実習の前に
「ここで改めて、今回の補習について説明しますね」
中野先生は穏やかな口調でそう言うと、俺たちの向かい側にあるプラスチック製のベンチの横に立った。その動作はとても自然で、この場所に慣れている人の余裕が感じられる。
白と紺の縞模様のバスタオルを左腕に抱え直し、右手をそっと腰のあたりに添える。無駄のない立ち姿はどこか洗練されていて、まるでファッションモデルのようだった。
濃い紺色のジャージはプールの青い光を浴びていっそう深みを増し、シルバーのスイムキャップとのコントラストが美しい。
「先ほどもお話しした通り、今回の補習では水着を着て泳ぐ必要はありませんし、プールに入ることを強制するつもりもありません。佐藤くんも芦川さんも、十分な泳力を身につけていることは分かっています。ですから今回は、水泳の補習ではありますが、泳ぐこと以外のことをしてみたいと考えています」
中野先生は穏やかな笑みを浮かべながら、俺たちを見つめた。優しい目をしているが、その言葉にははっきりとした意志が込められている。確かに、俺も芦川も水泳に関しては初心者ではない。
「むしろ、皆さんに学んでほしいのは、水泳の背景や理論についてです。水泳というのは、意外と奥が深いのですよ。そして実習では、主にプールサイドで行うトレーニングに取り組んでもらいます」
先生はそこで一度言葉を切り、ゆっくりと辺りを見渡した。青い水面には光が乱反射し、静かに揺らめいている。
「プールサイドのトレーニングですか…」
俺は思わず呟いた。泳ぐのではなく、プールサイドで何をするというのだろう。芦川も少し意外そうな顔をしている。「ええ。水泳というと、とにかくプールに入って泳ぐことばかり考えがちですよね。でも実際には、それだけでは不十分なんです」
先生はそう言いながら、右手でホイッスルを握った。チェーンがきらりと光り、指先がそれをそっと撫でる。
「水中での運動は、確かに全身を使う素晴らしいものです。でも、水という抵抗のある特殊な環境に長くいすぎると、逆に陸上での生活や他のスポーツに適さない体づくりになりがちなんですよ」
「特殊な環境……ですか?」
芦川が控えめに尋ねた。声は静かだが、その目には真摯な光が宿っている。
「そうです。水の中は比重が低く、浮力がありますからね。関節への負担は少ないのですが、その一方で、陸上生活で必要な筋力が不足したり、体のバランスが崩れたりすることもあるんです」
先生はうなずきながら続けた。その説明は論理的で分かりやすい。水泳のメリットだけでなく、デメリットもきちんと教えてくれる姿勢には好感が持てた。
「だからこそ、水泳だけに偏らず、陸上でのトレーニングを取り入れることが大切になります。バランスの良い身体づくり――特に姿勢維持に必要な深層筋や体幹を鍛えることで、泳ぎの効率も上がるんですよ。ケガの予防にもつながりますし」
「なるほど……」
俺は大きく息を吐いた。水泳は陸上のスポーツより楽だと思っていた部分が、ここにきて根本から覆されたような気分だ。確かに水泳選手には、長い手足やしなやかな体型のイメージがある。だがそれは、単に水に浸かっているからではなく、きちんと陸上トレーニングも積んでいる結果なのかもしれない。
「佐藤くんは小学校までスイミングに通っていましたよね。でも、学校の授業の水泳は基本的に泳力を見るものですから、きっと物足りなかったんじゃないかしら」
中野先生の言葉に、俺は少しどきっとした。確かに水泳の授業は退屈だった。クロールも平泳ぎもとっくにできていたし、クラスメイトたちが必死にバタ足しているのを眺めているだけだったからだ。そういうこともあって、高校の水泳の授業はサボってしまったのだが。
「ええ。中学からは本格的には泳いでませんからねぇ」
俺は苦笑混じりに答えた。
「佐藤、サボりがちだけど、本当は速かったじゃない」
芦川が横から言った。確かに、芦川と一緒にスイミングクラブに通っていた頃は、俺のほうが少し速かった時期もあった。だが、それも小学校の頃の話だ。中学に入ってからは水泳からすっかり離れてしまい、今ではその頃の感覚がどこまで残っているのかも分からない。
「いや、それはもう小学校の頃のことで……」
「いいえ、大丈夫ですよ。一度身についた感覚は、なかなか忘れないものですから」
そう言って微笑む先生の言葉には、どこか励まされるものがあった。そうだ。水泳は中学に入ると同時に辞めてから、ほとんどしていない。技術は錆びついているかもしれないが、それでもまったくのゼロというわけではないはずだ。
「芦川さんも、中学で水泳部だった経験がありますしね。なおさら今回のプログラムは有意義だと思います。水泳部では、主に水の中での練習が中心だったのではありませんか?」
先生の問いかけに、芦川は静かに頷いた。
「ええ、そうでした。陸でのトレーニングは、あまり多くなかったかもしれません」
その声には、どこか感慨深い響きが混じっていた。中学時代のことを思い出しているのかもしれない。先生もそれを察してか、穏やかな口調で話を進めた。
「陸と水、両方のバランスが大事なんです。今回補習を通じてそのあたりを体感していただけるといいですね。お二人のような経験者が学ぶにはもってこいの機会ですよ。それに水泳は、確かに素晴らしいスポーツですが、必ずしも『競技』でなければならないわけではありません。成人してから趣味の一環として水泳を始める方も多いですし、高齢になってもプールで軽い運動を行うことで健康維持に繋げられます。要は、生涯に渡って自分らしく楽しめるスポーツなんですよ」
そう言うと、ふっと優しい笑みを浮かべた。その笑顔には深い愛情が込められているように感じられた。俺はその言葉の意味を噛み締める。確かに水泳といえばオリンピックなどの競技のイメージが先行しがちだけど、もっと気軽な楽しみ方もたくさんあるんだなと気づかされる。
「私は『今』泳がなくてもいいと思っているんです。むしろ今ここでこうして補習を通して水泳の面白さや奥深さを知ってもらい、将来的にあなた方がどんな形であれ水泳に関わるきっかけになれたら……それが一番嬉しいですね」
中野先生の声は静かだが芯が通っていて、プール全体に染み渡るようだった。今すぐじゃなくてもいい。高校で水泳の授業をさぼったのも、別に一生水泳と関わりたくないと思ったわけじゃない。なんとなく億劫だったり、面倒くさかったりしただけだ。でもこうして改めて水泳の奥深さに触れてみると、「補習」という形ではあるけれど、純粋に楽しいと感じている自分がいる。それがなんだか嬉しい。




