始まりませんでした
「とりあえず、離してくださいませんか。逃げ出したりはしませんので」
感情を押し殺して出た声は、思いのほか無機質になった。
躊躇いがちに解かれた拘束からするりと抜け出すと、ミュリエッタは乱れた髪や制服を整え、椅子に戻る。
クロードは所在なさげに視線を彷徨わせていて、少しだけ心が救われた気がした。
自分はいつから、こんなに意地が悪くなったのだろう。
「会長は私を国に連れ帰るとおっしゃいましたが、それは私の学園卒業を待ってはくださらない、ということでしょうか」
クロードが重く頷く。
ミュリエッタは考える。
これまでミュリエッタに番だと告げなかったのは、クロードなりの優しさだったのかもしれない。
番は悪意のある者に利用されやすい。けれど王太子の立場上、その存在を秘匿し続けることはできない。むしろ大々的に公表し、民意や世論を味方につけることで、番に手出しさせない状況を作る必要がある。
そこにミュリエッタの意思が介入する余地はない。
クロードがミュリエッタを番だと公言したその瞬間から、ミュリエッタには『クロードの番』という重い枷が課せられてしまうのだ。
「もうひとつ確認したいのですが、私が会長の番だというのは確かなのでしょうか? 人族は自分の番を認識できないので確証が欲しいです。国に渡ってから実は間違いでした、では悲惨です」
「……どう証明すればいい」
「どう……どうしましょうか。……高位種であればあるほど、番に対して、その、いろいろな欲が掻き立てられると聞いているのですが、ええっと、そうなのですか?」
濁しに濁しまくった内容を、クロードは正しく汲み取ったらしい。頭から湯気を出しているミュリエッタにつられ、顔を赤くした。
「……それを、君に、どうやって証明しろというのだ」
その通りだ。ミュリエッタは恥ずかしさで爆発しそうになった。
「今のは聞かなかったことにしてください」
「心得た」
とんだ茶番だ。ミュリエッタは顔を両手で覆う。
「……もう嫌」
「…………」
暗くなった視界の中で気を持ち直し、ミュリエッタは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「……ごめんなさい。オフィーリアさまという素敵な婚約者がいらっしゃるのに、私を番だと偽るメリットが会長にはありませんでした。信じがたいですが、信じます」
今、手のひらの向こうで、クロードがどんな顔をしているかは分からない。知りたいとも思わない。
ミュリエッタは下唇を噛んだ。
昔から、物分かりのよい「いい子」を演じるのは得意だ。
「……これはお願いなのですが、どうか、学園を卒業するまでは待ってくださいませんか。あと、たったの三年ちょっとです。ミュリエッタ・クララベールとして、最後に自由をください」
「…………分かった」
その声はどこか苦しそうで、ミュリエッタは指の隙間からクロードを覗き見る。クロードは俯いていて、前髪に隠れた表情まではうかがえなかった。
(この人だって、運命に弄ばれた被害者よね……)
ミュリエッタはままならない関係に深くため息をついた。
互いに言葉を選んでいるうちに、沈黙が流れる。
人はまだ、神が定めた運命から逃れる術を持たない。
ミュリエッタが顔を上げた、そのときだった。
「殿下が行けというから来た。あんたら何やってんだ?」
間の抜けた声に、がっくりと肩を落とす。
これ以上事態をややこしくしてくれるなと、ミュリエッタは呑気な顔をしているユオの足を踏みに行く。
あっさりと避けられた。小癪な。ミュリエッタはわざとらしく頬を膨らませる。
「避けないでよ!」
「いや避けるだろ。……おい、どうした、その目」
目元を赤くしているミュリエッタに、ユオはめざとく気づくと、近くにいたクロードへ鋭い視線を送った。
「やめて! どちらかと言えばユオのせいだから! 戻って!」
「……なんだと? やはりこの男が君に何かしたんだな?!」
「おいおい、なんのことだよ」
混沌とし始めたガゼボの中で、ミュリエッタは天を仰ぐ。
そして、なにやらバチバチと火花を散らし始めた男二人に向かって、叫んだ。
「もうふたりとも出て行って! ひとりにして! じゃないと嫌い!!」
我ながらなんて幼稚な脅しだろう。後悔してももう遅い。口から出た言葉は戻せない。
ミュリエッタは呆れているだろう二人の反応を見るのが怖くて、その背をぐいぐい押して物理的に外へと追い出した。
異性から面と向かって「嫌い」と言われたことがないクロードが放心していることも。
そんなクロードを見て、この人、意外と面白い人なのでは、とユオが思い始めていることも。
ミュリエッタは、そんな二人の様子を知ることはない。




