終わりはサラバンドで
「さあ、佐藤君。こっちに来てください」
中野先生が柔らかく手招きした。
「最後はセラバンドを使ったトレーニングです。身体のバランスを整えるのに最適ですよ。佐藤君もぜひ一緒にやりましょう」
「わかりました」
俺は頷き、ベンチコートを脱いでジャージ姿になり、ストレッチを始める準備をする。芦川もゆっくりと立ち上がった。ジャージ越しにわかる背筋の引き締まりに、一瞬目を奪われそうになったが、すぐに我に返る。今はもう「いつも通り」の空間だ。
中野先生は俺と芦川に、それぞれセラバンドを手渡す。ピンク色のやや太めのゴムバンドだ。
「これをこうして腕に巻いて……」
先生がデモンストレーションを交えながら説明する。その動き一つ一つが洗練されていて、美しかった。
「腕を前に伸ばしてみてください。こうやって……」
言われた通りにやると、思った以上に腕が重く感じる。セラバンドの弾力が腕の筋肉に負荷をかけているのがわかる。
「どうですか? これが正しいフォームで水を掴む感覚にもつながるんです」
腕に力を込めると、ふと横から視線を感じた。芦川がじっと俺を見ている。
「……なに?」
思わず尋ねると、彼女は肩をすくめた。
「なんか、やけに真剣じゃない?」
「そりゃそうだろ。最後のメニューだし」
「ふーん」
芦川はそれ以上何も言わなかった。でも、どこか誇らしげな視線に、俺は妙な安心感を覚えた。彼女はもう、自分の一つの壁を乗り越えたんだろう。それが目に見える形ではなくても、空気感として伝わってくる。
トレーニングが進むにつれ、俺も芦川も次第に息が荒くなる。セラバンドの負荷は思ったより重く、全身の筋肉を使わなければならない。でも、不思議と楽しい。特に、中野先生と一緒に身体を動かすこの瞬間には、静かで心地よい高揚感があった。プールサイドに響く呼吸音とゴムの軋む音、そして先生の指導の声――それらすべてが、芦川の落ち着いた表情と相まって、この春休み補習の締めくくりにふさわしい雰囲気を作り出している。
「二人とも、いい感じですね。その調子ですよ」
中野先生の言葉に、俺と芦川は同時に頷く。
この空間には、俺たち三人しかいない。中野先生の柔らかな声、芦川の荒い息遣い、そして俺自身の鼓動だけが静かに流れる。中学時代の記憶やジャージの下の妄想は、もうどこにもない。ただ、芦川が穏やかに、安心した表情でいてくれる――その事実だけで、俺の胸の奥は静かに満たされていた。
最後のエクササイズを終えると、三人とも額に汗を浮かべていた。セラバンドを外すと、解放感と共に心地よい疲労感が押し寄せる。
「お疲れ様でした」
中野先生がタオルを手渡してくれる。俺と芦川も、そのタオルで額を拭った。
「ありがとうございました」
俺が礼を言うと、先生は柔らかく微笑んだ。
「明日はもう補習はありません。でも、今日のように良いトレーニングを続けてくださいね」
「はい」
芦川も小さく頷く。彼女の表情には、どこか達成感と落ち着きが漂っていた。
「さて、片付けをしましょうか」
中野先生が立ち上がる。俺と芦川も続く。セラバンドを元の位置に戻し、使った道具を片付けながら、俺は新しい日常を思い描いた――芦川と中野先生と過ごした、特別で落ち着いた時間を胸に刻みながら。




