水との対話
「水……触ってもいいかな」
芦川が急に立ち止まった。今まで聞いたことのない柔らな声だった。プールのスタート台の前にしゃがむと、そっと右手を水面に伸ばしていく。臙脂色のジャージの袖口が水に触れた途端、小さな波紋が広がった。中野先生も俺も立ち止まって、その様子を見守っていた。
「冷たい」
ぽつりと呟いた芦川の指先が水に沈んでいく。プールサイドの照明が水底に届き、彼女の指の影がゆらゆらと揺れている。臙脂色のジャージの膝が少し濡れた。
「でも……」
彼女は目を閉じて水面に顔を近づけた。長い睫毛が頬に影を落としている。
「潜ると……温かいような気がする」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かにざわめいた。中野先生も、何かを確かめるような静かな目で芦川を見つめている。
「水って……不思議」
芦川の声が小さく響く。水中で動かす指先が作る波紋がプール全体に広がっていく。臙脂色のジャージの袖口が水に浸かり、濃い色に変わっていくのが見えた。
「ずっと冷たくて怖いものだったんだけど、今は……少し違うんだ」
芦川の言葉に中野先生が優しく微笑んだ。紺色のジャージに包まれた先生の腕が自然と動いて、芦川の肩にそっと手を置いた。その仕草には明らかな慈愛が込められていた。
「感じ方は変わるものですよ」
先生の声は柔らかかった。まるで教室での彼女の指導と同じ口調だったが、もっと深い意味を含んでいるように感じた。
「水の中で感じる温もりは、あなたの心の変化かもしれません」
その言葉に芦川の肩がかすかに震えた。彼女はゆっくりと顔を上げ、水滴が頬を伝った。レモンイエローのスイムキャップの下からのぞく耳朶が赤く染まっている。
「芦川」
思わず声をかけてしまった。彼女は水に浸したままの指を引き上げ、滴る水滴を眺めている。
「水の感じ方が変わるって……きっといいことだと思う」
俺の言葉に芦川は静かに頷いた。その仕草があまりにも儚げで切なく見えた。
「それに……」
言いかけて一瞬躊躇したが続けた。
「水の中で感じる温度って人それぞれ違うんだろうな。それにその感じ方も……変わることもあるんだろうね」
俺の拙い言葉だったが、芦川の目に少し光が戻ったように見えた。彼女は濡れた指先をそっとジャージの袖で拭った。臙脂色の生地が水滴を吸い込み、模様のように広がっていく。
「ありがとう……佐藤」
その「ありがとう」には普段以上の深みがあった。ジャージに包まれた彼女の体がプールサイドに立ち上がる。レモンイエローのスイムキャップが蛍光灯の下で鮮やかに輝いている。
「行きましょう」
中野先生の声に促され、俺たち三人はプールサイドを後にした。俺の青色のジャージと芦川の臙脂色のジャージが並んで歩く姿が廊下の窓ガラスに映り込んだ。
「実習も明日で終わりだな」
俺が思わず呟くと、芦川がふと立ち止まった。彼女の臙脂色のジャージの襟元から覗く白い首筋が妙に印象的だった。
「うん……」
彼女の返事はどこかはかなげだった。




