芦川の心と俺の気持ち
「そうは言っても、芦川の心の傷が完全に消えるわけじゃないですよね」
俺がうつむいてつぶやくと、先生は同意するように頷いた。
「そうだな。芦川の過去は、そう簡単に忘れることができる者じゃないからな」
榊原先生は窓の外を眺めながら言った。
「だがな、佐藤、芦川がこうして今、普通に高校生活を送っているということ自体が、すごいことなんだ」
「え?」
顔を上げて、榊原先生のほうを見る。
「心に大きな傷を負った人間は、新しい環境に入っても、必ずしも適応するとは限らないんだ。教師という仕事柄、残念ながらそういうケースはたくさん見てきた。精神的なダメージが大きすぎると、その後の人間関係や日常生活に支障をきたすことは珍しくない。特に芦川の場合は、学校全体の人間関係の歪みが深く絡んでいるから、かなり重症と言える」
先生は一旦言葉を切り、深呼吸をした。
「それなのに芦川は、こうして毎日登校している。成績も優秀だし、友達もいる。天文部の活動を心から楽しんでいる。ここまで順調に高校生活を過ごせているのは、佐藤、お前がいたからこそだ」
意外な言葉に一瞬、何を言っていいのか分からなくなる。
「そんな……。俺は何もしていないのに」
自嘲気味に笑うしかなかった。芦川が元気になったのは嬉しいが、それが俺のおかげだと言われても、困り果てる。むしろ芦川は、俺のことに呆れているだろう。
「そこがお前のいいところなんだよ。過去と無理に結び付けようとせず、今の芦川を受け入れようとする。それって案外難しいんだ。過去に大きな問題を抱えている人間に接すると、どうしてもそのことを意識しちゃうものだからな」
「………」
俺にとって「芦川歩美」は常に「芦川歩美」でしかない。過去になにがあったかよりも、目の前にいる芦川の言動のほうがよっぽど心惹かれる。特に今回は、臙脂色のジャージにセーラー服なんか着て……。
「それにな」
榊原先生は少し表情を和らげた。
「佐藤、お前自身も、この補習をよく続けられたよ」
「えっ? どういうことですか?」
水泳をさぼって補習に参加しているのを褒められても、何だか皮肉にも感じられる。しかも、座学とプールサイドのトレーニングが中心で、実際に泳いでもないのに。ただ、先生の声は真面目そのものだ。
「補習は、お前と芦川の二人だけ。しかも午前3時間ずつ4日間。飽きずに続けるのは意外と難しい」
「そう……ですか?」
「ああ。それに、座学のレベルも意外と高い。高校生の域をはるかに超えている部分もある。小学校のスイミングクラブで技術の基礎は身につけていたとはいえ、初めて学ぶ内容も多かったはずだ」
先生の言う通りだ。座学は歴史やら物理に絡んだ話も多く、「勉強」という感じだった。トレーニングのほうも、息継ぎやらバランスボールやらと、見た目以上に集中力を要した。それでも続けられたのは、中野先生の穏やかで丁寧な教え方と、熱心に取り組む芦川のおかげだ。それに二人のジャージ姿の魅力も大きかったのだが。
「何も水泳の専門家になるわけじゃないからな。大事なのは難しくても取り組む姿勢さ。今度、どこかで泳いでみれば、自分が成長したと分かるんじゃないか」
俺は素直に頷いた。この補習が終わったら、芦川と一緒に泳ぐ約束をしているのだ。その時にはきっともっと違った感情を抱くことができるはずだ。
先生の話に聞き入っているうちに、ふと視線が壁の時計に向いた。
かなり時間がたっている。
慌てて立ち上がろうとする俺を、榊原先生が止めた。
「大丈夫だ。中野先生も芦川もちゃんと話は通っている」
その言葉に俺は首を傾げた。まるで最初からそうなることを想定していたかのような口ぶりだ。
「今日の朝、補習が終わるまでの間に、佐藤が席を外す時間を作ってほしいと、芦川が中野先生に頼んできたんだ。プールで一人になりたいらしい。もちろん、あたしもその頼みを聞いて協力している。」
榊原先生はニヤリと笑った。
「そんなに不満そうな顔をするなよ」
榊原先生が穏やかに言った。
「これは芦川自身の問題なんだ。それに、お前を遠ざけたのは、何も嫌っているからじゃない。むしろその逆だ。佐藤に余計な心配をかけたくないという彼女なりの配慮であり、また、今後の関係を大切にしたいからでもあるんだ」
「俺との……関係?」
「そうだ。お前がこの補習で築いてきたものは、芦川にとってもかけがえのないものなんだ。だから、その大切な関係に自分の過去の影を落としたくないんだよ」
「余計な……影……ですか」
「中学での出来事に、佐藤まで関わらせたくないんだろうな。お前ならきっと、彼女の辛さを分かち合おうとするだろうから」
先生の言葉に、俺は思わず口を尖らせた。
「俺に相談してくれれば……」
「それが芦川のプライドだよ。佐藤が大切な存在だからこそ、自分の過去の汚点を見せたくないんだ」
榊原先生は小さく笑った。
「それに、もう一つ理由がある」
「理由……?」
「佐藤の優しさに、甘えてしまうのが怖いんだ」
「甘える……?」
「そうだ。お前はきっと、芦川の苦しみを一緒に背負おうとするだろう。それはありがたいことだ。だが同時に、それに頼れば自分が楽になることも分かっている。だからこそ、芦川はそれを選ばない」
先生は少し遠くを見るような目をした。
「つらい記憶は、誰かの優しさでごまかすものじゃない。まずは自分で向き合い、乗り越えるべきものだと考えているんだろう。だから、一人になる時間を求めた」
先生の言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでくる。
「それにもし、あの子が一人で過去と必死に向き合っている姿を見たら、お前はどうなると思う?」
「え……」
「きっと、自分を責めるだろう。守れなかったとか、気づけなかったとか。芦川は、そんなお前を見たくないんだよ」
その言葉で、ようやく腑に落ちた。
芦川は俺を遠ざけたんじゃない。
むしろ――俺との関係を守るために、そうしたんだ。
「これからも幼馴染として、対等でいたいんだろうな」
「対等な関係で……」
俺は小さく呟いた。
ハッとした。
芦川のつらい過去を知ったら、きっと俺は無力感でいっぱいになるだろう。なぜ俺は気づいてやれなかったんだと、自分を責めてしまうに違いない。そんな俺を、芦川は一番見たくないのだ。俺だって芦川に気を遣われるのは嫌だし、きっと芦川も同じように思っている。
お互いを対等に認め合う関係――それを大切にしたいんだ。
芦川がプールで一人になりたい理由が、ようやく理解できた気がした。……それにしても、そういうところがいかにも芦川らしい。普段は突っかかってくるくせに、変なところで他人を思いやる。それが彼女の長所であり、同時に少し危ういところでもあるのだが。
「分かりました。ここは芦川の意思を尊重することにします」
俺は大きく返事をして立ち上がった。
榊原先生は時計を見ながら言った。
「芦川には中野先生がちゃんとそばに付いている。もうこの時間なら、戻っても大丈夫だろう」
「そうですか。じゃあ帰ります」
俺はドアに手を掛けた。
その背中に向かって榊原先生が声をかける。
「何も特別なことはしなくていい。今までのように接してやるんだ。本当に助けが必要な時は、芦川が自分から求めてくるから」
「ありがとうございます。色々と教えていただいて」
心から感謝した。
先生の話がなければ、きっと俺は誤解したままだっただろう。俺は少し晴れやかな気持ちで、体育教官室を後にした。




