微かなからかい
「さあ、では起き上がってください」
俺と芦川はゆっくりと体を起こした。ジャージに包まれた体が軽く汗ばんでいるのを感じる。不思議と心は落ち着いていたはずなのに、胸の奥で微かな高鳴りが止まらなかった。
「お疲れさま。佐藤君も芦川さんも、とても素直に取り組んでくれましたね。この感覚を忘れずに、次の補習へつなげていけたらと思います」
先生がマットの端を拾い上げる。紺色のジャージがふわりと舞い、その下に隠されたしなやかな曲線を無意識に想像してしまう。赤面する自分が恥ずかしいが、今日は誰も咎める者はいない。
休憩に入り、ベンチで水分補給。芦川も隣に座る。臙脂色のジャージが蛍光灯の光を受けて柔らかく輝き、レモンイエローのスイムキャップは汗ばんだ額にぴったりと貼りついていた。
「ねえ、佐藤」
「……なに?」
「さっきからずっと考えてたでしょ?」
ストレッチ中の自分の態度を思い返す。必死で意識しないようにしていたけれど、芦川にはバレバレだったかもしれない。
「何をだよ」
わざととぼける俺に、芦川がクスッと笑う。その笑いには、ちょっとからかうような響きが含まれていた。
「水着のこと」
「違う」
「嘘つき」
反論できない。途中から、水着のことが頭から離れなくなっていた。認めると負けた気がする。
「まあいいわよ。ただ、私も、ジャージの下は水着だけなのを、ちょっと意識しちゃってね」
「……お前も?」
意外だった。普段は平然としている芦川が、こんな風に心を揺らすこともあるのか。微かな優越感と共に、俺の胸はまた少し高鳴った。
「だってさ、競泳用の水着って、すごく体を引き締めてくれるのよね」
芦川が自分の体を軽く指さす。ジャージ越しにも分かるしなやかなライン。中学時代から水泳をやっていただけあって、基礎体力も十分だ。
「下に水着を着ていると、体が安定するっていうか……なんか安心するの。泳ぐ準備ができているからだと思うけど」
なるほど、確かに分かる。水着を着ていると体が安定する感覚はある。でも、「安心する」という表現には、どこか自信と余裕も混ざっているように感じる。
「泳ぐつもりはないのに?」
「うん。だけど、いつでも泳ぐ準備はできていると思うと、気持ちが楽になるのよ」
——「いつでも泳ぐ準備はできている」。
その一言を聞いて、俺はドキッとした。ジャージを脱げば、すぐに水着姿になる。だけど、あえてそうはしない。そんな微妙な中間地点にいられることが、芦川にとっては心地いいのだろう。そして、そのあたりで落ち着きをなくしている俺を見て、少しだけ楽しんでいるのかもしれない。
「なるほどね」
納得して顔を上げると、芦川はニヤリと笑った。ほんの少しからかうような微笑み。それが余計に俺の心臓を速める。
「佐藤は? 気持ち良かった?」
「まあ……悪くはない」
正直に答えると、芦川は満足そうに頷く。その仕草には、「やっぱり気になってたでしょ?」という含みがあった。昔からそうだ。俺の意地っ張りな本音を見抜きつつ、優しくからかうことも忘れない。
「次の時間は何をするのかな?」
芦川がペットボトルの水を飲み干しながら聞く。
「さあな」
答えながらも、俺の胸の奥にはまだ期待と高揚が残っていた。次の動き、次の瞬間、またあの微妙な緊張感を味わうのだろう――それを想像するだけで、心臓が少し早く打った。




