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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
五 午前の学校
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春風のグラウンド

体育教官室を後にし、プールのある体育館棟へ向かう。グラウンドの脇を歩いていると、野球部やテニス部がまだ練習しているのが見える。

グラウンドの端っこには陸上部の女子たちが円になって休憩していた。芦川と同じ臙脂色のジャージ姿の子や、市販のものを着ている子もいる。その中でひときわスポーティーな深緑のジャージを着こなした鈴木さんがこちらに気づいて手を挙げた。

「佐藤君! お疲れ〜!」

彼女が駆け寄ってくる。走るフォームまで綺麗なのはさすが陸上部だ。

「どうも」

俺はぺこりと頭を下げた。まさかこんなところで陸上部と鉢合わせるとは思わなかった。ましてやジャージの上にベンチコートなんて珍妙な格好をしているときに。

「補習おつかれさま。今日で終わりだよね?」

「ああ。ちょっとお使いがあって出てきて、またプールに戻るところ」

「いいねえ、そのコーディネート」

陸上部の鈴木さんが俺の格好をしげしげと見つめる。ベンチコートの下から覗く青いジャージ。その下は……ブーメラン型の水着のみ。そう思うと不安にもなるが、榊原先生には試合前の選手みたいと言われたし、芦川のジャージ姿を思い出すと気分も上がる。

「なんか本格的! もしかして競泳に目覚めたとか?」

「いや、それはないんだけど……」

苦笑いしながら答える。そもそも補習を受けている時点で本気の水泳選手じゃありえない。

「でも似合ってるよ。特にその白いベンチコートがいい感じ。試合前のスイマーぽい!」

鈴木さんの純粋な賞賛にちょっと照れる。榊原先生だけでなく、彼女にもそう見えるのか。これも一種の勲章か?いやいや、俺は水泳選手じゃないけどな。

「ありがとう」

照れ隠しに小さく笑いながら返す。

「でもさ、その下は、勿論、ちゃんと泳げる格好なんでしょ?  水着とか?」

鈴木さんが俺のベンチコートの裾をちらりと見て言った。鋭いな。女子の観察力恐るべし。

「まあな。すぐ泳げる状態だよ」

俺がそう答えると、鈴木さんは目を丸くした。

「すごっ! さすが補習!」

「あんまり茶化さないでくれよ」

苦笑いしながら頭をかく。陸上部のユニフォームと比べたら、俺のジャージの下はサポーター兼レギンス一枚だけの、半裸である。プール以外の場所なんて恥ずかしくて歩けない。さらに競泳水着姿の芦川と並んだら、もう赤っ恥もいいところだ。

「あのさ、鈴木さん」

俺が切り出すと、彼女は「なに?」と首を傾げた。

「芦川のこと、どう思う?」

さっき、榊原先生から聞かされた話が、まだ胸の奥に残っている。

芦川が何を考えていたのか。どうしてあんなふうに振る舞っていたのか。

その理由は、もう分かっている。先生の言葉を聞いたとき、胸のつかえが落ちるみたいに、すっと腑に落ちた。

けれど――

おとといの補習の合間、芦川と自販機に寄った帰り、鈴木さんとすれ違った。そのとき二人は「あゆちゃん」「るなちゃん」と呼び合って、気さくに言葉を交わしていた。

同じ女子から見たら、芦川はどんなふうに見えているんだろう。

ふと、それを確かめてみたくなった。

「ああ、あゆちゃんねー」

鈴木さんは「うーん」と腕を組み、目を細めて考え込むような仕草を見せた。

「そうねえ……すごくしっかりしてる。真面目っていうか」

その評価は俺が知る限りの芦川像とも一致している。小学校時代からそうだった。決して器用ではないが、一度始めたことは粘り強く続けるタイプだ。

「成績もトップでしょ? うちのクラスじゃ有名だよ」

そうだったのか。芦川が入学早々に勉強でも結果を出しているのは聞いていたが、ここまで評判になっているとは知らなかった。

「あとね……」

鈴木さんがちょっと声を潜める。

「優しいんだよね、すごく。周りのことよく見ててさ。なんか雰囲気悪くなりそうな時でも、あゆちゃんの一言で、ぱーっと和むことが結構あるんだ」

まさにそうだ。芦川は常に他人に気を配ることができる。中学の水泳部では、それが悪い形に作用してしまったのかもしれないが、今の高校ではそんなことはなさそうだ。

「それに、天文部に入っているけど、あゆちゃん自身はむしろアスリート気質というか……。運動神経いいし、負けず嫌いで向上心旺盛だから。体育の時なんか、見ててカッコいいって思っちゃうくらい」

さすが鈴木さん。アスリートならではの洞察力だ。芦川が水泳をしていたことは、この学校ではほとんど知らないはずだが、それでも彼女の動きや態度から、それが分かる。

「きっと陸上部に入ってくれたら、すっげー伸びると思うんだけど……。足早いし、持久力もありそうだし。他の運動部も、きっと大歓迎だよ。だけど天文部なのが、いかにもあゆちゃんらしいというか」

鈴木さんは軽く笑った。そうだな。芦川が天文部に入っていることは意外に思う人も多いだろう。あのストイックな性格からは想像しづらいかもしれない。でも芦川自身は天体が本当に好きだからな。

「まあ、そういうところが好きなんだけどね!」

最後は満面の笑みで言う鈴木さんに、俺も自然と微笑んでしまう。芦川がこんな風に慕われているのは嬉しいことだ。

「ほらほら!」

鈴木さんが仲間の方を指さす。休憩中の女子部員たちがこっちを見ているようだ。

「あゆちゃんのこと、みんなも褒めてたよ。『いつも笑顔で明るくて素敵』とか『ちゃんと物事を考えてる』とか『頼りになる』とかね」

数人が手を振ってくれたので軽く会釈すると、さらに笑顔が広がる。

「あゆちゃんはさ、自分がどう見えているかってのもちゃんと分かってる気がする。だから無理しないし、飾らないし。でも芯は強い。そういう子だからこそ、周りも自然と助けたくなるんだろうね」

「そっか……」

胸の中でホッとした感触が広がった。中学時代は女性特有の陰湿な環境で孤立していた芦川だったが、今は

今の芦川は間違いなく自分で道を開いている。それも周りのみんなと一緒に。

「それにさ」

鈴木さんが急に俺をじっと見る。

「あゆちゃんは佐藤君といると、本当に楽しそうだよ。補習が始まってからもそうでしょ?」

「え?」

思わず声が上ずった。鈴木さんまでそんなことを言い出すとは。まさか二人のジャージ姿が俺のテンションを上げていることまで見抜かれているわけではないだろうな?

「おととい、自販機の前で歩いていた時も、すごくリラックスしてたもん。他の人といる時は、やっぱりちょっと違うっていうか……。肩の力が抜けているというか」

確かに補習初日も芦川は俺と話すときは普通だった。榊原先生の前で緊張していた以外は。鈴木さんの指摘は的を射ている。

「ま、頑張ってくださいね。そのベンチコートで!」

最後にそう言ってウインクすると、彼女は颯爽と仲間たちの元へ戻っていった。陸上部らしい軽快な足取りだ。俺はその背中を見送りながら、自分の手に持つ紙袋の存在を思い出した。

「早く行かないと……」

紙袋を揺らしながら歩き出す。

鈴木さんの言葉が、まだ耳に残っている。芦川が、俺といるときにリラックスしている――。ああいう関係をこれからも守りたくて、芦川はわざわざ朝早く登校して中野先生に頼みに行ったのだ。その時、きっと、このグラウンドの前の道も通ったのだろう。

今、芦川はプールにいる。芦川なら、きっと大丈夫だ。……俺はそう思うことにした。


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