最終章は幕を下ろします
中庭の賑わいが遠くに聞こえる。
開けっぱなしの窓から、柔らかい夜風が吹き込んできて、熱を持った頬を優しく冷やした。
外ではクロードが、ミュリエッタが落ち着くのを静かに待ってくれている。
気恥ずかしさと心地よさに包まれて。
ミュリエッタはその面映ゆさに、そっと息を吐き出す。
そして深く息を吸い込んで、上を向いた。
「会長、このまま少し、お話をしてもいいですか」
「もちろんだ」
予想通り優しい答えが返ってきて、ミュリエッタは胸を押さえる。
本来、大国の王太子であるクロードは、商家の娘でしかないミュリエッタの言葉を、待つ必要などない。
けれど彼は、その権威を振りかざしたりはしない。
それは相手がミュリエッタだから、ではない。
ましてや、運命だからでも、番だからでもない。
いつだってクロードは目の前にいるその人の、その意思を尊重する。
クロードは、優しく、誠実な人だ。
そんな人から向けられる感情に、目を背けてはいけない。
だが、彼の想いを受け入れる前に、ミュリエッタは自分と向き合わなければいけない。
とっくの昔に癒えたと思い込んでいた傷が、今もなお胸の奥底に残っていた。
「私、運命の番が嫌いでした」
言葉に出すと、こんなにも苦しい。
「私の母は、私を産んでから番と出会いました。そして、番との未来を選んだ」
その悲しみは、もう乗り越えたと思っていた。
「私にとって、運命の番とは、理不尽な神の定めでした。祝福だなんて嘯いて、その幸せは、誰かの不幸の上に成り立っているものなのだと。本当は、そうとは限らないことくらい、分かっていたんです」
それでも認めたくなかった。
物分かりのよい「いい子」なふりをして。
運命のせいなのだと、自分に言い聞かせて。
「私はずっと、答えから逃げていました。傷つくのが、怖かったから」
握った手が、膝の上で震える。
ミュリエッタにとって、番は悪であってほしかった。
そんな悪に、なりたくなかった。
でも、本当は違う。
「私は、母を奪った番を恨むことで、あの日、置いていかれた悲しみから、目を背けていただけだった」
鼻の奥がつんとする。胸の奥が鈍く痛い。
「だって、もし、運命の番が、神からの祝福なのだとしたら、」
声が震える。泣いて縋りたいわけじゃないのに。
「番ではなかった父と母の間に生まれた私は、……あの日、置いていかれた私は、間違いなのかと」
「そんなはずがないだろう」
ずっと静かに耳を傾けてくれていたクロードが、この言葉だけ、はっきりと否定する。
彼ならそう言ってくれるだろうと、ミュリエッタはもう、分かっている。
「……父からも、そう怒られました。その愛情に、きっと嘘はない。分かっています」
分かっていても、悲しみは消えない。
「ただ、私は、私の悲しみも、父の悲しみも、仕方なかった、と思いたくありません。それだけは、認められない。……だから私は運命が嫌い」
眦に浮かんだ涙を、抱えた膝の上で拭う。
誰にも話すことが出来なかった傷は、打ち明けてもなお、ズキズキと痛い。
全ての感情が、吐き出すだけで楽になれるのなら、人は何も思い悩んだりしない。
「……私も運命が嫌いだった」
クロードの声に、ミュリエッタはじっと耳を澄ませる。
「君を初めて見た時、私は戸惑い、番だと受け入れられなかった。理性を超え、本能で誰かを愛するなど、不健全だと」
この言葉に、胸がざわつく。
自分は運命を嫌っておいて、この有様だ。
「だから私は義務だなんだと宣い君に近づいた。我ながら見苦しかったと思う。婚約者がいる身でありながら、君を目で追ってしまう自分を、認めたくなかったんだ」
自嘲気味に笑う気配を感じた。
顔を見合わせていないからこそ、話せることがある。
「始まりは、番だったから、かもしれない。だが、君を番と認識できなくなった今だからこそわかる。私はどうしようもない馬鹿だった」
「それは――」
ミュリエッタは口を閉じかけて、とまる。
相手の心を勝手に決めつけて、自分を守るための逃げ道を作るのは、もう終わりにしよう。
「それはどういう意味ですか?」
「私は君が好きだ。いつからだったかなんて、もう、分からない」
胸の奥で、そっと何かがほどけていく。
お腹の下あたりがそわそわと落ち着かない。
ミュリエッタは無性にクロードの顔が見たくなった。
「……君の母君が何を思ってその選択をしたのか、私は知らない。だから無責任に君を慰めることはできない。だが私は、君の悲しみを大切にしたい。君は運命を憎んでいい、恨んでいい」
クロードは、ミュリエッタよりずっと背負うものが多いのに。
心まで、大切にしてくれると言う。
「その上で私は、君との運命を、君と生きる未来を、祝福にしてみせる」
なんてことだ。
ミュリエッタは今すぐここから飛び出して、その高い背に飛びついてしまいたくなった。
「……だからどうか、その儚い一生を、私と共に歩んでくれないか。想い人を、心に残したままでいいから……」
熱く勢いのあった口吻が、徐々に弱まっていく。
ミュリエッタは立ち上がろうとしていた姿勢を、ん? と止めた。
「すまない。少し取り乱してしまった。大丈夫だ。分かっている。君はその心に別の、」
「あー!! 会長、それ誤解です! 勘違いです!」
もっと劇のワンシーンのような、ドラマチックな告白にしたかったのに。
「私が好きなのは、あなたですよ!」
どうして現実はこうも、ままならないのか。
「……そんな優しい嘘、つかなくていい」
「嘘じゃないのですけど?! 嘘でしょう??」
「やはり嘘か」
「違います!!」
ミュリエッタは、足が露わになるのもかまわず、豪快に窓枠に乗り上がると、その勢いのまま外に飛び出した。
だって、ほら。
この人なら、必ず受け止めてくれると、思ったから。
クロードは軽々とミュリエッタを抱き止めた。
その首元に、ミュリエッタはぎゅっとしがみつく。
ばくばくと心臓がうるさい。
「あなたのことが、ずっとずっと、好きでした」
背中に回された腕の力が強くなる。
いつだったか、同じように抱きしめられたときは、あんなにも胸が苦しかったのに。
胸の奥に宿る切なさが、どこか甘い。
この運命は、誰もが羨むようなラブでロマンスなハートフルストーリーになるとは限らない。
それでも。
その結末がハッピーエンドになるかどうかは、自分の行動次第ではないだろうか。
「私をあなたの番にしてください」
精一杯の告白に、クロードは真摯に答える。
その言葉は夜風にさらわれて。
ミュリエッタの耳にだけ、とどいた。




