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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
五 午前の学校
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体育教官室から保健室へ

「失礼します」

俺はゆっくりと体育教官室のドアを開けた。

「ああ、佐藤か、来たか」

榊原先生が俺を出迎えてくれた。アクティブな感じのショートヘアに、灰色のフード付きの長袖トレーナーに黒い細身のパンツという、いかにもアクティブな印象だ。他の先生たちは見当たらない。少し雑多な感じのする職員室の中で、榊原先生のデスク周りだけは妙に整然としている。

「中野先生からの使いで、ファイルをお持ちしました」

俺は手にしたファイルを差し出す。榊原先生はそれを受け取ると軽くページをめくって確認した。

「うん、これこれ。ありがとう」

先生はそう言って机の引き出しにしまった。その仕草には教師としての余裕が感じられる。

「佐藤」

榊原先生が俺のほうを見て言った。少し真剣な眼差しで俺を上から下までゆっくりと見渡す。

「こうしてみると、意外と様になってるな」

「え?」

思いがけない言葉に俺は首を傾げた。様になっている? 何が?

「その姿……まさに試合直前のスイマーみたいじゃないか」

試合直前のスイマー……?

思わず自分のジャージ姿を見下ろした。青色の生地に袖周りとパンツのサイドに白い二本ラインが入った学校指定ジャージ。その上に白いベンチコート。確かに水泳部員っぽい格好と言えばそうかもしれない。

(芦川もそんなこと言ってたな……)

でも、まさか体育の先生まで同じことを言うとは。

「そ……そうですか?」

照れくさくて少し視線を逸らす。だが同時に嬉しくもあった。

「うん、雰囲気出てるぞ。中野先生の教え方が良かったのかな」

榊原先生はニヤリと笑いながら続ける。

「まあ、泳ぐかどうかは別として、その姿勢だけでも合格点だ」

「ありがとうございます」

素直に頭を下げた。正直なところ、試合直前のスイマーと言うのは少し過大評価すぎる気がするが、褒められて悪い気はしない。しかも榊原先生からだとなおさらだ。

「あ、そうでした、中野先生から、もう一つ、頼まれていました。救護箱の中身のストックを体育教官室から持って来てと……」

俺は慌てて預かっていたメモを先生に渡した。

「水洗い対応型消毒液とストックパックの絆創膏……それに加えて冷却ジェルもか。うん、全部ここにあるはずだが……」

先生は椅子から立ち上がると、俺のほうをちらりと見た。

「ちょっと奥の棚を見ないとな。少し時間かかるぞ」

先生は部屋の奥にある大きな棚に近づき、様々な箱や袋を漁り始めた。ガサゴソと音を立てながら品物を探す様子は、さっきまでの厳格な体育教師というイメージとは少し違う。

「あったぞ。これが消毒液のストックだ」

透明なプラスチック容器を取り出す。確かにプールサイド専用とラベルが貼られている。

「こっちが絆創膏のストックパックだ。防水加工タイプになっているから安心してくれ」

次に小さな箱に入った絆創膏のセットを手に取る。どちらも新しい未開封品だ。しかし彼女はここで首をかしげた。

「冷却ジェルは……あれ? 前回補充したはずなんだが」

棚の奥を探し続けるが見つからないようだ。

「おかしいな。確かここにあったはずなんだが……」

眉間に皺を寄せながらさらに奥を探るが、やはり見当たらない。

「すまない。どうやら切らしてしまっているようだ」

先生は申し訳なさそうに俺のほうを見た。

「申し訳ないが、佐藤、保健室に行って冷却ジェルをもらってきてもらえないだろうか。宮崎先生がいるはずだ」

またもや使いっぱしりだ。だが仕方ない。中野先生に頼まれた以上、最後まで引き受けよう。それに1時間目の救命方法の授業の時に言っていたように、「万一の事態」に備えるのは大切だ。

「分かりました。すぐに行ってきます」



 今度は保健室のある建物だ。ずっと学校巡りをしている。

(保健室……確か二階だったよな)

ベンチコートの裾を軽く翻しながら階段を上がる。校庭から運動部の掛け声が微かに聞こえてくる。春休みとはいえ部活は通常通り行われているようだ。その声を聞くと、この静けさがより一層際立って感じられる。プールでの補習が特別な空間だったことを改めて実感する。

(芦川はどうしてるかな……)

一人でプールサイドにいるだろうか。それとも中野先生と何か話をしているだろうか。彼女の臙脂色のジャージ姿が頭に浮かぶ。今、この春休みのプールで過ごす時間は彼女にとってどんな意味を持っているのだろう。

(それにしても……)

さっきの榊原先生の言葉を思い出す。「試合直前のスイマーみたい」か。補習が始まった時には全く意識していなかったが、今やジャージ姿でプールサイドに立つことが当然のように思えてきている。芦川と並んでストレッチをする時も、ボール運動に励む時も、全てが自然な流れのように感じられる。

階段を上り切り、二階の廊下に立つ。保健室はすぐ目の前だ。ドアの前に立ちノックすると、中から「どうぞ」という優しい声が聞こえた。宮崎先生の声だ。春休み中の保健室はひっそりとしていて、薬品の香りが漂っている。入ると、宮崎先生が机に向かって記録をつけている最中だった。五十代半ばの保険医で、いつも穏やかな笑顔で生徒たちを迎えてくれる。

「あら、佐藤君ね。どうしたの?」

俺がプールからここに至るまでの一連の流れを説明すると、すぐに理解してくれた。

「スポーツ冷却ジェルね。ちょっと待ってて」

宮崎先生は棚から必要なものを取り出すと、小さな紙袋に入れてくれた。その手つきはとても丁寧だ。

「芦川さんと水泳の補習なのね。偉いわね」

先生は俺のジャージ姿を見ながら微笑んだ。補習のことはいろいろなところで知られているらしい。

「プールは今季節外れだから、逆に好都合かもね。二人ともしっかり取り組んでいるみたいで、何よりだわ」

「まあ水泳の授業と言っても、プールサイドでのトレーニングばかりですけどね」

 俺が照れ臭そうに言うと、先生は優しく笑った。その笑顔には母性のような温かみがある。さすがベテランの保健医だけのことはある。

「そうなの? でも、それはそれで大切よ。準備運動や体幹トレーニングは基本中の基本だから。特に水泳はケガをしやすい競技だからね。しっかり準備しておくことが事故防止につながるのよ」

その言葉に、さっき中野先生が授業で語っていた内容が重なる。

「まだ肌寒いから、体を冷やさないように気をつけてね。もし体調が悪くなったら、いつでも保健室に来るのよ。春休み中でも基本的には開けてるから」

「ありがとうございます」

俺は感謝の言葉を述べて保健室を後にした。春休み中でも生徒のために開けているなんて、本当にありがたい。


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