都市まちで、あんな馬鹿に加担して私を敵に回す者はおらんだろう。それで、連中は私を血眼になって探し回っているのか?」


 ザイヤードはため息交じりにビラールに問いかけた。






 三日法。ペルアネゲラ市を世界有数の犯罪都市たらしめている悪法であり、この無法の街における唯一絶対のルールである。


 市の中央広場、通称『裁きの場』において告発された者は、以降3日の間に訴追・裁定を受けなければ、一切の罪に問われない。


 裁定は裁きの場で行われるが、告発者と被告が同時にそこへいることが、裁定を行う条件とされている。


 つまり、告発から3日間、被告が逃げ延びてしまえば、ありとあらゆる犯罪が許容されてしまうのだ。


 そのため、告発者は是が非でも、被告を広場に引きずり出さねばならない。


 それが分かっているからこそ、ナクリアットはそう尋ねたのだ。ところが。


「い、いえ。それが、告発を行った直後から、バグラとデケムは一切、裁きの場から動いておりません。」


 ナクリアットは口をあんぐりと開けた後、また笑い出した。


「なるほど。そういうことか。」


「あの、一体どういうことなのでしょうか?」


「あの連中、この間の失敗で懲りたのだろう。それでこんな小細工を仕掛けてきたのだ。ただの見栄だよ。実力も知恵も足りない馬鹿の考えそうなことだ。」


「はあ、それはつまり?」


「大方、3日間待って『ナクリアットは卑怯な臆病者だ』などと嘯くつもりなんだろう。」


「し、しかし、いくらなんでも、そこまで愚かでしょうか? もしや、何か決定的な証拠を握っているのでは?」


 ナクリアットは、反論しようと口を開きかけた。だがすぐに言葉を飲み込み、しばらく考えた後、言った。


「裏帳簿を手に入れたとでも? だが、あれにはすべて私自身が目を通した。もちろん、フラシャールとのやり取りはいの一番にな。」


「それならば、いいのですが・・。」


「ふむ。万が一ということもある。念のため、もう一度確かめておこう。」


 彼はビラールに裏帳簿の入った木箱を用意させ、念入りに確かめた。


 しかし、欠けている帳簿は一冊もなかった。


 すり替えられた可能性もないわけではないが、短い時間で精巧な偽物を作ることは、魔法を使ったとしても不可能。


 ナクリアットは、木箱に帳簿を戻すとビラールに言った。


「刻限はいつだ?」


「3日後の日暮れの鐘までです。」


「そうか。ではそれまでは、この屋敷で過ごすことにしよう。護衛を倍増し、守りを固めるんだ。ああ、それから、うまい酒を用意してくれ。何しろ、3日間はここを動くことができんのだからな。」


 ビラールは、心からの笑顔でナクリアットに答えた。


「承知いたしました。ナクリアット様、どうぞ3日間、ゆっくりとお過ごしくださいませ。」

お読みいただき、ありがとうございました。

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