ストレッチたいむ
「それでは導入が長くなりましたけど……」
先生は一度深く息を吸うと、スイッチを切り替えるように姿勢を正した。シルバーのスイムキャップからのぞく凛々しい表情が、すっと教育者の顔に戻る。
「この後の実習も順調に進めていきましょう。遠慮せず質問や意見があれば、どんどん言ってくださいね。お二人の気づきや発想を聞けるのが、私にとっても一番の勉強になりますから」
そう言うと先生は、プールサイドの壁際に置かれたプラスチック製のベンチへ歩み寄った。そして隅に立てかけてあった厚手のマットを手に取り、慣れた手つきでプールサイドの床に広げていく。濃紺のジャージの袖が少しめくれ、白いラインが鮮やかに浮かび上がった。
「この時間は、まずマットの上で簡単なストレッチを行います。泳ぐためには柔軟性がとても重要なんです。筋肉が硬いとケガをしやすくなりますし、水を効率よくかくこともできません。プールでの練習だけでは補えない部分も多いんですよ」
先生は説明を続けながら、手際よくマットを敷いていく。シワひとつなく整えられた四枚のマットが、プールの青い光を受けて静かに輝いた。どうやらここが、今日のトレーニングの中心になるらしい。
「柔軟体操は準備運動としても実用的ですし、水泳だけでなく日常生活にも役立ちますよ」
そう言ってサンダルを脱ぐと、先生は敷いたばかりのマットの上に静かに立った。濃紺のジャージに包まれた動きが、どこか優雅に見える。
「バスタオルはプールサイドのベンチに置いておいてくださいね」
先生の指示に従い、俺はベンチの脇にバスタオルを適当に置いた。一方で芦川は、肩から外したタオルをきちんと畳み、まるで大切な物のように丁寧に置いている。その違いが彼女の性格をよく表していた。俺は少しだけ照れくさくなりながら、マットのほうへ歩いた。
サンダルを脱いでマットに上がると、先生はすでに背筋を伸ばして立っていた。濃紺のジャージの裾が、マットの上で静かに揺れている。その姿は教室で見せる凛とした雰囲気と変わらない。ただ、ここはプールサイドだ。シルバーのスイムキャップと紺色のジャージという組み合わせが、どこか非日常的な光景を作り出していた。
「まずは立ったままのストレッチから始めましょう」
先生はそう言うと、マットの上で軽く足を開いて立った。濃紺のジャージの裾が床の上にすっと落ち着く。その姿勢は、教室で見せる凛とした雰囲気と変わらない。
だがここはプールサイドだ。シルバーのスイムキャップと紺色のジャージという組み合わせが、どこか非日常的な光景を作り出している。
俺と芦川もそれにならって立った。俺の青いジャージの袖がわずかに揺れる。
「では最初は簡単な動作から」
先生は両手を後ろで組んだ。肩甲骨がきゅっと寄り、胸がわずかに張る。その動きに、俺は思わず見入ってしまった。ジャージの下には水着があるはずだ――そう思うだけで、なぜか心臓の鼓動が少し速くなる。
「肘を絞るようにして、両腕を後ろに引きます。ゆっくり胸を張って、肩甲骨を近づけるイメージです」
先生はその姿勢のまま、数秒ほどポーズを保ちながら説明を続けた。背筋はまっすぐに伸びている。俺は自分の背中にそっと触れた。ジャージ一枚が体を包んでいる感覚。その下には水着しかないという、どこか開放的な感覚。守られているようで、同時に身軽でもある――その不思議な感覚が、妙に心地よかった。
「皆さんもやってみてください」
促されるままに両手を後ろで組み、先生の言う通りに肩甲骨を寄せた。腕が引かれると、ジャージの生地が背中で軽く張る。自分の下に水着があることを、妙に強く意識してしまう。
「次は腕を上に伸ばします。ゆっくり天井に向かって」
先生は背筋を伸ばしたまま、後ろで組んでいた腕をゆっくりと頭上へ引き上げた。布が引き伸ばされ、身体の動きに沿って滑らかな線を描く。この動きが、意外と難しい。
「背筋を伸ばして、腰から上だけを動かすように。足元は固定したままです」
先生の助言に従い、腰が崩れないよう注意しながら腕を上げる。青いジャージの生地が引っ張られ、細かな皺ができていた。そんな些細な変化さえ、なぜか今の俺には妙に印象に残る。
「次は肩まわりを伸ばしましょう」
先生は腕を下ろすと、今度は片腕を頭の後ろへ回し、反対の手でそっと肘を押さえる。濃紺の袖口が白い首筋に触れ、ジャージのラインがゆるやかな弧を描いて伸びていた。
「肩甲骨を寄せたまま、片手でゆっくりと膝を押してみましょう」
中野先生が次のポーズを示す。床に片手をつき、もう一方の腕で膝を押し下げながら前傾していく。紺色のジャージの袖が伸び、首元から覗く襟の内側が光る。その下には――
自然と視線が吸い寄せられた。ファスナーはきっちり首元まで上がっているのに、何かが透けて見えそうで見えていない。この矛盾した感覚に戸惑う。ジャージは身体にフィットしているわけでもないのに、なぜか下の形が気になる。もしかしたら気のせいなのか。それとも……
「佐藤くん? どうしました?」
突然の声で我に返る。
「あ……いえ、なんでもないです」
慌てて目を逸らす。顔が熱くなっているのを感じた。
「では続けましょう。ゆっくりで大丈夫ですよ」
先生は再びストレッチに集中し始める。俺も芦川もそれに倣った。しかし、頭の中では別の思考がぐるぐる回っていた。
——水着の存在。
ジャージ一枚が隔てるだけで、この空間は妙に落ち着かない。泳ぐつもりはなくても、意識が自然と下にある水着へ引き寄せられる。単なる肌着ではない、運動用の専用ウェア。その密着感が、妙な緊張を生む。
もしジャージなしで水着一枚だったら――想像するだけで背筋がぞくりとした。しかも俺自身もブーメラン型の競泳水着を着ている。芦川も先生も同じタイプだろう。それを意識するだけで、顔が自然に熱くなる。高校生男子としては当然の反応だ。
「次は体幹を意識した動きをしましょう」
中野先生が次の指示を出す。仰向けになり、腕を斜め前方に伸ばす基本姿勢から始まった。
「このポーズで背中を床につけて……そのまま足を持ち上げていきます」
先生は実演しながら説明を続ける。紺色のジャージがプールの光を反射し、微妙な陰影を生む。その下にある肢体の輪郭が、時折見え隠れするような気がした。
(ダメだ……集中しなきゃ)
深く息を吸い込み、自分の意識を整えようとする。しかし、思考は止まらない。
——もし水着一枚だったら……
その想像はあまりに生々しく、胸の奥に冷たいものが走った。芦川や中野先生の目の前で、水着一枚という状況――考えるだけで顔が火照り、心臓が早鐘のように打つ。
ふと視線を芦川に移す。彼女も仰向けになり、基本姿勢を取っている。臙脂色のジャージに包まれた曲線が微かに浮かび上がり、レモンイエローのスイムキャップとのコントラストが鮮烈だ。そして、どうしても彼女の水着のことを考えてしまう。
(彼女の水着は何色なんだろう……?)
中学時代のものを流用しているのか、それとも補習用に新調したのか。赤系か、青系か……いや、考えるべきじゃない。だが、一度膨らんだ好奇心は消えない。
「佐藤くん? 大丈夫ですか?」
再び先生の声で我に返る。
「あ……はい! 問題ありません!」
ふと視線を芦川に移す。彼女も仰向けになり、基本姿勢を取っている。臙脂色のジャージに包まれた曲線が微かに浮かび上がり、レモンイエローのスイムキャップとのコントラストが鮮烈だ。そして、どうしても彼女の水着のことを考えてしまう。
(彼女の水着は何色なんだろう……?)
中学時代のものを流用しているのか、それとも補習用に新調したのか。赤系か、青系か……いや、考えるべきじゃない。だが、一度膨らんだ好奇心は消えない。
「佐藤くん? 大丈夫ですか?」
再び先生の声で我に返る。
「あ……はい! 問題ありません!」
声が裏返りそうになるのを必死に抑えた。芦川がちらりとこちらを見て、わずかに微笑んだ。その目には、からかうような光が宿っていた。
——芦川は気づいている。
俺がどれだけ意識を逸らそうとしても、結局は下の水着や彼女自身のプロポーションに心を奪われていることを。幼馴染としての勘か、女の勘か、どちらにせよバレているのだ。
(くそ……)
内心で悪態をつく。だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、彼女がこの状況を楽しんでいるという事実に、ほのかな安心感すら覚える。こういうところが、芦川らしい。人の気持ちをくすぐるのが上手い。
「では皆さん、この姿勢で五秒キープ。……三…二……一…」
先生のカウントダウンに合わせ、全身に力を込める。ジャージ越しでも肌に感じる微かな汗。水中でもないのに、不思議と体が軽く感じる。これが、中野先生の言っていた「水着のフィット感」なのかもしれない。
「次は腹筋を意識した動きです」
先生の声でマット上に座り込む芦川と目が合う。彼女は軽く眉を上げてみせた。その仕草は明らかに――「意識してるでしょ?」と言っていた。
(ああ、してるさ)
素直に認める。けれど、それでいいと思えた。この状況で何も感じない方が不自然だ。問題は、それを露骨に出さないこと。そしていつか本当にプールに入るとき、平静でいられる自分でいること。
「準備はいいですか?」
先生の呼びかけに頷く。まだ泳ぐには早すぎる。心の準備も体の準備も足りていないのは確かだ。
——でも、いつかは。
そう思うだけで、胸の奥が高鳴る。この「ジャージ+水着」という特殊な衣装感覚。その感触は、水中に入る前の準備段階でしか味わえない、独特の緊張感と高揚感を伴っていた。泳ぐこと自体はまだ先の話だ。今は、ただ体を動かすだけ、ストレッチや基本姿勢の中で、この感覚を楽しむ――それだけで十分だった。怖くもあり、同時に心地よい。この微妙な段階の感覚こそが、今の時間を特別なものにしている。
「では、膝を胸に引き寄せる動作から」
中野先生が再びデモンストレーションを行う。濃紺のジャージが動きに合わせてわずかに揺れ、その下にあるプロポーションの良さを思わせるライン。やはり泳ぐのはまだ早い。この段階でジャージを脱いで水着になり、芦川や中野先生の水着姿を目にしただけで、意識がぶっ飛んでしまいそうだからだ。
「ゆっくりで構いませんよ。呼吸に気をつけながら……」
先生の落ち着いた声が耳に届く。俺と芦川はそれぞれのペースで動きを真似た。
ジャージという防具が与えてくれる安心感。けれどもその下にある水着の存在が、微妙な緊張感を生む。相反する感情が交錯するこの瞬間こそが、今という時間の色を形作っている。
深く息を吐き出す。今はただ、この時間を楽しむことに集中しよう。この高揚感が少しずつ落ち着いていく過程も、貴重な経験だ。中野先生の配慮に感謝しつつ、俺は次の動きへと移行した。こうしているうちに、早くも二時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。




