ロマンスな日々が
「私に優しくしないでください!」
叫んでから、後悔した。
「分かった」
その声が、あまりにも低かったから。
ローゼン学園の食堂には、外で昼食を取る生徒のために、持ち運びに便利な軽食が用意されている。
ミュリエッタは穏やかな風が吹き込む小さなガゼボの中で、ハムとチーズが挟まれたバゲットにかじりついた。
なかなか飲み込むことができず、ふた口かじっただけのバゲットは早々に鞄にしまわれる。
傍に避けておいた本を膝の上に置き、その表紙を開く。
ぺらり、ぱらり。
ミュリエッタは胸がざわつくとき、本を読むことで気持ちを落ち着ける。
ただ文字を目で追う。内容は頭に入っていない。
本をめくる、その動作に心が静まる。
ぺらり、ぱらり。
文字がじわじわと歪んでいく。
「…………ふぅっ」
めくれど、めくれど。
込み上げてくるものが、止まらない。
「……うぅっ、ふっ……!」
とうとう、頬を伝って、落ちてしまった。
ミュリエッタは本を抱えるようにして背中を丸める。
ぽたり、ぱたり、と煉瓦が敷き詰められた地面に涙が落ちる。
ミュリエッタは泣くことが苦手だ。
どれほど泣き喚いても、どうにもならないことがあると、もう、知っているから。
(わたし、どうすればよかったの……?)
傷つきたくなくて脇役になろうとしたのに、自分から傷つきにいって。あまつさえ、オフィーリアを傷つけた。
そして、自分の恋が叶わなかったからと、誰かの恋を実らせようとして。あげくの果てに、余計なことまでした。
ミュリエッタは、カリンの気持ちを考えているつもりで、自分本位に動いていた。ユオにだって失礼なことを言った気がする。
怒らせて、当然だ。
でも、なら。どうして。
ぐちゃぐちゃになった感情が、行き場をなくして溢れ出る。
本当は、もっとずっと前から、泣いてしまいたかった。
「どうした!? 何があった、大丈夫か!?」
今、一番聞きたくない声だった。
どこかで喜んでいる自分がいて、そのどうしようもなさに、嫌気が差す。
息を切らしたクロードが、ミュリエッタの目の前で膝を折る。
「どこかが痛むのか? 医務室まで運ぼうか? それとも誰かに何か酷いことをされたのか? 誰だ? あの男か?!」
何かを勘違いしているクロードに、ミュリエッタは声を絞り出す。
「ち、ちがっ、違いますっ! ……なんでもありませんっ!」
「なんでもなくはないだろう、こんなに泣いて! 私には話し辛いことなのか? 何か私にできることはないか?」
そっと背中をさすられて、ミュリエッタは弾かれたように身を起こした。
「やめて!」
金色の瞳が愕然と見開かれる。
違う。ミュリエッタはクロードを傷つけたいわけじゃない。
でも。もう、苦しい。
「私に優しくしないでください!」
叫んでしまってから、その口をぎゅっと噤んだ。
「分かった」
ぞわり、肌が粟立つ。
強く腕を引かれ、「ごめんなさい」という言葉は、音になる前に消えた。
瞬きの間に。
ミュリエッタはクロードに抱きしめられていた。
――最悪。
ミュリエッタは、もうこれ以上、自分を嫌いになりたくない。
「何するんですか?! 離してください!!」
クロードの服を掴んで引っ張る。どれほど暴れてみても、びくともしない。背中に回された腕がより強くミュリエッタの体を締め付けてくる。頭はクロードの胸に押さえつけられ、動かすことすらできない。
「優しくしなくていいんだろう。なら、私の好きにさせてもらう」
首筋に熱い吐息がかかって、ミュリエッタはぶるりと震えた。
「はなして……!」
「離さない……! 君はもう私から逃げる気だ!」
「当たり前です! こんなの、絶対に駄目です!」
「君は私の番だ!!」
どうして、今さらそんなことを言うの。
「知りませんよそんなの!」
ミュリエッタは声を荒げた。
クロードが唸るように続ける。
「……わかっている! 他に好きな者がいるんだろう?! だがもう君の気持ちなど考慮しない! 優しくしなくていいのだから! 私はどんな手段を使っても君を国に連れ帰る!」
悲痛な声だった。聞いているこちらまで、胸が苦しくなるほどに。
ミュリエッタは息を止めて、クロードの言葉を噛みしめる。
そして、「ん?」と頭の中に疑問符が浮かんだ。
「あの、かいちょ、」
「私を嫌ってもいい! だが離れることは許さない!」
背中が軋む。ミュリエッタは命の危機を感じた。
「かいちょ、会長、苦し、折れちゃうっ」
ハッとしたクロードが腕の力を弱める。ミュリエッタは息を吐いた。
クロードは小さく謝ったが、それでも腕は解こうとしない。
密着していた体に少しだけ余裕ができて、ミュリエッタはクロードの腕の中でその顔を見上げた。
下から見ても顔がいい。どうかしている。
「あの……他に好きな人がいるってなんですか?」
涙はとうに引っ込んでいた。
「君の国の第一王子から聞いている。学園卒業後は従者と君を婚約させる予定だとも。だが君が私の番である以上、我が国はその総力をもってして、その話を白紙にさせるだろう」
ミュリエッタはいつぞやのセシルとの会話を思い出し、ああ、と遠い目をした。
クロードの言う想い人とは、おそらく愛犬のヒューゴのことだ。あの時、セシルの誘いを上手くかわすためにとった対処が、こんなところに影響を及ぼすなんて誰が予想できよう。
言葉を返さないミュリエッタに何を思ったのか、クロードが再び強く抱き包む。
ミュリエッタは自分でも顔が赤くなっていくのが分かった。
この早鐘を打つ心音は、どちらのものだろう。
煩悩を振り払うように、ミュリエッタは口を開く。
「……婚約者であるオフィーリアさまは、どうするのですか」
「オフィーリアとはもう話がついている。彼女は私以上に番を正しく理解していた。番を守り、その人生を預かるのは、王太子としての義務だ」
スッ、と、ミュリエッタのなにかが冷めていく。
当て馬だの恋だの乙女心だのと騒いでいた自分が、ひどく惨めに思えた。
「そうですか。とても……とても良くわかりました」
眦に残っていた涙の名残が、クロードの制服に染み込んでいった。




