現実の学園生活が始まりました
当て馬とは、本来は繁殖させたい牝馬の前に立たせる牡馬のことを指す。
転じて恋物語においては、主人公たちの恋を盛り上げるために配置される引き立て役だ。
ミュリエッタは、その役に徹するつもりでいた。
誰も、好き好んで悪役になりたいわけがない。
オフィーリアには、神が定めた運命など乗り越えてほしい、そう思う。
(わかってはいたけど、当て馬のなり方とか、噛ませ犬の心得みたいな指南書なんてないわよね。わかってはいたけど! どうしてこう、人に聞きにくいことほど、本にも書いてないのかしら)
ミュリエッタは学園図書館の脚立の上で、小さくため息をついた。
番に関する書物がまとめられた棚の前で、ひとり途方に暮れる。
日頃散々通い詰めてはいるが、この棚の前に来るのは今日が初めて。幼い頃に一通り調べ尽くした知識を、今さら改めて得る必要はない。そう自分に言い訳をしながら、実のところ、無意識に足が避けていた。
異種族の文化や習慣に強い関心を抱くミュリエッタだが、番に関するそれだけは例外だった。
(番の解消方法が、相手の死以外に存在しないだなんて、とっくに知ってるんですから……)
苦い笑みを浮かべてから、肩を落とす。
(ああ、本当にどうしましょう。冗談であってほしい。でも、私なんかを個人のお茶会に招待してくださった理由としては、確かに筋が通っているし……あの方が、そんな冗談を言うような方にも見えないし……)
悶々としながら、ミュリエッタはとりあえず目の前の本を手に取って開いた。
心ここにあらずで文字に目を滑らせる。
内容はなんでもいい。
ページをめくる動作そのもに、ミュリエッタは落ち着く。
さっきの本を棚に戻し、その隣、そのまた隣へと手を伸ばしては開いていく。
(……あら、これ、閲覧席に本を持って移動する手間がないから楽ね)
ふっ、と小さく息が抜ける。
(ふふ、もしかしてあの方も、ただ移動するのが面倒で閲覧席を利用しないのかしら)
脳裏に思い浮かんだその姿に、ミュリエッタははっとした。
これはまずい。とてもよくない傾向だ。
「危ない!!」
「ひゃっ!!」
突然の大声に肩が跳ね上がった。
遠くの本を取ろうとしていた体勢が崩れ、視界がひっくり返る。
ミュリエッタは床に叩きつけられる痛みを覚悟して、思わず体をすくめた。
ガタンッ、ドサッ、ドサッ!
そこそこ派手な音が響いたが、予想していたよりもはるかに小さな衝撃しか来ない。
ミュリエッタは固く閉じていた両目を、嘘でしょ、と思いながらおそるおそる開く。
「大丈夫か。すまない、私が驚かせてしまったな」
吐息が触れそうなほど近くに、整いすぎた顔が。
ついさっき思い浮かべたばかりの本人に抱きとめられているという状況に、ミュリエッタは身じろぎひとつできない。
(しかも実物のほうがかっこいいってどういうこと!? そんなことある!? 恐るべし顔面国宝……!!)
石像と化したミュリエッタを、クロードは紳士的に立たせると、床に落ちた本を拾い始めた。
「あっ、ありがとうございます!」
「いや、礼はいい。脚立から落ちかけているように見えた。君は本を取ろうとしていただけだろう。私のほうこそ、余計なことをして怖い思いをさせてしまった」
こんなの、ときめいてしまう。
ミュリエッタは胸の奥で、ぶるりと震えた。
――この人を、好きになってはいけない。
ローゼン学園にいる竜人族は、今のところ二人だけ。
つまりオフィーリアの婚約者とはクロードのことだ。
そしてそのオフィーリアいわく、クロードの番はミュリエッタらしい。
「どうした。どこか痛むのか」
クロードのこの優しさは、ミュリエッタが番だからなのだろうか。
(いいえ……いいえ! 会長は親切がデフォルトなだけよ! ロロニアスさんの勘違いかもしれないし、そもそも本人から何も言われていないのに、好かれてるかも、なんて思うのは……ただの恥ずかしい思い上がりよ)
ミュリエッタは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「いいえ。会長が受け止めてくださったので、どこも痛くありません。脚立を動かさず横着した私が悪いのです。お気遣いありがとうございます」
淑女としてあるべき姿を意識し、ミュリエッタはしっかりとクロードの目を見た。
瞳孔が縦に伸びた、美しい黄金色の瞳。
一瞬だけ見開かれたあと、すぐに手元の本へと落とされる。
ミュリエッタは、あ、と思った。
「『愛する番とのラブラブ濃厚エッチ、長命種の揺期周期観測及び求愛行為一覧』」
「どうして声に出して読んじゃったんですか??」
ミュリエッタは慌てて本棚を指さす。
「違います! あそこの本から右に順番に読んでいただけで、その本が特別読みたかったわけじゃありません! たまたまです!」
言い訳は重ねるほど嘘くさくなる。
ミュリエッタはコホンと咳払いをした。
この本の題名に惹かれて手に取ったわけではない。断じてない。絶対にない。
「……表題にインパクトを持たせて目に留まりやすくする手法はよくありますし……会長!? お顔が真っ赤ですよ!」
「気のせいだ」
嘘だった。むしろ首まで赤い。
だがそれを指摘するほど、ミュリエッタは野暮ではない。
「……気のせいのようです」
「…………。……読むのか、君が、これを」
「……ええっと、やめておこうかなと思います」
「そ、そうか。では棚に戻すが、構わないな?」
ミュリエッタは素直に頷いた。
背の高いクロードは、腕を伸ばすだけで本を棚に戻してしまう。
その横顔が天窓から差し込む陽光に照らされる。
舞い上がった埃がきらきらと輝き、まるで光の粒をまとっているようだった。
(……あ、髪、青い)
漆黒かと思っていた髪色が、紺碧だったと気づく。
その隙間からのぞく耳はまだ赤いままで、ミュリエッタは胸を押さえた。




