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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
五 午前の学校
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春休みの約束

チャイムが鳴り、1時間目の終了を告げた。

「さて、座学はここまでです。次はお待ちかねのプールサイドで実習ですね。昨日と同様に、ジャージの下に水着を着用してプールサイドに集合してください。今日は息継ぎの練習はしないので、スイムキャップは被らなくていいですが、ゴーグルと共に持ってきてくださいね」

中野先生はそう言うと、空色のブラウスをきちんと整えて教壇を降りた。の仕草はとても洗練されている。先生の足音が静かに遠ざかる。ドアが閉まると同時に、教室がシンと静まり返った。

「ふぅ……」

思わず息を吐く。緊急救命の話はなかなかヘビーだった。特に溺れている人を見つけたらどうするかという具体的な方法は頭の中に刻み込まれた気がする。

「佐藤……」

不意に芦川が俺を呼んだ。彼女はカバンからペットボトルを取り出している。臙脂色のジャージが朝日を受けて暖かな色合いを帯びていた。

「ん?」

「授業の始まる前に言っていた、プラネタリウム以外で私がやりたいことなんだけどね…」

いつもは何でもはっきり言う芦川が、俯き加減になりながら話しかけてきた。臙脂色のジャージの襟元が、セーラー服の襟の隙間からちらりと見えている。

「ああ、そう言えば、そんなことを言っていたな」

「あのさ……」

芦川はゆっくり息を吸い込み、視線を床に落とした。

「この補習が終わったら……そのうちでいいんだけど……」

そこで一度言葉を切り、また深呼吸する。臙脂色のジャージの袖口が微かに揺れた。何だか様子がおかしい。

「春休みのどこかで……このプールで……一緒に泳がない?」

思いもよらない提案に、俺は一瞬固まった。

水泳の補習なのだから芦川と泳ぐ可能性自体は頭にあった。俺だって思春期だ。女子の水着に興味がないわけじゃない。しかも体育は男女別、水泳も他学年の女子と絶対に重ならないよう組まれていたから、高校の女子の水着を見る機会はほとんどなかった。そういう意味では、今回の補習を少し楽しみにしていたのも事実だ。

ただ、相手が幼馴染の芦川となると話は別だ。小学校のころはスイミングクラブで一緒だったが、今はさすがに気まずい。それに今回はプールサイドでのストレッチだけだし、水着を見ることもないだろうと思っていた。

それなのに―—芦川のほうから言い出してきた。

昨日、プールサイドを出るときに水へ手を入れていた様子や、下校中に何か言いかけてやめた姿を思い出す。あの時から気にはなってはいたが、まさかそうくるとは。

「え? この学校のプールで?」

あまりにも突然で、俺は間の抜けた声を出してしまった。そして改めて芦川を見ると、その表情はいつもと違っていた。言いづらいことを、勇気を出して口にしようとしている顔だ。

芦川は思い切ったように続けた。

「ほら。中野先生が教えてくれたじゃない? この学校のプールは水泳部以外の生徒も利用できるし、大歓迎だって」

確かに先生はそう説明していた。多くの生徒が利用してくれたほうが、設備の維持管理の予算を確保するうえでも助かるのだという。

「別に、水泳部に入るとか、また競泳の大会に出たいわけじゃないのよ。私にとって天文部はかけがえのないものだし、今さら競泳の道に戻るつもりもない」

芦川は淡々と続けるが、その目には決意のようなものが見える。黒いセーラー服の上着の下で臙脂色のジャージが静かに膨らみ、彼女の呼吸を感じさせた。

「でもね、タイムとか気にしないで、ただ楽しみのために泳ぐのはいいかも、と思えてきてね。小学生の時は、佐藤とはスイミングクラブで一緒だったし、覚えているでしょ? キッズコースの合同レッスン」

そう言われてみると、確かに小さな頃は彼女と一緒に泳いでいた記憶が甦ってきた。二人とも初めてバタ足をした時のこととか、平泳ぎをマスターして褒められたこととか。懐かしさと共に温かい気持ちが湧いてくる。

「そう言えばそんなこともあったな」

俺の言葉に芦川は小さく微笑んだ。その表情にはかつての幼い芦川の面影が垣間見えたような気がした。

「うん。だから、また水の中を楽しみたいなって……。あくまで、趣味レベルだよ。もちろん、佐藤が嫌なら無理にとは言わないんだけど……もしよかったら……」

頬が微かに赤くなっている。恥ずかしそうだが、真剣な表情だ。

「勿論、喜んで付き合うよ。実は俺も補習を受けているうちに、泳ぐのも悪くはないかなと思えてきたから」

軽く答えつつも内心はドキドキしていた。芦川と再び一緒に泳げるなんて考えもしなかった。しかも純粋に楽しむための泳ぎ。実のところ、水着になることへの抵抗は、ほぼ消えていた。昨日の補習で芦川に体型を褒められたからかもしれないし、プールという空間に慣れてきたせいかもしれない。我ながら随分と単純だとは思うが。

「本当? よかった」

俺の返事に芦川の目がキラリと輝いた。彼女の笑顔がこんなに眩しいと思ったのは初めてかもしれない。補習中とはいえ、ジャージとセーラー服の姿が妙に似合っている。

「それならいっそ、この後の実習の時間でどうだ? 泳ぎたくなったらいつでも飛び込んで構いませんよって、中野先生も言っていたから」

「そうね……」

芦川は少し考える素振りを見せた。教室の窓から差し込む朝日が彼女の黒髪を柔らかく照らしている。

「でも……その……今はプールサイドでのトレーニングに集中しましょう。最後だし」

芦川は黒いセーラー服の上着の腕周りを軽く押さえながら言った。その下には臙脂色のジャージがある。どうやらこのジャージの感触が彼女には大切なものらしい。

「……佐藤と泳ぐのは、この補習が全部終わってからにしたいの。そう、ひと段落ついてからね」

彼女の瞳が真っ直ぐに俺を見つめている。そこには揺るぎない決意が感じられた。

「わかった。そうしよう」

俺は芦川の言葉を噛みしめるように頷いた。

芦川は水泳部でいたころは、プールにいる間は常に水着姿でいなければならなかった。だから昨日、初めてジャージを着てプールサイドに立った時は本当に嬉しそうだった。ジャージが肌を守ってくれる感覚。それが大きな安心感になっているのだろう。

確かに俺の中にも、久しぶりに泳いでみたいという気持ちはある。けれど同時に、今はまだ水に入らなくてもいいんじゃないかという思いもあった。

芦川の水着姿を想像すると、どうしても落ち着かないのだ。小学校のころは平気で一緒に泳いでいたはずなのに、今の俺たちはもうあの頃とは違う。幼なじみとはいえ、女子の水着を平然と見られるほど、俺は大人でもない。

それに、昨日初めてジャージでプールサイドに立ったとき、芦川は本当に嬉しそうだった。

ジャージが肌を守ってくれるような安心感――それを大事にしていることも、なんとなく分かる。だから今は、このまま水に入らずに補習を終えてもいいんじゃないかと思った。

何よりも、ジャージ姿の芦川は魅力的だった。

できることなら、そのまま着ていてほしい――そんな思いが胸に残っていた。

「よし。今日の補習が終わったら、具体的な日時を決めよう」

 俺は努めて明るく言った。春休みはまだ始まったばかりだ。

「そうね…」

 芦川は小さく頷いた。セーラー服の襟元から覗く臙脂色のジャージの襟が、彼女の頬に優しい陰影を作っている。

「じゃあ、そろそろ行こう」

俺は椅子から立ち上がった。芦川も俺の動きに合わせて席を立つ。

「佐藤……」

彼女が俺の名前を呼んだ。

「ありがとね」

短い言葉だったが、そこに込もった意味の深さを感じた。

「こちらこそだよ」

俺たちは教室を後にした。


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