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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
五 午前の学校
49/50

その前に

「さて、少し休憩を入れましょうか。飲み物を飲んで、次の実習に向けてエネルギーをチャージしてください。

先生はそう言うと出ていった。また次の準備があるのだろう。俺と芦川もベンチに座り込み、持参したペットボトルのスポーツドリンクを取り出した。蓋を開けるとカチリという乾いた音が静かなプールサイドに響く。

「ふぅ〜、疲れたー」

俺が天井を見上げながら呟くと、芦川は小さく笑った。

「でも楽しかったでしょ?」

彼女の問いかけに即座に頷く。

「ああ。普段使わない筋肉を使っている感じがする。体幹って大事なんだな」

芦川は自分のペットボトルに口をつけながら俺のほうを見た。彼女の唇が水滴で少し濡れていて、その光景が妙に色っぽく感じた。ジャージ越しに見える肩のラインもしなやかだ。

「佐藤も成長してるじゃん」

芦川がからかうような口調で言う。

「そりゃまあ、何年もさぼってたけどな……」

自嘲気味に答えながらも、今日の運動で確かに何かを得たという実感はあった。それは単なる筋肉の疲労ではなく、もっと内側から湧き上がるような活力だった。

「うん。私も久しぶりに体を動かして……なんだか爽快な気分」

芦川は両手を挙げて背伸びをした。臙脂色のジャージの袖が引き上げられ、彼女の白い腕が一瞬だけ露わになる。すぐに袖は元の位置に戻ったが、その僅かな肌の露出に俺の心臓は小さく跳ねた。

(何ドキドキしてんだ俺……)

こんな些細なことで反応してしまう自分が情けない。だがそれも芦川の魅力のせいだと思えば納得できてしまうから不思議だ。俺は誤魔化すように咳払いを一つすると言った。

「プールサイドでのトレーニングっていうのも、案外いいもんだな」

水中とは違う感触、滑るようなジャージの摩擦感、そして安定しないバランスボールの上での動き。これらすべてが新鮮だった。

芦川は目を輝かせて俺のほうを見た。その瞳は興奮で潤んでいるようにも見える。

「そうでしょ? 私もね、このジャージとプールサイドの組み合わせがすごく気に入っているの。なんか……陸と水の境目みたいな感覚で」

彼女は言葉を探しながら語りかける。その熱心な様子が微笑ましい。

「ねえ、佐藤」

芦川は急に少し声を落として続けた。

「さっきの休み時間に、補習が終わったら、一緒にこのプールで泳ごうって言ったよね」

「ああ、そうだったな」

俺は少し照れながら答えた。その約束を忘れるわけがない。むしろ楽しみにしている。芦川の水着姿……それはもちろん期待している。

でも今は、それとは別に、こうして二人でジャージを着て並んでいる時間が妙に心地よかった。補習という形ではあるけれど、同じ格好で同じことをしているこの空気が、なんだか特別に感じられる。

少し間を置いてから、芦川は落ち着いた口調で話し始めた。

「それでね……その時なんだけど」

彼女はペットボトルのキャップを指先で弄びながら、言葉を選ぶように続ける。その小さな動きが妙に目を引いた。

「更衣室から出て、プールサイドに来る時さ……」

そこで一度、芦川は俺の顔をちらりと見た。

「その時も、今みたいに……お互いジャージを着ていたいの」

「え?」

思わず間の抜けた声が出てしまった。泳ぎに来た以上は、すぐ水着に着替えるものだと思っていたからだ。

「どういうことだ?」

芦川は俺の驚いた顔を見て、小さく笑った。その笑顔はとても自然で可愛らしい。プールサイドの冷たい空気のせいか、彼女の頬がほんのり赤く染まっている。臙脂色のジャージの襟元が、首筋を守るようにやわらかく包み込んでいた。

「ほら……今日の補習中もずっとジャージを着ていたじゃない? こうやって準備運動したり、ストレッチなんかしたりする時って」

芦川は自分の臙脂色のジャージの裾を軽く摘んでみせた。その仕草には、どこか嬉しそうな様子が混じっている。

「なんていうか……こうやってジャージを着て動いてると、水泳のトレーニングをしてるって感じがして……ちょっと好きなの」

彼女は少し照れたように笑いながら続けた。

「でね……せっかくだから、この補習以降、二人で泳ぐ前も、今日みたいな形で準備運動をしたいなと思ったの」

バランスボールの後の休憩時間。プールサイドには穏やかな沈黙が流れていた。天井から降り注ぐ柔らかな照明が水面に反射し、キラキラとした模様を作っている。俺たちの他に誰もいないこの空間は、不思議な安心感を与えてくれる。

「私から誘っておきながらだけどね……」

芦川が少し俯き加減になった。首を上まで覆った臙脂色の襟元が彼女の首筋にぴったりと沿い、首元から伸びるファスナーのラインが静かなアクセントになっている。

「泳ぐ時はともかく、準備運動の時とか、プールから出た後とかも……ずっと水着のままでいるのは……やっぱり、恥ずかしいかなって……」

「ああ……それはわかる気がする」

俺は深く頷いた。

それに、正直に言えば――。

水着になる前のこういう時間を、もう少し長く味わっていたい気持ちもあった。芦川と同じジャージ姿で、並んでストレッチをしたり、トレーニングをしたりする。その時間が思った以上に心地よかったからだ。

「あとね……」

芦川はプールの水面の向こうに視線を向けながら、静かに続けた。

「私、ずっとこういうのに憧れていたの……」

俺は昨日、芦川が話していたことを思い出す。中学の水泳部では、水着以外のものを着るのは禁止だったという話だ。

「なんていうか……こうやってジャージを着て動いてると、本当に泳ぐ前のトレーニングをしてるって感じがして……ちょっと好きなんだ」

芦川はそう言って、ジャージの袖口を指でつまんだ。そのまま、ほんの一瞬だけ、視線をプールのほうへ向ける。

「へえ」

昨日に続く体力補強のメニューだが、今日の芦川は昨日以上に熱がこもっているような気がした。つられるように自分の袖を軽く引く。正直に言えば、この格好は俺も嫌いじゃない。プールサイドでジャージのまま体を動かしていると、どこか部活の練習みたいで、妙に落ち着く。

「だから……もし佐藤さえよければ……これから一緒に泳ぐときも、プールに入る前にまずジャージを着て、しっかり準備運動したり、しゃべったりしたいなって思うの。で、準備が整ったら……それから水着になって泳ぐって感じでどうかな?」

彼女の言葉には、確かな思いがこもっているのが伝わってくる。臙脂色のジャージがプールサイドの柔らかな光を受けて、暖かな色合いを帯びていた。

「もちろんいいぞ」

迷わず答える。最初から水着でいるより、泳ぐ前にジャージを着て気持ちを整えるほうが、俺たちにとってはずっと自然な流れだ。

「中野先生も言っていたよな。泳ぐ前やプールから出た後は、体を冷やさないようにって」

「そう! それ!」

芦川の顔がぱっと明るくなる。

その嬉しそうな表情につられて、俺の胸も少し温かくなった。

彼女は両手を胸の前で抱くようにして、身を乗り出す。

臙脂色のジャージの襟元が、柔らかな胸の膨らみに沿ってわずかにたわんだ。

「泳ぐ前も泳いだ後も、体を温めておかなくちゃね。事故につながることもあるから。それに、こんなふうにストレッチをしたり会話したりしながら過ごす時間って……すごく大切だと思うの」

芦川の熱心な言葉に、俺も頷くしかなかった。

それに――

俺自身も、芦川のジャージ姿に密かに惹かれている。

プールサイドの冷たい空気の中で、臙脂色のジャージはどこか暖かみのある光沢を帯びて見えた。

彼女が動くたびに生地がしなやかに伸び縮みし、そのシルエットが体のラインをさりげなく浮かび上がらせる。後ろで結われたポニーテールの髪が、臙脂色のジャージの背中で軽く揺れていた。

「言われてみればそうだな。そうしよう」

俺がそう言うと、芦川は心底ほっとしたように長い息をついた。肩から力が抜け、ジャージの袖口がわずかに震える。

「よかった……断られたらどうしようと思っていたから」

少し照れくさそうに視線を逸らす。彼女の頬にはほんのりと朱が差していた。

そして、臙脂色のジャージの襟元に顎を埋めるようにして、小さく呟く。

「だってさ……佐藤は私の水着姿だけが目的かもしれないからね」

「おいっ!」

思わぬ発言に、思わず声が大きくなる。

そう言われれば、否定できない部分もあるが……。

そんな俺を見ながら、芦川はくすりと笑った。いつもの強気の“からかいモード”が戻ってきたようだ。

でもその笑顔は、さっきまでよりずっと自然で温かい。プールサイドの湿った空気の中、汗で少し湿った臙脂色のジャージの襟元が、彼女の華奢な首筋にぴたりと張り付いている。

「冗談よ。でも……ちょっとはそういう気持ちもあるでしょ?」

楽しそうに目を細めながら、芦川が言う。その茶目っ気たっぷりの態度に、俺は少しだけ呆れた。

「ああ……正直、全く無いと言えば嘘になるけど……」

素直に認めると、芦川はぱっと目を見開いた。

「やっぱり! そうだよねぇ……男子はみんなそうだもんねぇ」

意味ありげに笑いながら、彼女は俺の肩を軽く叩く。ジャージ越しに伝わる掌の感触が、妙に意識されてしまう。

「でもまぁ……それ以外にも楽しみはあるからな」

 誤魔化すように俺は言った。

本当のところ、水着姿だけじゃない。芦川と二人だけで泳げること自体が、俺にとっては充分特別なことなのだ。

「そうだね。私も楽しみにしてる」

芦川も素直に頷いた。その言葉には、飾りのない期待が滲んでいる。

「だけど……水着姿は、もう少しお預けになっちゃうね」

そう言って、彼女は悪戯っぽく笑った。どこか挑発的なニュアンスが混じっていて、俺の内心を見透かされている気がする。

「べっ……別にいいんだよ……そんなの気にしてないし……」

早口になる俺を眺めながら、芦川はさらに楽しそうに笑った。笑うたびにジャージの襟元が小さく揺れ、臙脂色の生地が柔らかく光を弾く。

「あら……本当に? 私は残念だなぁ……佐藤の水着姿、見てみたかったんだけどなぁ」

「はぁ⁉」

思いがけない発言に、今度は別の意味で声が出た。まさか芦川がそんなことを思っているとは……。

「何言ってんだよ……俺の水着なんか見てもつまんねえよ……」

照れ隠しに視線を逸らす。すると芦川がおかしそうにクスクスと笑い出した。その笑い声が静かなプールサイドに心地よく響く。

「そんなことないよ。佐藤、絶対に競泳水着、似合うよ」

 昨日もそんなことを言っていた。その言葉を思い出すだけで、また妙にドキドキしてしまう。

「それにね……」

彼女は少し声を落として続けた。

「だって、こうしてジャージを着て一緒に過ごす時間が増えるほど……お互いに気心が知れてくるでしょ? それで水着になるって……なんだか、深いところまで見せ合うような……そういう気分になるかもしれないし……」

その言葉に、俺ははっとする。確かにそうだ。いきなり水着姿になるよりも、こうしてジャージ姿で同じ時間を過ごしてからのほうが――。

「だからこそ……ジャージを脱ぐ瞬間とか……逆に水着の上にジャージを羽織る動作とか……そういうのが、一番ドラマチックだと思うんだよね」

 芦川は両手を胸の前で組みながら言った。その仕草が妙に印象に残る。

「そう考えると……お互いの水着姿は、今すぐに見るより、もう少し待ったほうが印象的になりそうじゃない?」

彼女の理屈に、俺は完全にノックアウトされた。ジャージ姿から水着への変化。そのプロセス自体にドラマがある――そんな考え方は思いつきもしなかった。

「……わかったよ。水着はまだお預けにする」

 俺が負けを認めると、芦川は満足そうに微笑んだ。そ

「約束だよ。まずはジャージ姿で準備運動をして、体を温めて、気持ちを十分に整えてから……それから水着になるんだからね」

「了解。そうしよう」

俺は素直に頷いた。補習期間のあいだは、お互い水着は封印。それまでは、このジャージ姿の時間をゆっくり過ごすことになる。

でも――それも悪くない。

むしろ、この時間こそが、かけがえのないものになる気がした。

 プールサイドの空気はまだ湿り気を帯びている。その中で、ジャージに包まれた芦川の姿が、なんだかとても愛おしく見えた。


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