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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
四 境界の気配
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息継ぎマスター

「3時間目の授業を始めますね」

プールサイドに声が響く。俺たちはジャージのまま、洗面器を並べたベンチへと移動した。ベンチの横には蛇口が備え付けられている。この配置からすると、今度は水を使うらしい。青いジャージが春の風に僅かに揺れる。

「今日は皆さんに息継ぎの練習をしてもらいます」

洗面器を指し示しながら言われ、思わず首を傾げる。

「息継ぎ……ですか?」

「ええ」

にこやかに頷きながら続ける。

「息継ぎは水中で呼吸を行う基本技術です。二人とも泳力はありますから、クロールやバタフライなどの呼吸テクニックは既に身についていると思います。でも今回練習するのは、そういう息継ぎだけではありません」

水着の上にジャージを着ている姿を意識しようと思えば簡単だ。しかし今は目の前の洗面器に集中する――それが自分を落ち着かせる唯一の方法だった。

「私たちが行うのは『水中で息を吐く練習』です。簡単に言えば、水の中でも呼吸ができるようにする練習ですね」

眉をひそめる。

「水の中で呼吸って……それって不可能じゃないですか?」

「確かに完全な呼吸はできません」

にこやかに答える声が返る。

「でも水中での呼吸の基礎は確実にあります。これを身につければ様々な場面で役立ちますよ」

並んだ洗面器を指差す。どれも水で満たされ、何も入っていない。

「まず最初の課題は、この洗面器の中でも息を吐けるようになることです」

芦川が目を丸くした。

「洗面器の中で……ですか?」

「その通りです」

表情は真剣そのものだ。

「水に潜る時に重要なのは『息を吐きながら潜ること』。これができれば自然と沈むことができ、水の抵抗も少なくなります。だから今日はこの練習を徹底的に行いますよ。では実際にやってみましょうか」

 自分の洗面器を手に取り、濃紺のジャージの袖が水面に触れそうになり、わずかに揺れる。その仕草に、心の奥で自分の緊張が少しだけ跳ねた気がした。芦川もちらりとこちらを見て、微かにくすっと笑ったように見える。

「まず洗面器の中に顔を入れて、ゆっくり鼻から息を吸います」

そう言いながら自分の洗面器に顔を近づける。臙脂色のジャージに包まれた肩が僅かに下がる。その動きが流麗で美しい。

「そしてそのまま水の中に顔を入れたら……」

静かに顔を水に沈め、鼻と口からゆっくり息を吐く。ジャージの袖が水面にかすかに触れ、水面が小さく波打つ。慌てる様子はなく、呼吸は穏やかだ。

顔を上げ、滴る水が濃紺のジャージの襟元に落ちる。それでも説明は続く。

「ポイントは、水の中でも息を止めず、少しずつ吐き続けることです。肺の中の空気が減ることで、身体が自然と沈んでいきます」

 理屈としては分かる気がした。俺と芦川は自分の洗面器の前に立つ。青いジャージの袖が水に触れないよう注意する。芦川の臙脂色のジャージも同様だ。そのぴったりした袖口や生地の感触が、手元の動きにも自然な緊張感を生む。

「ではまず、佐藤君から挑戦してみてください」

促され、俺は恐る恐る顔を洗面器に近づける。透明な水が鏡のように俺の顔を映す。ジャージの生地が腕に触れる感覚が妙にリアルで、心臓が少し跳ねる。

「ゆっくり鼻から息を吸ってください」

指示に従い、すぅっと息を吸い込む。水面がわずかに揺れる。

「そのまま顔を水に沈め、鼻からゆっくり吐き出してください。顔を上げる瞬間に大きく吸うのがタイミングの肝心です」

俺はおそるおそる顔を沈め、鼻から細く息を吐く。顔を上げた瞬間、肺に空気が入る解放感が広がった。

「どうでしたか?」

優しく問いかけられ、俺は少し首を傾げる。

「うーん……なんか変な感じでした」

その答えに、穏やかな笑みが返ってきた。

「最初はみんなそうです。焦らず、何度か繰り返しましょう」

隣を見ると、芦川はすでに三回ほど息継ぎを終えていた。彼女の動作は驚くほど流麗で迷いがない。元水泳部員の経験が、自然に体の動きに表れている。レモンイエローのスイムキャップが水滴を弾き、臙脂色のジャージの袖口は水に触れずにすっきりとしている。

「芦川さん、姿勢がいいですね」

その言葉に、芦川は少し照れたように笑った。その笑顔が、ジャージの柔らかな色合いと相まって、穏やかで柔らかい印象を与える。

「次は佐藤君の番です。もう一度やってみましょう」

俺は再び洗面器の前に立つ。先ほどよりも少しだけ落ち着いている気がする。青色のジャージの袖口が水に触れないよう注意しながら、ゆっくりと鼻から息を吸い込む。水面が小さく揺れ、顔を水に沈めると冷たさが心地よく、緊張が少しほぐれる。

鼻から少しずつ息を吐き出し、水の中に泡が広がっていくのを見ながらタイミングを計る。そして顔を上げ、肺いっぱいに空気を吸い込む。

「おっと……」

思わず声が出た。先ほどよりもずっとスムーズにできた気がする。

「いいですね、今の呼吸のタイミング。顔を上げる瞬間の吸い方がとても自然でしたよ」

 そう言いながら、ぱん、と軽く手を打つ音がプールサイドに響いた。水面の上の湿った空気の中で、その拍手が小さく弾む。その音に合わせるように、芦川の臙脂色のジャージの袖も微かに揺れた。

「佐藤君、二回目で随分上達しましたね。その調子です」

 俺は少し照れながらも、素直に嬉しい気持ちになる。芦川も微かに頷いてくれているのが見えた。その仕草が、なんだか心を温める。


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