不穏な日々が始まりました
その日は朝から雨が降っていた。厚い灰色の雲が空を覆い、ローゼン学園の校舎は冷えた空気に包まれている。
しっとりとしたどこか薄暗い教室のひとつで、女子生徒の悲痛な声が上がった。
「ない、ないわ! 私のハンカチがない! あれはお母さまが刺繍してくださった、大切なものなのに!」
ミュリエッタは声のした方へ顔を向ける。机の上に鞄の中身を広げていた女子生徒が、わっと泣き出した。彼女の友人たちが、その背を撫でて慰めている。
「……おい、まただ」
「ああ、これはもう確定だな」
離れた席にいる生徒たちが、ひそひそと囁き合う。
誉れ高きローゼン学園には、いま、不穏な空気が漂い始めていた。
「盗難被害か……」
「ええ、それも被害は僕たち一年生に集中しています」
クロードはふむ、と報告書に目を通した。
「被害者の種族にも、盗まれた物にも統一性がないな」
「盗まれたものも、髪飾り、ハンカチ、リボン、手袋、万年筆など、さほど高価でないものばかり。犯人が学園の外部の者とは考え難いですし、生徒か教員の可能性が高いですが、目的がわかりませんね」
「貴人が身につけている、という付加価値をつけて、どこかに売り捌いてるのでは?」
「ローゼンに盗みを働かねばならないほど困窮している者がいるとは考えづらいですが……」
「犯人は、何か特殊な趣向をお持ちなのかもしれません」
「……あまり愉快な想像ではありませんね」
生徒会室の机上で交わされていた議論が、一度鎮まる。
星祭り後の見回り報告会議では「無くし物をする生徒が増えている」と婉曲に語られていた問題は、ついに「盗難被害」という名で議題に上がることとなった。
「被害が一年生に限定されている点はどう考えますか?」
「一年生の犯行に見せかけたい他の学年の生徒かもしれません。教員だったとしても、同じことが言えます」
「犯人探しも重要ですが、まずは注意喚起でしょう。貴重品を不用意に置かないよう、生徒たちへ通達を」
「私たちの代のローゼン学園で、このような事態が起きてしまうなんて、残念でなりません」
翼人族の女子生徒の言葉に、クロードは深く頷く。
陰鬱な空気が流れる。誰も口にしないが、互いを疑い合う気配が、静かに広がりを見せていた。
「ちょっと、それどういう意味?」
「あら、言葉通りの意味ですわ」
ある教室の一角で交わされている、女子生徒たちの会話の応酬に、周囲は緊張感で満たされていた。
「アロナさんの鞄の中をちょっとだけ確認させていただきたいの」
長い耳をピンと立てたカリンは、丸い瞳を吊り上げる。
「それ、私が犯人だって疑ってるってことだよね?」
相対している女子生徒は二人。うちひとりが、視線を横に流し、「皆さんにはこれから協力してもらいますの」と白々しく答えた。
ハンカチを盗まれてしまった生徒とカリンの席は離れている。近くには他にも生徒がいる。にもかかわらず、彼女たちは真っ先にカリンの席へやってきた。
カリンの隣に座るミュリエッタは眉をひそめる。
「……どうして私が一番最初なの?」
憤るカリンに、二人は顔を見合わせ、嗤った。
「だって、ねぇ、爪先に土をつけるような方だから、拭う物をお探しになったのかと」
クスクス。嘲笑を前に、カリンは顔を赤くして、指先を隠す。
平時、ミュリエッタは長いものに巻かれることを良しとする。
相手は貴族。教室中がカリンを嘲る空気に染まっている。どちらに寄れば大樹の陰となるかは明白だ。
けれどミュリエッタは、この友人を大切にしようと心に決めている。
ミュリエッタは立ち上がり、自身の鞄を掲げて、ひっくり返した。
ゴンッ、ドンッ、ドサドサッ、パサ、コロコロ……。
分厚い本が二冊も入っていた鞄の中身が、豪快にぶちまけられる。
教室中の視線が集まる中、ミュリエッタはにこりと笑う。
「どうぞ、まずは私の鞄からお調べください」
空になった鞄を、たじろぐ女子生徒二人の前に差し出す。
そしてミュリエッタは、カリンの強く握りしめられたままの手をとって、両手で優しく包み込んだ。
「私、カリンの手が大好きよ。民が飢えないように、国が豊かになるように、家族が笑顔でいられるように、そんな思いで動く、素敵な指先。派手な紅を塗っただけの、何も生み出さない指先より、よっぽど綺麗だわ」
「……ちょっと、それどういう意味ですの?」
「あら? 言葉通りの意味ですが?」
鼻で笑ったミュリエッタに、女子生徒がカッと赤面する。
もう一人が、小さな声で「成金が」と罵った。
「まぁ、親の庇護下にあるのは、あなたも同じではないですか? 爵位をお持ちなのはあなたのお父さまであって、あなたではありませんよ。それとも、ご自身に何かご功績がおありでしたか? 寡聞にして存じ上げませんでした、教えてくださいます?」
「あ、あなたさっきから生意気でしてよ! 私気分が悪いわ!」
「私も私の大切な友人が馬鹿にされて気分が悪いです」
双方が睨み合い、教室は静まり返る。
その水を打ったような空気を壊したのは、カリンが自分の鞄をひっくり返す音だった。
ドサドサッ、バサッ、カラカラカラ……。
「はい、どうぞ。気が済むまで確認すればいいよ」
「なによっ、もういいわよ、行きましょう!」
フンッと髪を翻した女子生徒に、ミュリエッタはそういえば、と声をかける。
「祭典でもない日に髪に生花を飾るのは、翼人族の文化で『私をどこかへ連れ去って』という意味がありますので、お気をつけくださいね」
肩をいからせた女子生徒は、髪に挿していた花を毟り取った。




