俺が知るべき事実
体育教官室に戻ると榊原先生が待ってくれていた。俺が紙袋を渡すと、中身を確認して満足そうに頷いた。
「よし。これで全部揃ったな。ありがとう」
彼女は机に置いてあったメモ帳をもう一度確認しながら言った。
「それより佐藤、補習はどうだ? もう今日で終わりだよな」
「ええ。ずっと順調です」
「そうか。芦川とはうまくやっているか?」
「はい。一緒に楽しくできています。今日もプールサイドでのトレーニングでしたけど、やっぱり芦川は、俺よりもずっとスポーツセンスが良いですよ」
この四日間、芦川とはいいコンビネーションで補習を受けてきたつもりだ。
「そうか……よかった」
榊原先生は微笑んだ。その表情にはどこか安堵の色が浮かんでいるようにも見える。
「そういえば、佐藤は芦川とは幼馴染だったよな。中学の頃について芦川から何か聞かなかったか? この補習の間でだ」
「中学の頃についてですか?」
突然の質問に戸惑う。ただ先生の様子は単なる世間話ではなさそうだ。真剣な眼差しが俺を捕らえている。
「例えば、水泳の授業とか、水泳部についてとか…」
「あまり詳しくは……。ただ、中学の水泳部の先生が厳しかったとは言っていましたね」
芦川との会話を思い出しながら、慎重に言葉を選んで答える。
「厳しかった………か」
「ええ。でも具体的には……芦川からは聞いてません」
先生はじっと俺を見つめている。その沈黙が重い。
「………そうか。芦川はそこまで話せるようになったんだな」
榊原先生は小さく呟いた。何かを噛みしめるように。その言葉の意味が俺にはよく分からない。だが先生の表情には深い感慨が滲んでいた。
「……佐藤。お前も、ある程度、知っておいたほうがいいかもしれんな」
先生が意を決したように口を開いた。その真剣な口調に俺は思わず姿勢を正す。
「芦川が話したくないことは、俺も聞きたくありません」
とっさにそんな言葉が出た。我ながら少し生意気な態度だったかもしれない。榊原先生は意外そうな顔をしたが、すぐに納得したように小さく頷いた。その表情には安堵と期待が入り混じっている。
「そうか。お前はそう言うと思ったよ。だがな…、そんなふうに言える佐藤だからこそ、話しておきたいのさ」
先生は少し前屈みになって俺の目をじっと見つめた。
「確かに本人が言いたくないことを無理に聞きだすべきではない。それは分かってる。でも……永い目で見れば、芦川の中学時代のことについて知っておいたほうが、芦川にとっても、それにお前にとってもいいと思うんだ」
先生が椅子を勧めた。俺が腰掛けると、自分も姿勢を正した。その言葉には先生なりの信念が込められているようだった。俺は真剣に榊原先生の話に耳を傾けた。
「……芦川が中学は県外の全寮制の女子校で、水泳部に所属していたくらいは知っているだろう。水泳の才能は中学入学前から目を見張るものがあった」
スイミングクラブが同じだった俺からすれば言うまでもない。芦川の泳ぎは当時から速くて美しかった。
「だが、その才能がゆえに……顧問から過酷な練習メニューを強いられてきた。顧問は女性体育教師で、勝つためなら手段を選ばない、生徒を道具のように扱うタイプだったらしい」
小学校の頃、俺たちが通っていたスイミングクラブのコーチとは全く別の種類の指導者のようだ。
「特に芦川に対しては過酷な指導を行っていた。朝から晩まで徹底的に管理され、休む暇もなかったそうだ。それでも悪い意味芦川は、顧問の期待に応えようと頑張った」
何事も真面目に取り組む性格のあいつのことだ。先生が求めれば求めた分だけ、努力するだろう。まして元から好きだった水泳なのだから。
「ただ、最初は大人しく従っていた芦川も、次第に顧問のやり方や部の雰囲気に疑問を抱くようになってきた。そこで、後輩への練習メニューを軽くしたり、体調の悪い部員には休息を促したりと、自分なりに改善しようとした。芦川自身は善意からだったが、顧問はそれを自分への反抗と受け止めたんだろうな」
榊原先生の声には抑揚がないが、その冷静さがかえって事の深刻さを物語っているようだった。
「決定的な出来事が起きたのは中3の夏だった。体育の水泳の授業の時だ」
先生が言葉を切り、俺の顔を見た。その目が何かを確認するように鋭い。
「その日、ある生徒が体調を崩したため、授業に遅れてしまったのだ。そのことを巡って、顧問でもある体育教師と芦川の間に意見の食い違いが生じた。今まで我慢してきたものもあったのだろう。芦川はクラスメイトたちの前で顧問に『異を唱えた』そうだ。少なくとも芦川自身はそう表現した。もっとも、あたしに言わせれば、そんな大それたものでもなく、ごく当たり前の主張でしかないがな」
榊原先生はわずかに苦笑した。その笑みは皮肉とも憐れみともつかない複雑なものだ。榊原先生も厳しいところはあるが、それはあくまで公正さを求めた厳しさだ。生徒を個人として尊重しないような「指導」は絶対に許せないタイプの人だ。芦川が榊原先生を心から信頼しているのも、そういうところからだろう。
「だが、顧問はそんな風に受け取らなかった。それどころか激怒した。芦川は慌てて謝罪したが、聞き入れてもらえず……」
榊原先生の声が低く沈んだ。喉が渇きを覚える。
「プールサイドで芦川は……。いや、その後のことは詳しく話す必要もないだろう。芦川は、自尊心を根こそぎ奪われるような目に遭わされた、とだけ言っておけば充分だ」
榊原先生の顔には、いつにない苦痛と嫌悪感がにじんでいる。その日、何があったのか、俺には想像もつかないし、想像したくもない。
「そのことがきっかけで、今まで水泳部のトップクラスだった戦績は一気に下落した。引退の時期を迎えると、消えるように部を去った」
俺は言葉を失った。小学校の時、芦川と一緒に水泳を習っていた頃の芦川は輝いていた。そんな芦川が……そんな目に遭わされていたとは。
「だが、芦川の苦難はそれだけで終わらなかった。部を辞めた後、あの日の出来事が変な噂となって学校中に広まったのだ。事実とは全く違う、芦川の人格を否定する内容だった。芦川は学校で完全に孤立したまま、残りの学校生活を続けなければならなかった。卒業すると、他の多くの子が並列の高校に進む一方で、自分だけ地元に戻り、この高校に入学したわけだ」
補習の2日目、芦川が珍しく中学時代について触れたことがあった。その時の「女性同士は容赦ない」と言う言葉。最初は「女子同士」と言っていたのを、すぐに「女性同士」と言いなおした。そこに含まれている意味が、ようやく分かった気がした。
「……それで、その、芦川を苦しめた顧問の教師は、今、どうしているんですか……」
恐る恐る聞いてみた。
「その点は気にしなくてもいい。そいつは去年の秋、懲戒免職になった」
「懲戒免職……?」
「新聞でもごくわずかに報じていた。芦川もその記事は読んでいる。水泳とは全く別の不正が発覚したそうだ。まあ、そういう奴だから他にも悪いことをやっていたんだろう。当然の結果だ。もう二度と、教師としても、水泳の指導者としても活動することはできない」
榊原先生の言葉には確かな信念を感じる。きっと芦川も同じ気持ちで報道を読んだに違いない。ようやく芦川の心にも区切りがついたのかもしれない。




