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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
四 境界の気配
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水着の謎

ここまで説明を終えると、先生は俺と芦川を見比べるように視線を向けた。その眼差しには、どこか含みがあるように感じられる。そのとき、俺はふと疑問に思っていたことを口にした。

「あの……中野先生。一つ質問があるんですけど」

先生は穏やかにうなずく。

「何でしょう?」

「このジャージの下に水着を着て、スイムキャップまで被るっていうのは……なぜなんでしょうか? 本当に水に入らないなら、必要ないんじゃないかと思って」

俺がそう言うと、芦川も小さく頷いた。

「うん……私も気になっていました」

確かに俺たちは二人とも、ジャージの下に水着を着てスイムキャップも被っている。今日の補習はプールサイドでのトレーニングが中心だと聞いていたので、改めて考えると少し不思議だった。

すると中野先生は、まるでその質問を待っていたかのように微笑んだ。

「その疑問はもっともです。ご安心ください。決して無理やり水着を着せようとしているわけではありません。ただ……」

先生はそこで言葉を切り、ちらりと青く澄んだ水面へ視線を向けた。その仕草はどこか優雅だ。

「私たちの目の前には、こんな立派なプールがあります」

俺も芦川も、つられるように水面を見つめた。ガラス張りの天井から差し込む光が水面で揺れ、神秘的な輝きを放っている。ここは地下にある、本格的な温水プール施設だ。

「せっかくこの設備が使えるのですから、もしあなたたちが『泳ぎたい』と思ったときには、いつでも飛び込めるように――そう思ってお願いしただけなのです。もちろん強制ではありません。補習中に泳ぎたくなったら、そのときは遠慮なく言ってください。私も全力でサポートしますから」

なるほど、そういうことか。確かに先生の言う通りだ。ここは学校の中でも特に設備の整った温水プールだ。その前に立っている以上、「泳ぐ」という選択肢が常にあるのは自然なことだろう。

「そして、もう一つ……逆の考え方もあります」

先生は続けて、もう一つの理由を説明し始めた。

「最初から水着姿でいるというのは、たとえ屋内プールでも意外と寒いものなんです。特に春先の今はなおさらですね。肌寒さは集中力を削いでしまいます。それに……」

先生は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。その仕草にはどこか思いやりが感じられる。俺も芦川も、固唾をのんで次の言葉を待った。

「泳いで疲れたあとも、すぐに体を拭いて衣服を着られないと、体温が急激に奪われてしまうことがあります。筋肉が冷えると怪我のリスクも高まりますからね。ですから今回はまずジャージを着てもらっていますが、もし泳いだ場合でも、その後はそのままジャージを着ていてください」

先生の説明は実に合理的だった。水着とジャージという二重の装いは、単に着替えの便利さだけではなく、身体を冷やさないための配慮でもある。春先の気候とプールという環境を考えれば、納得できる話だ。

「それに……」

先生はさらに続けた。その声は少しだけ柔らかくなる。

「たとえ幼馴染とはいえ、いきなりお互い水着姿になるのは、やっぱり少し抵抗があるんじゃないでしょうか?」

その言葉に、俺は内心で大きく頷いた。そうだ。このジャージの下に水着を着ているという状態は、俺にとって実はちょうどいい距離感だった。少なくとも、芦川の前でいきなり水着一枚になるよりは、はるかに心の準備ができる。

「水泳の競技選手も、大会直前までジャージやガウンを羽織っていることが多いですよね。あれは身体を暖かく保つためでもありますが、精神的な安定感を得るためでもあるんです。表彰台に立ったあとも、彼らはすぐにジャージを羽織るでしょう? 身体を冷やさないという理由だけでなく、緊張から解放された心を落ち着かせる意味もあるんですよ。そういう意味では、今回のあなたたちの格好はとても理にかなっています」

先生の鋭い観察に、俺は思わず感心してしまった。確かに大会の映像でも、選手たちは試合の直前までトレーナーやガウンを着ていて、終わるとすぐにそれを羽織っている。

「私も同じなんです」

中野先生は、左手に抱えていた白と紺のバスタオルを軽く握り直した。

「水泳の授業で指導するときも、プールに入るとき以外は基本的にジャージを着ています。やっぱり……ずっと水着姿でいるのは、たとえ仕事でも少し抵抗がありますからね」

先生の言葉に、芦川が静かに頷いた。彼女の表情には、納得と安堵が入り混じっているようだった。

「あとですね……」

先生は、最後に秘密を打ち明けるような小さな笑みを浮かべた。シルバーのスイムキャップの下で、黒い瞳にいたずらっぽい光が宿る。その表情はどこか若々しくてチャーミングだった。大人の女性がふとした瞬間に見せる子どものような一面には、不思議な魅力がある。

「これは私個人の感想なんですが……実は結構好きなんです。この状態」

「この状態?」

「ええ。ジャージの下に水着を着ている状態」

「え?」

思わず声が漏れた。芦川も少し目を丸くしている。先生は肩をすくめるようにして続けた。

「水着って体をしっかり包み込むでしょう? あのフィット感があると、なんだか気持ちも引き締まるんです。『これから動くぞ』っていう感覚が自然に出てくるというか」

先生はまるで秘密を打ち明けるように、そっと言った。

「水着は本来スポーツ専用のウェアですからね。素材も身体の動きを支えるように作られています。それをジャージの下に着ていると、普段より少し身体が整っている感じがするんです。だから授業のときも、泳ぐ予定がなくても着ていることが多いんですよ」

先生は自分の脇腹のあたりを軽く掌で押さえた。その仕草にはどこか楽しげなニュアンスがある。

「それに……なんとなく『特別な感じ』がしませんか?」

先生はジャージの襟元に指を添える。

「ただのジャージではなくて、この下にはいつでも泳げる準備が整っている。そう思うだけで、少し気持ちが違うんです。それから――」

先生は首元まで閉められたファスナーをそっと指でなぞった。

「こうしておけば、中の水着や肌を見せなくて済みますからね。見せるかどうかは自分で決められる。そういう意味で、安心感があるんです」

先生は照れ隠しのように軽く笑った。その笑顔を見ていると、なぜだか胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。でも、先生の言うことはよく分かる。プールサイドでジャージを着ているときのあの落ち着いた感覚は、水着一枚のときとはまったく違う。

「俺も……水着のフィット感、わりと好きなんです」

思い切ってそう言うと、先生は目を丸くした。

「まぁ! 佐藤くんもそう思っていたんですね。それは嬉しいです」

先生は本当に嬉しそうに目を細めた。

「私も……先生のそういう感覚が、……すごく分かる気がします」

それまで黙って先生と俺のやり取りを聞いていた芦川が、静かに口を開いた。彼女は臙脂色のジャージの胸元にそっと手を当てている。

「泳ぎたい気持ちはあるけれど……今はこの状態でいられる余裕があるというか……」

芦川は少し考え込むように間を置き、それから言葉を継いだ。

「泳げる準備はできている。でも、あえて泳がない。そうやって自分でコントロールできている感じが、少し新鮮なんです」

なるほど、と俺は思った。芦川にとっては「準備がある上での自由」。俺にとっては「泳がなくてもいいという安心感」。同じ水着とジャージの組み合わせでも、感じ方は少し違う。でも――この状態が心地いいという点では一致している。それがなんだか面白かった。

中野先生はそんな俺たちを見て、さらに嬉しそうに微笑んだ。

「どうやら私の勝手な好みも、少しは共感してもらえたようですね」

先生は胸元のホイッスルを軽く弄ぶ。銀色の小さな笛が、プールの光を弾いた。

「こういう装いの好みや、それに伴う心理の話は、なかなかできるものではありません。今日のこのプールサイドだからこそ、ですね」

先生の言う通りだと思った。教室では絶対に出てこない話題だ。ここが閉ざされたプールサイドで、しかも「水泳補習」という特別な状況だからこそ、こんな会話が自然にできているのだろう。

中野先生は俺たちを見つめながら、穏やかに続けた。

「このジャージと水着の組み合わせがもたらす安心感や余裕は、水泳と向き合ううえでも大切かもしれません。プレッシャーを抑えながら、必要なときには力を出せる――そんな状態で水に向き合えたら理想的ですよね」

俺と芦川は静かに頷いた。地下プールの静寂の中、三人の小さな息遣いだけがかすかに響いていた。


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