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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
六 水しぶき
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中野先生とふたりの余白

すべての道具を元の場所に戻し終えると、中野先生が手を軽く打った。

「はい、これで全て完了です。お疲れ様でした」

先生の柔らかな笑顔が、プールサイドの蛍光灯の光の中で優しく輝く。その姿を見ていると、本当に補習が終わったのだという実感が胸に広がった。

「佐藤君。芦川さん」

中野先生が俺たちを交互に見つめる。

「二人とも、とても頑張りましたね。佐藤くんは呑み込みが早くて、上達ぶりがよく分かりました」

「あっ……ありがとうございます!」

突然の称賛に少し照れくさい。だが、先生の言葉は素直に嬉しかった。

「芦川さんは……」

先生は少し間を置いて、優しい目で芦川を見つめる。

「あなたの水に対する向き合い方、素晴らしかったです。特に今日は……」

そこで言葉を切る先生の表情には、深い意味が込められているように感じられた。

「……ありがとうございます」

芦川は短く答えた。その声音には普段のクールさとは違う、何か別の感情がにじんでいるように思えた。先生はきっと、その意味を理解しているのだろう。

「さあ、片付けも終わりましたし、着替えて帰宅の支度をしましょう」

先生が鍵をチャラッと鳴らす。

「私は一度、体育教官室に寄ります。忘れ物がないか、確認してくださいね」

「分かりました」

俺たちが答えると、中野先生はプールの出口に向かう。去り際に振り返り、

「明日はもう補習はありませんが、もしまたプールを使いたくなったら、いつでも遠慮なく言ってくださいね。特に佐藤くん。まだまだ伸びしろがありますよ」

そう言いながら冗談めかしてウインクした。その仕草に思わず笑ってしまう。

先生の背中が見えなくなると、プールサイドには俺と芦川だけが残された。

「……終わったな」

俺がぽつりと呟くと、芦川はフフッと笑った。

「ええ、終わったわね。案外……楽しかったじゃない?」

「ああ……確かに」

振り返ると、芦川は少し遠くを見つめていた。その視線の先には、誰も泳いでいないがらんとしたプールが広がる。静寂の中で波紋ひとつない水面が蛍光灯の光を受けて輝いていた。

(水に対する向き合い方……か)

中野先生の言葉を思い出す。芦川の視線には、特別なものが宿っている。それがどんな過去に根ざしているのか、俺は知らないし、彼女も話すつもりはないだろう。でも、それでいい。彼女は自分の力で乗り越えたのだ。俺はその過程をそっと見守ることができただけで十分だと思う。

「佐藤」

芦川が不意に俺の名前を呼んだ。

「ん?」

「ありがとね」

彼女はプールを見つめたままだ。その横顔には、驚くほど穏やかな表情が浮かんでいる。

「……なんの礼だよ」

「別に。なんとなく」

そう言うと、軽く肩をすくめ、「着替えに行きましょう」と踵を返した。

「ああ」

俺はその後ろ姿を見つめながら、ゆっくり歩き出す。

タオルを片手に持った芦川の足取りは軽やかだ。臙脂色のジャージの袖がわずかに揺れる。その背中を見ていると、不思議な満足感が胸に広がる。俺たちはこの4日間で少しだけ前に進んだ。それが何よりの成果だ。

この補習では、水泳自体はほとんどせずに終わったし、芦川の水着姿を見ることもなかった。正直なところ、それが少し残念だと思わないわけではない。でも……

(まあ、それもまたよし)

無駄な詮索や不必要な期待は必要ない。芦川が俺に見せてくれたものは、もっと大きな価値がある。

「おーい佐藤!」

先を行く芦川が振り返って呼ぶ。その声は、いつも通りの軽快さを取り戻していた。

「早くしないと置いていくわよ!」

「はいはい」

俺は笑って、彼女の後を追った。補習は終わった。でも、俺と芦川の関係はこれからも続く。幼馴染として、そしてこのプールでの思い出を共有した二人として。それだけで充分だ。俺はこの春休みを、芦川のジャージ姿が脳裏に焼き付くほど素晴らしいものとして終えることができた。


更衣室に入ると、まずはジャージを全部脱いだ。

その下にある紺色のブーメラン型の競泳水着が露わになる。思えば、水泳の補習といっても、結局俺は水に入ることもなかったし、芦川や中野先生の水着を見ることもなかった。それでも、いや、むしろそれでよかったのかもしれない――胸の奥に、静かな納得と安心が広がる。

短パンと体操服を取り出し、慣れた手付きで着替える。その上から再び青色のジャージに袖を通し、最後に学ランを羽織った。身なりを整えていくうちに、頭の中もすっきりしてくる。補習での出来事や、芦川と先生との時間の意味が、自然に整理されていくようだった。

鏡の前に立ち、身だしなみを確認する。

春休みの補習は毎日午前中の三時間ずつ、全部で四日間。長いようで、短かった。でも、ここで得たものは確かにある。それは泳ぐ技術だけじゃない。芦川歩美という、一人の少女との時間を共有できたこと。それこそが、今回の補習で俺が手に入れた一番の宝物だ。

更衣室を出ると、ちょうど芦川も出てきたところだった。彼女は臙脂色のジャージの上に、セーラー服の上着を着ている。補習の初日、俺が彼女と出会った時と同じ服装だ。

彼女は俺を見ると、軽く声をかけた。

「おつかれ」

「ああ」

短い挨拶を交わして、俺たちは歩き出す。廊下を抜け、玄関へ向かう間も、ほとんど言葉は交わさなかった。でもその沈黙は、気まずさからではない。胸に満ちているのは、ただ達成感と、穏やかな静けさだった。

体育館棟の出入り口のところで、中野先生の姿があった。結局、先生の競泳水着になった姿は最後まで見られなかったけど、こうやって、いつものようにジャージとブラウスを着ているほうが、先生の穏やかで包容力のある性格がより引き立つように思う。濃紺のジャージのファスナーは上がっていて、襟元は綺麗に整えられている。そこに空色のブラウスの襟がのぞいている。スイムキャップを外した黒髪はきれいに整えられていた。このスタイルこそが俺にとっての中野先生だ。

「佐藤君、芦川さん」

先生は両手を軽く前に合わせて立っていた。柔らかな微笑みを浮かべている。

「お疲れ様でした。改めて言いますね。二人とも、四日間、とてもよく頑張りましたよ」

「先生こそ、毎日ありがとうございました」

「これからもお互い刺激しあいながら、成長してくださいね」

「はい」

俺が返事をすると、先生は深く頷いた。

「それじゃあ、気をつけて帰ってね。また何か困ったことがあったらいつでも相談に乗りますから」

「わかりました」

俺たちは中野先生に深く一礼してきびすを返した。



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