98 処断の英雄
ようやくバグラ編が終わりました。次はまた十四郎視点でのお話が続きます。
【大陸歴1415年9月22日 早朝】
〈ナクリアット視点〉
一日目の朝。ナクリアットはいつもより早く目を覚ました。
窓の外では、まだ市の鐘が鳴っていない。薄い朝もやが砂レンガを覆い、街は白く沈黙していた。
卓の上に置かれた一枚の報告書。
「バグラに動きなし。」それだけ。
彼はしばらく紙を見つめ、やがて静かに鼻で笑った。そして、振り返った時にはもう、その存在を忘れてしまっていた。
書記が準備した書類を手にし、中身を確かめて人を呼ぶ。
朝食が終わる頃、執務室には様々な表情をした商人たちが集まっていた。
不満。諂い。疑念。嫉妬。
顔に出る胸の裡は様々だが、共通しているのは一つ。彼らは彼の金の前では、言うべき言葉を失う。
体格も年齢も異なる男たちが、次々に出される指示に平伏して従う。
皆、金の匂いに踊らされる彼の飼い犬たちだ。金こそが彼の力であり、この犬たちは彼の力を更に増してくれる。
ときに牙を剥くこともあるが、そのときは適切な罰を与えればいい。
最愛の娘を取り上げられた、あのビラールのように。
犬たちは、新たな金を求めて駆け出していった。彼は命じ、彼らは従う。
金によって結びつけられた、美しい秩序。彼の世界は今日も正しく回っていた。
二日目。犬たちの一匹が彼の手元を離れた。はっきりとした理由もなしに。
届けられた書簡には「世論の動向を鑑み」とだけある。
世論。曖昧で頼りない存在だ。それを形作る連中など、金の力でどうとでもなるというのに。
目の前の金よりも、そんなものに左右されるなんて、まったく理解できない。
彼は使者を送り、条件を提示した。しかし、返答はなかった。
「何が不足だと言うんだ?」
彼は眉をひそめた。新たに条件を提示する。甘い汁がたっぷり滴る肉に、とびきり痛い鞭を添えて。
だが、彼の元に犬は帰らなかった。
違和感を感じながら、彼は執務室へ向かった。
しかし、手元が定まらない。計算が狂う。署名を間違える。小銭が合わない。
しかも、書記にそれを指摘されて、初めて気がつく有様だった。
書記も、いつもと違い、曖昧な笑みを浮かべて目をそらすばかり。
夕刻、護衛の一人が姿を消した。残った者に問うが、皆一様に口を閉ざす。
逃げたのだと理解した瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
逃げる理由がない。彼らは高額の報酬を受け取っている。
どう考えても理屈に合わない。
「誰かに脅されている? まさか、バグラか?」
それなら説明がつく。だが、報告は同じ「バグラに動きなし。」
彼は世界がわずかに傾いたような気がした。何かが狂い始めている。だが、その原因が分からない。
彼は金庫を開け、中にたっぷり詰まっている金貨と銀貨を数え始めた。
しかし何度数えても、どうしても数が合わないように思えた。
不意に何かが壊れる音がして、彼は思わず振り返った。しかし、そこには何もない。
じわりと足元から恐れが立ち上り、苛立ちと焦りを感じた。
手が震え、まともに文字を書くことすらままならない。
彼は女奴隷を激しく虐待することで、その世界の歪みを正そうとした。
彼は支配し、奴らは支配されるもの。その秩序を思い知らせようとしたのだ。
しかし、どんなに悲鳴をあげさせても、彼の手の震えが止まることはなかった。
女奴隷が気を失い、動かなくなったとき、彼ははたと気がついた。
扉の外から物音一つ聞こえない。
彼を守っていたはずの護衛たちは、その夜のうちに、すべて姿を消していた。
三日目の朝。昨夜の異変に気づいてすぐに、屋敷を抜け出した。
フード付き外套を着込み、粗末な服に着替えた彼は、人目を恐れながら、眠れぬ一夜を過ごした。
布で顔を覆っているから、彼だと分かるはずはない。
それなのに、なぜが通りを行く全員が、彼と彼の背負った巨大な背嚢を見ている気がしてならなかった。
背嚢の中身は、手元にあった金貨や銀貨、それに手形や宝石類だ。
裏帳簿は、すべて暖炉で焼き捨ててきた。
彼は馬車乗り場を目指した。目的地は、バハムテジャリ市。彼の生まれ故郷であり、支援者が多く住む街だ。
たくさんの馬車がひしめき合う中で、彼は知り合いの馬丁を探した。彼が金を貸している男だ。
ようやく見つけた馬丁に正体を明かし、謝礼を渡して馬車に乗せてくれと頼みこむ。しかし。
「あんたを乗せる馬車はないぜ。」
「なぜだ? 金ならある! いくら欲しいんだ?!」
差し出した銀貨を、馬丁は冷たい目で見つめた。
「いくら積まれたって、無理なもんは無理さ。俺にも家族がいるんでな。この街を売ろうとしたあんたに関わっちゃ、俺の命まで危ねえ。」
「な、なぜ、それを!?」
驚く彼を、馬丁は鼻で笑った。
「あんた、何にも知らないのか? なら、中央広場に行ってみるんだな。もっとも、そこまで無事に辿り着けりゃいいが。」
馬丁は意地悪く笑ってナクリアットを見下した。
「もう、都市中の人間があんたの悪事を知ってるぜ。酒場でも、置屋でも、あんたの話で持ちきりさ。いやあ、人の噂は風より早いってのは、本当だな。」
ナクリアットは握っていた銀貨をポケットに戻すと、後も見ずにその場から走り去った。
たった3日だぞ!? 一体何が起きている!?
彼の愛した金でつながった世界。支配の秩序が守られた世界が、音を立てて崩れていく。
彼は人混みに紛れ、闇雲に歩き回った。通りに溢れる人々を避けながら。
職人。農夫。行商人。兵士。
女給。娼婦。縫い子。洗濯女。
どうしてこの街は、こんなにくだらない人間で溢れているんだ!
彼はとるに足らない人々に翻弄され、安住の地を見つけられないことで、苛立ちを募らせていった。
そのとき、一人の物売りの少女が、彼の前に飛び出してきた。背嚢の重さで、大きく姿勢を崩してしまう。
危うく転びそうになった彼は、申し訳なさそうな顔をしているその少女に、思わず癇癪をぶつけてしまった。
「私の邪魔をするな、この貧民め!」
突き飛ばされた少女が転がり、籠に入っていた果実が通りに散らばる。
少女を助け起こした行商人の男が、彼に詰め寄ってきた。
「おい、あんた! 小さな子どもになんてこと・・・あんた、ナクリアットか?」
無感情に呟いたその名に、通りの人々が一斉に足を止めた。
彼はすぐに、ズレてしまったフードを被り直したが、すでに遅かった。
彼を取り巻く目。目。目。目。
声高に非難するわけでもない。
厳しく糾弾するわけでもない。
人々は彼を遠巻きに取り囲んだ。
だが、積極的に何かするわけではない。ただ、彼の名を囁く静かなざわめきだけが、徐々に徐々に広がっていく。
「な、なんだ? 私をどうするつもりだ?」
彼は問いかける。しかし、返答はない。
「何が欲しい? 言ってみろ、金ならある! ほら、いくら欲しいんだ!?」
両手に銅貨と銀貨を握りしめ、彼は再び問いかけた。
しかし、やはり返答はない。
物乞いの少年ですら、冷たい目でそっと視線を外す。
彼は落ちた銅貨を見ようともしなかった。群衆に蹴られた硬貨は、石畳を転がり、音を立てて溝に落ちた。
やがて、一歩前に進み出た者がいた。
見覚えのある男。彼が借金の形に、船を取り上げた元船主だった。
店を奪われた酒場の女将が無言で彼を睨む。
無理な出稼ぎで両親を無くした子どもが震える拳を握りしめる。
また一人、一人。金で彼に人生を支配された人々が、彼を取り囲んでいく。
「何をする! 離せ! 金ならやる!!
俺は何も悪くない!! そうだろう!?」
叫ぶ彼を人々は引き倒し、広場へと引き立てていった。
「なんだ、これは・・!?」
そこにあったのは、一枚の高札。
貼られていたのは、彼とフラシャールとの詳細なやり取りを記録した帳簿の一部だった。
なぜ、これが、こんなところに?
高札に群がる人々。その中にいる吟遊詩人たちの姿を見て、彼は自分が陥れられていたことに、ようやく気がついた。
世界が音を立てて崩れていく。
気がついたとき、彼は人々の手によって、2人の男の前に引き出されていた。
「ようやくお出ましか。待ちくたびれたぜ。」
獅子のような金色の蓬髪をした偉丈夫が言った。
その後ろに控えているのは、全身黒づくめの装束を着た角刈りの男。
「バグラ、デケム・・!!」
地面に抑え込まれた彼は、目だけで2人を睨みつけた。
「早速始めるとするか。」
「な、なにをだ!?」
「決まってる。裁定だ。」
三日法の裁定には、3人の裁定人が必要。告発者・被告がそれぞれ一人ずつ指名し、残る一人は裁きの場にいたものの中から一人が名乗り出ることになっている。
「こっちの裁定人はデケムの旦那だ。お前は誰にする?」
民衆の手から解放され、その場に座り込んだナクリアットに、バグラは淡々と尋ねた。
「ナクリアット様、ぜひ私を指名してください。」
そう声を上げて進み出たのは、恰幅のよい中年男。
「ビラール! 来てくれたのか!!」
「もちろんです。こんな大切なときに、私があなたから離れるわけがありません。」
そうだ。ビラールには、今まで散々うまい思いをさせてきた。こいつには私を裏切る理由がない!
「私はビラールを裁定人に指名する!」
「じゃあ、もう一人は、あたしが名乗りださせてもらおうかねぇ。」
「ファティーマ!!」
勝った! ナクリアットは自分の勝ちを確信した。
ファティーマはずる賢く油断ならない女狐。だが、利に聡い女。
バグラに加担し、街を混乱させるような真似をするはずがない。
その証拠に、この老獪な狐の獣人はバグラではなく、自分の方へ歩み寄ってきたではないか!
「ファティーマ、お前とは長い付き合いだ。この後、たっぷり礼をさせてもらうからな。」
「そりゃあ、楽しみだ。」
そっと囁いたナクリアットの言葉に、彼女は獣じみた恐ろしげな笑みを浮かべた。
夕日が差し込む中央広場には、都市中の人間が集まっているのではと思えるほど、多くの群衆に取り囲まれている。
にも関わらず、咳き一つ聞こえないほどに、静まり返っていた。
その静寂破るかのように、バグラが動いた。
右手で引き抜いた自らの愛刀を、地面に深々と突き立てる。
「この男が、俺たちをフラシャールに売ろうとした裏切り者だ。俺はこの男に断罪を下す。異議ある者は、この剣に触れるがいい!」
高らかに宣言するバグラを、ナクリアットは薄笑いで認めた。
裁定人のうち、2人はこちらについているのだ。これが終わったら、今度はお前を私が告発してやる。
せいぜい、砂海の果まで逃げるがいい!
当然、デケムは動かない。ナクリアットは後ろに控える2人、ビラールとファティーマが動くのをじっと待った。
「・・・? なぜ、動かん?」
しかし、いつまで待っても、2人は動く気配がなかった。
「ビラール! なぜ動かんのだ! あれだけ儲けさせてやった恩を忘れたか!!」
静まり返った広場に、ナクリアットの絶叫が響く。
ビラールにすがりついて体を揺すった。しかし、彼は冷たい目で見返すばかり。
「何が欲しい!? 金か!? それとも土地か!? いや、それよりも! お前の娘タティアがどうなってもいいのか!?」
娘の名を呼んだ途端、ビラールは本当に不快そうに顔を歪めた。
「タティア。」
「はい、お父様。」
群衆の中から進み出た娘は、震える身体をそっと父親に寄り添わせた。
「もちろん、忘れてはいませんとも。ナクリアット、あなたが私にどんな汚いことをさせてきたかを。そして、この子にどんな仕打ちをしてきたかを。」
静かな、そして魂が凍るような冷え冷えとした声。
「あなたは私の偽の報告を疑いもしなかった。タティアは、デケムさんが救い出してくれていたんですよ。もう、3日も前にね。」
しかし、ナクリアットは分からない。
その場に崩れ落ちた彼は、呆然と繰り返した。
「なぜだ? わからん? なぜ、俺から離れる? なぜ、あれほどの金を捨てられると言うんだ?」
ファティーマはフッと小さくため息を吐いた。
「あっけないもんだ。あたしが動くまでもなかったね。ビラールと組んで、すり替えさせておいた帳簿が、こんな風に役立つとは思わなかったよ。」
その言葉を合図にしたかのように、広場に鐘が響き渡った。
「刻限だ。裁定は覆らなかった。」
バグラは右手で愛刀の柄を取り、音高く引き抜いた。
「や、やめろ! くるな! 金ならいくらでもやる! 販路も全部! 有利な取引だって! いくらでも儲けさせてやるぞ!!」
バグラは大きく曲刀を振りかざした。
「なぜ? なぜ、欲しがらん? なぜだ!?」
醜く歪んだ表情を残したまま、ナクリアットの首は空を舞った。
しかし、その瞬間も、群衆からは何の声も上がらなかった。
〈バグラ視点〉
広場に音高く、澄んだ金属音が響いた。
バグラの銀鈎と曲刀が打ち合わされたその音で、群衆は夢から醒めたように、バグラを見つめた。
蓬髪を振りかざし、バグラは剣を掲げて吠えた。
「断罪は下された! 裏切り者は死んだ!」
最初は静かなざわめき。
しかし、それはすぐに巨大な歓呼の声となって、街を揺るがした。
彼らは、新たな英雄の誕生を称えた。
それは崩壊した古い秩序に代わる者。
都市を脅かそうとする外敵から、彼らを守る力強い守り手に他ならなかった。
バグラの名を叫び、熱狂する群衆。だが、それを見る彼の目は静かだった。
夕闇の地平線の彼方を、バグラはじっと見つめた。
しかし、その表情は夕闇の影にかき消され、誰の目にも映ることはなかった。
翌日、アーシが操るバグラ船団の旗艦『奪い去る刃』号が、ペルアネゲラに入港した。
数日ぶりに合流した彼らは、再会を喜び合う間もなく、ナクリアット亡き後の後始末に追われることになった。
今やバグラは名実ともに、この都市を外憂から守る象徴。
ファティーマの後ろ盾と、ビラールの補佐を受けた彼は、旧ザイヤード一家を再編成すると、ナクリアット派の残敵処理を同時に進めることになったのである。
それからおよそ1ヶ月後。
ようやくサファが床から起き上がり、デケムに介助されながら、自力で食事がとれるようになった頃、その知らせは彼のもとに届いた。
内砂海に突如として現れた小城砦。そこに、多数のフラシャール船が集結しているというのだ。
そして、その中には、西フラシャール太守家の紋章をつけた巨大船も含まれているという。
「アニキ、この小城砦ってのは・・。」
「ああ、俺の隠れ家だったあの廃村で間違いねえだろう。」
あるはずのない左手の痛みが、あの日の屈辱を呼び覚ます。
奪うことで生きてきた彼から、左手を奪った相手。
不可解な力で、見る見る間に廃村を城塞へと変えた娘。彼の襲撃を魔獣の力で幾度となく退けてみせた仇敵。
あの小娘、ついに、フラシャール本国と結びやがったか。
「アーシ、すぐにファティーマとビラールに、ここへ来るように伝えてくれ。」
「すぐに、ですか?」
「ああ。ことは一刻を争う。そう伝えるんだ。」
その言葉で、アーシは弾けるようにその場から飛び出していった。
バグラは、側に控えていたオルワに目を向けた。
「俺にお前の力を貸せ。」
オルワは薄く微笑むと、彼の右手を取った。
『どうぞ、あなたの望むままに。』
彼と視線を合わせたオルワは、ゆっくりと頷いた。
聖女のように穏やかな笑み。そこにどのような刃が隠されているのかを、バグラはまだ知らない。
オルワの瞳を覗き込んだ瞬間、バグラは心に熱い風を感じた。
それは凶風。すべてを飲み込み、焼き尽くさんとする圧倒的な破壊の衝動だった。
バグラの目に、強い光が宿る。
力への渇望に目覚め、都市を踏み台にして成り上がった男が、明確な蹂躙の意志を持ち、今まさに動こうとしている。
しかし、その熱い風に気づいている者は、まだ誰もいない。静かな微笑を浮かべる黒檀の聖女を除いて。
お読みいただき、ありがとうございました。




