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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
五 午前の学校
50/50

中野先生からの頼み

そんなふうに話をしていると、濃紺のジャージにシルバーのスイムキャップかぶった中野先生が俺たちのほうに近づいてきた。まだ休み時間なのに先生が来るなんて珍しい。

「佐藤君、ちょっとお願いがあるんですが」

先生が突然俺に話しかけてきた。

「はい?」

「教室に置いてあるファイルを体育教官室に届けてきてくれないでしょうか。この補習に関する重要書類なんです」

「ファイルですか?」

「ええ。教室の教卓の中に入れてあります。それと……」

先生は少し考えてから付け加えた。

「救護箱の中身が不足していて。体育教官室のストックを持ってきてほしいんです。特にプールサイド専用の水洗い対応型消毒液と絆創膏のストックパックをお願いします。ほかにも必要なものがいくつかありますが、このメモに書いています。榊原先生がいるはずですから、これを渡してください」

「分かりました」

俺は素直に承諾した。こういう頼まれ事を断る理由もない。

「場所が分からなければ榊原先生に聞いてくださいね」

「了解です」

「教室のカギは職員室にあるので、まずはそちらに寄ってください」

俺はすぐにプールの出入り口に向かう。すると先生がさらに付け加えた。

「このプールサイドは暖房が効いていますが、地上に出ると冷えますからね。収納庫にあるベンチコートを着ていって構いませんよ」

先生はそこまで言ってから、ふと俺の頭を見て、小さく笑った。

「それと、スイムキャップは外していきましょうか。外では少し目立ちますしね」

「あ、はい」

言われて初めて気づいて、俺は慌ててキャップを外す。軽く湿った髪が空気に触れて、ひやりとした感触が広がった。

それから収納庫に入る。そこには白い厚手のベンチコートが並んでいた。一番手前のものを取り、青いジャージの上から羽織る。今は屋内プールだからいいが、このジャージの下は競泳水着しか着ていない。春先とはいえ、外の空気は身に沁みるだろう。

コートのファスナーを上げながらふと視線を戻すと、芦川がこちらを見ていた。臙脂色のジャージの袖を整えながら、小さく手を振ってくる。

「行ってらっしゃい」

その声に俺は軽く手を上げて応えた。なんだか照れくさい感じだ。




ベンチコートを羽織ってプールの扉を開ける。階段を駆け上がり地上に出ると、一気にひんやりとした空気が肌を刺した。春とはいっても、地下から地上に出る瞬間の温度差は相当なものだ。ベンチコートがあって本当に助かる。

春休み中の学校はひっそりとしている。光は柔らかいが、空気はまだ冷たい。ベンチコートのファスナーを首元までしっかり閉じても、襟元から吹き込んでくる風が首筋を刺すように冷たい。

「こんなに寒かったか……」

独り言を漏らしながら、校舎に入る。まずは職員室に寄って、鍵をもらわなければならない。ところが、扉はしまったままだ。ノックして呼びかけても誰も出てこない。小窓から覗くと、留守だ。春休み中だから誰もいないのか。困ったな……教室の鍵が取れない。

仕方なく事務室に立ち寄ることにした。事務室は教室とは別の建物である。幸い、こちらは開いていた。中では事務のおばさんが一人、机に向かって書類を整理していた。

「すみません、教室の鍵を借りたいんですけど」

「あら、どこの教室?」

「高等部一年の教室です。中野先生に頼まれまして」

事情を説明すると、おばさんはすぐに納得してくれた。

「春休みの補習ね。中野先生も大変ねぇ」

そう言いながら鍵束から目的の教室の鍵を外し、俺に手渡してくれた。

「ありがとうございます」

礼を言って事務室を出る。事務のおばさんには感謝しかない。

目的の教室は三階にある。階段を上がりながら、ふと考える。芦川のことだ。この補習を通して彼女との距離がかなり縮まった気がする。特にジャージを着てプールサイドに立っている姿は印象的だ。臙脂色のジャージに包まれた彼女のシルエットは、補習が始まった当初とは全く異なる魅力を放っている。

扉を開けると、今は無人の教室の中に春の陽射しが斜めに差し込んでいる。補習の間、でずっと芦川と二人で使っていた机と椅子が、今は無機質な家具としてそこに置かれている。先生が立っていた教卓に近づき、引き出しを確認すると、確かにファイルがあった。『春季補習実施報告書(水泳)』と書かれている。

「これだな」

ファイルを手に取り、教室の鍵を再び掛ける。これからまた事務室に戻って鍵を返しに行かなければならない。思っていた以上に手間取ることに少しばかりうんざりしたが、これも仕事だ。

事務室に戻り、鍵を返却するとおばさんが笑顔で受け取ってくれた。

「中野先生によろしくね」

「はい、ありがとうございます」

体育教官室に向かう。プールを越えて、校舎を通り過ぎてさらに向こうの第一体育館の隣だ。春の陽射しがちょうど良い角度で差し込んでいる。ベンチコートの襟元から覗く青色のジャージが陽光を反射してキラリと光った。


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