バランスボールでごろごろ
一通り準備運動が終わると、次のメニューに入った。
「この時間はバランスボールを使ったトレーニングを行いましょう」
そう言うと、中野先生は一度プールサイドを離れ、用具室のほうへ歩いていく。やがてガラガラと何かを押す音が聞こえ、すぐに大きな透明のカゴを押して戻ってきた。中にはピンク色や黄色のバランスボールがいくつも積まれている。カゴをプールサイドの中央あたりに置くと、こちらに向き直った。
「一人ひとつずつボールを取ってください。今日は主に体幹を鍛えるエクササイズと、不安定な状態でのバランス感覚を養う練習を行います」
俺と芦川はカゴから大きなボールを一つずつ選び取った。柔らかく弾力のある感触が手のひらに伝わる。
「まずは、ボールに浅く腰掛けた状態で、手は膝の上に置いてください」
指示通りにボールに腰を下ろす。思った以上に不安定で、重心がうまく定まらない。隣を見ると、芦川は比較的安定しているようだった。さすがだなと思う。
レモンイエローのスイムキャップは頭の形に沿ってぴったりと収まり、動きに合わせてわずかに表面が張り直される。耳の後ろに、収まりきらなかった細い毛先が数本だけ覗いていた。中野先生も、セミロングの髪を丁寧に編み込み、そのままスイムキャップの中に収めている。こめかみや襟足に、わずかな後れ毛だけが残っていた。普段は髪を下ろしていることの多い二人だけに、こうして整えられた姿はどこか新鮮で、本格的な実習らしさを感じさせる。
「そのままゆっくりと上体を左右に傾けていきます。肩が下がらないように注意してください。5秒かけて右に傾けたら、5秒かけて中央に戻し、次は左です。これを10回繰り返します」
そう説明しながら、中野先生自身もボールに腰掛け、見本を見せた。姿勢は美しく、動きに無駄がない。紺色のジャージの袖がボールの上で動くたび、鍛えられた腕の筋肉がうっすらと浮かび上がる。上着のファスナーは首元まできっちりと上げられていて、その分だけ首筋のラインがすっきりと際立って見えた。
隣では芦川も真剣な表情で取り組んでいる。臙脂色のジャージの袖が動きに合わせて静かに揺れた。上着のファスナーは彼女も首元までしっかり上げていて、そこからちらりと見える臙脂色の襟元がどこか可愛らしい。
こうして並んでエクササイズをしていると、二人のジャージ姿が作り出す空気には、どこか独特の雰囲気があった。
「次は少し難易度を上げましょう」
ボールから立ち上がりつつ説明をする。
「両膝を床につき、お腹をバランスボールに乗せてください。この時、足は肩幅に開き、腕は一旦肘を曲げて顔の横に寄せます。そして息を吐きながら、ゆっくりと肘を左右に広げていきましょう。肩甲骨を思い切り引き寄せるイメージです。そのまま体幹が床と一直線になるように保ちます。最初はそのポーズを10秒キープしてみましょう。もし辛ければ途中で降ろしても構いませんが、必ずフォームを崩さないように気をつけてくださいね」
なるほど、いわゆるプランクのような体勢か。確かにこれはきつそうだ。
俺は指示通り、ボールに腹を乗せて膝をつく。ふわふわとした不安定感が全身を包み込む。腹部に触れるボールの弾力が妙にくすぐったい。
(素肌越しに感じるジャージの布地って、案外悪くないな……いやいや、集中しろ俺)
ふと浮かんだ邪念を振り払うように、さらに肘を広げ、肩甲骨を引き寄せようとする。だが思った以上に体幹が揺れ、姿勢を保つだけでも精一杯だ。早くも肘がプルプルと震え始める。……まだ、数秒しか経っていない気がする。
隣を見ると、芦川はすでに安定したフォームでその姿勢を保っていた。背中はまっすぐに伸び、臙脂色のジャージの袖が左右に広がっている。そこに走る白い二本ラインが、動きに合わせてわずかに歪むのが見えた。中学時代に鍛えた体幹の強さを、そのまま示しているようだ。
レモンイエローのスイムキャップが頭の形に沿って固定されているが、耳元に残った細い毛先がわずかに揺れ、普段あまり意識することのない後頭部の形がふと視界に入る。
「芦川さん、その調子です。体幹が安定していますね。初めてでここまでできるのは素晴らしいですよ」
中野先生の声には、はっきりとした賞賛がこもっていた。
「ありがとうございます」
芦川はボールの上で姿勢を保ったまま、はっきりとした声で答える。その横顔には、わずかな達成感のようなものが浮かんでいた。
俺も負けてはいられないと思い、必死に姿勢を保とうとする。
ふと視線を上げると、中野先生も同じ姿勢で見本を保っていた。紺色のジャージのファスナーは首元まできっちり上げられており、その分だけ首まわりのラインがすっきりと見える。スイムキャップに収められた編み込みの髪ともよく合っていて、どこか凛とした印象だ。
普段は長い髪をなびかせていることが多いが、こうしてきちんとまとめている姿には、指導者らしい落ち着きがある。
改めて動きを観察すると、腕の伸ばし方ひとつ取っても無駄がない。力んでいる様子がまったくなく、自然な姿勢のまま体幹を支えている。見本としての完成度が、一段違う気がした。
「佐藤くんも頑張っていますね。体幹を意識して、腰の高さを保つことがポイントです」
中野先生が俺のそばに来て励ましてくれた。その声音は優しく、まるで魔法のように疲労感を和らげてくれる気がする。スイムキャップの縁からわずかに覗く後れ毛が揺れるのを見て、なんだか心が落ち着く。
「はい……!」
俺はなんとか答えるのが精一杯だった。
こうして数回のエクササイズを繰り返していくうちに、少しずつだがコツが掴めてきた気がした。最初はすぐに崩れそうになっていた体勢も、最後のほうでは数秒なら保てるようになった。でも芦川はずっと涼しい顔で、ときどき俺のほうを見て小さく微笑んだりする。そのたびに臙脂色のジャージの襟元がちょっとだけ見え隠れするのが気になる。
こうしていくつかのバリエーションのバランスボール運動をこなし、気づけば時間はかなり経過していたようだ。
「じゃあ、それではこの辺りにしましょうか。良いペースで進められましたね」
先生の言葉にホッとすると同時に、充実感が湧き上がってきた。全身がじんわりと温かい。
俺は大きく伸びをして息を吸い込んだ。プールサイドの空気には微かに塩素と汗の匂いが混ざっている。これは間違いなく体育の時間の匂いだ。どこか懐かしい感じがする。
芦川は軽く息を弾ませながらも涼しい顔でボールを片付け始めている。その表情には疲労と共に確かな達成感が滲んでいるように見えた。
(やっぱり芦川は凄いな……)
改めてそう感じる。小学校以来の優れた運動神経は今も健在だ。いや、むしろ磨きがかかっている気すらする。
ボールを用具室に戻していると、中野先生が声をかけてきた。シルバーのスイムキャップが彼女の黒髪と対照的に明るく映える。
「二人とも、今日もいい具合に動けていましたよ。特に体幹の強さやバランス感覚の良さが印象的でした。バランスボールもプールサイドで貸し出ししてますので、またぜひ活用してください」
体を動かすことの楽しさを久しぶりに感じられた気がする。これも全て中野先生のおかげだろう。なんだか達成感があった。補習もいよいよ終わりが見えてきたけど、この時間が終わってしまうのは少しだけ寂しい。芦川のジャージ姿、中野先生のジャージ姿……どちらもすごく魅力的だったから。




