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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
五 午前の学校
45/52

水の中の安全

いつもだったらすぐに現れる中野先生だが、今日は珍しく遅れてきた。廊下から足音が聞こえ、その後にドアが開く音がした。

「ごめんなさいね~。ちょっと準備に手間取ってしまって」

今日も穏やかな笑顔で教壇に立った中野先生。昨日と同様に、濃い紺色のジャージ上下の上に空色のブラウスを着ている。首までファスナーを上げたジャージの襟が、ブラウスの襟から見えているところも同じだ。

「本日も座学の授業を1時間して、その後はプールサイドで実習です。この補習もあと半日でおしまいですね」

中野先生の言葉に俺と芦川は同時に頷いた。本当にあっという間だった。

「今日は今までの総まとめとして、水泳における安全に関する知識をまとめたいと思います。もし溺れた人がいたらどうするかとか、応急処置の方法などについて詳しく見ていきましょう」

先生が黒板に「水難事故の対応」と書く。その手つきには無駄がなく流れるようだ。濃い紺色のジャージの袖が肘まで捲られており、白い手首が見える。彼女の姿勢の良さに思わず見とれてしまう。その手はペンを握りながらも、優雅な動きを見せている。芦川も俺も熱心にノートをとりながら耳を傾けていた。

「実は、学校で水泳教育が取り入れられるようになったのも、水難事故がきっかけなんですよ」

中野先生が唐突に切り出した。俺と芦川は一斉に顔を上げる。先生はチョークを持ちながら続ける。

「昔は海岸や河川など、公共の場所での遊泳が主流でしたが、そこでは不慮の事故も多く起きていました。また、一九五五年には、海上で連絡船が貨物船と衝突し、乗っていた多くの修学旅行生が亡くなるという痛ましい事故がありました。テキストの33ページを見てください」

俺も芦川もそのページを開く。そこには当時の新聞記事の写真が載っていて、悲惨な現場の様子が報じられていた。犠牲者は168名、うち100名近くが生徒だったという。先生の声は静かで、深刻にはなりすぎず、しかし事実の重みを伝えようとする微妙なバランスで語られる。

「このような事故を未然に防ぐために、学校での安全教育が重要視されるようになり、水泳の授業がカリキュラムに組み込まれていったのです。各学校にプールが設置されるようになったのも、この事故を受けてのことです」

先生は一旦話を区切り、黒板に「安全教育の歴史」と書き加えた。その文字は整然として読みやすい。

芦川が小さくメモを取りながら言った。

「それじゃあ、その事故がなければ、今みたいな水泳の授業もなかったかもしれないんですね」

「まさにそうなんです」

先生は大きく頷いた。

「元々は生存技能を習得するために始まった水泳教育でしたが、東京オリンピックをきっかけにして、社会全体としては競技としての水泳のほうが重視されるようになっていきました。これは、天気予報や船舶技術の発達などで、大規模な水難事故が減ったということもあるでしょうね」

先生はそこで一度呼吸を整え、続けた。

「ただ、水の事故は船の上とは限りませんね。船に乗らなくても浜辺や川で遊ぶことだってありますし、プールでも事故は起こりうるのです。だからこそ、安全面については知っておくべきですね。例えばテキストの36ページを見てください。これが海での事故の典型的なパターン。沖のほうへ流されてしまう海流による事故です」

そこには波打ち際から離れていく子どもの絵が描かれていた。顔をしかめて叫んでいるようだ。波の流れを示す矢印が、沖へ向かって描かれている。

「こういう場合、無理に岸に戻ろうとしても逆効果なんです。それよりも、こうして水に浮いて、岸に向けて泳ぐ。砂浜なら浅瀬を目指すんです」

 先生が黒板に絵を描きながら説明を続ける。空色のブラウスから見える紺のジャージの袖口が動くたびに、俺は目が離せなくなる。ずっと見慣れているはずなのに、その袖口に意識が集中してしまう。

「次に川での事故。流れが急な場所だと浅くても危険なんです。去年も全国で十数件の死亡事故がありました」

テキストの次のページには、川のイラストがあり、いくつかの危険な場所の例が挙げてあった。人工的に作られたプールと、常に流れている自然の川では、同じ水でもかなり性質が違うようだ。そういえば、去年の夏も、水難事故があったとニュースで見た記憶がある。

「最後にプールでの事故。実はこれが一番身近なのに見落とされがちなんです。どんなに管理を徹底しても、ちょっとした油断や体調不良などで思わぬ事故が起きることがあります」

 俺はハッと息をのんだ。まさか自分が親しんできたプールでさえ危険なのか。先生によると、水泳の授業時でも稀に事故が起きることがあるらしい。小学生のプールの授業の時、泳いだ合間にプールサイドに上がるたびに先生が整列させ、人数を数えていたことを思い出した。あれは、溺れている人がいないか点呼をとってたのか。

 芦川が小さな声でつぶやいた。

「ということは、水泳選手のほうが、かえって危険な機会も増えるってことですね」

先生は芦川の言葉に大きく頷いた。

「その通りです。技術があるからこそ、自分の能力以上の無茶をすることもありますし、水中にいる時間が長くなればなるほど体力の消耗も大きい。本来は監督やコートサイドコーチが注意しておくべきなんですがね」

芦川の顔つきが一瞬、引き締まったように見えたが、またすぐに元の表情に戻った。

「ですから泳ぐ技術だけでなく、誰かが溺れるなどした場合の対処法を学んでおきましょう」

中野先生は黒板に「①助けを呼ぶ」「②適切な救助」「③応急処置」と書き始めた。芦川は真剣にメモを取っている。

「まず基本は『自分が助ける』ということを考えないこと。自分が犠牲になるリスクを冒してはいけません」

先生の言葉は厳しいが正しい。実際に事故現場で冷静に行動するのは難しいだろうなと思う。特に相手が知人だったら尚更。

「次に救助方法ですが……」

先生はスクリーンに写真を写し、人工呼吸や心肺蘇生法についての説明を始めた。

「ここでは本格的な救助活動までは触れませんが、理論と簡単な方法は覚えておいてくださいね。いざと言う時に役に立ちますから」

 先生はスクリーンに映し出された画像を指差しながら解説を続けた。人工呼吸と心臓マッサージの方法を図で説明し、AEDの使用法や119番通報の仕方などを簡潔に述べた。芦川と俺は黙って聞き入った。

「……というのが基本です。2年生になったら、保健の時間に救命講習がありますから、詳しくはそこで学べます。今日の座学では、特に水辺の安全に焦点を当ててみました。皆さんも水難事故について知識を持っておくだけで、万一の時に正しい対処ができるはずです」

中野先生は最後に微笑んだ。

「水泳は楽しいスポーツであると同時に、常に危険と隣り合わせでもあるんです。この補習を受けてくださった皆さんには、このことを十分に理解してほしいと思っています」

水の怖さと魅力を両方理解することが重要なんだと実感した。芦川も静かに頷いていた。


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