プールサイドで二人だけ
更衣室を出てプールへの通路を進むと、昨日、見学したプールの入り口が見えてきた。重厚な扉の前で、俺たちは足を止める。昨日と同じ場所。中に入った。そこには、昨日と変わらない広大な地下プールがあった。一面ガラス張りの窓から差し込む光が水面に反射してきらめいている。青い水中は澄んでいて、底まで透けて見えるようだ。まだ誰も泳いでいない静かな水面は、鏡のように周囲の景色を映し出している。しかし今日は違う。その水面を見下ろすプールサイドには、ジャージ姿の芦川と俺の二人だけが存在していた。
中野先生の姿はない。俺と芦川は顔を見合わせる。彼女は首を傾げて見せた。
「先生は……まだ来てないみたいね」
「うん。まあ、待っていればいいんじゃない?」
俺はそう答えながら、プールサイドに置かれたプラスチック製のベンチに腰を下ろした。硬い感触がお尻に伝わるが、不快ではない。隣にスペースを開けておくと、芦川も少し距離を空けて座った。肩に掛けた白地にピンクのストライプ入りのバスタオルを、彼女はいとおしそうに両手で軽く押さえていた。その仕草が妙に愛らしい。
(良かった……本当に)
水着になって泳ぐ必要がないと言われた時、心底ほっとした。あの水着一枚でプールに入るなんて、到底耐えられなかっただろう。ましてや、芦川の前で……。そう思うと、改めて中野先生の配慮に感謝せずにはいられない。先生がああ言ってくれなかったら、今頃、俺はどうなっていたことか。想像するだけで恐ろしい。
今の俺は、学校指定の青色のジャージを着ている。芦川も臙脂色のジャージ姿だ。その上にスイムキャップを被り、裸足にサンダルを履いている。二人ともタオルを手にしており、いかにも「これからプールに入る準備をしています」という格好だが、肝心の水着姿は互いに見ずに済んでいる。そして何より……彼女のジャージ姿が見られてよかった。水着姿よりもずっと自然で、そして……その……魅力的だと感じる。恥ずかしいけど。
「それにしても……」
芦川は自分のジャージの裾を軽く整えながら、ぽつりと続けた。
「本当にいいよね、これ。こういうの……」
「……え?」
突然の言葉に戸惑う。何のことだろう。「こういうの」とは一体?
「ジャージってこと?」
念のため確認すると、芦川はこくりと頷いた。真剣な眼差しだ。
「うん。こうやって……プールサイドでジャージを着ているのが、すごく落ち着くの」
彼女はそう言って、自分の臙脂色のジャージを見下ろした。
ファスナーは首元まできちんと上がり、その隙間から白いタオルの端が少し覗いている。周囲に誰もいないプールサイドでは、その姿がひときわ目立って見えた。
「ああ……まあ、確かに屋内プールでも水着だけだと寒いしな」
俺は当たり障りのない相槌を打つ。
本当はそれ以外にも目に入っているものがある。ジャージ越しに伝わる身体のラインとか、スイムキャップから覗く輪郭とか、裸足にサンダルというアンバランスさとか。でも、そんなことは絶対に口には出せない。
「うん……でも、それだけじゃないの」
芦川は少し遠くを見るような目をした。何かを思い出しているようだった。
「中学の時の水泳部の顧問の先生がかなり厳しくてね。練習中はもちろん、プールサイドでも基本ずっと水着のままだったの。休憩のときも着替えは禁止」
「えぇ……」
思わず声が出た。それはかなりきつい。
「大会でもそう。他の学校の子たちはウォームアップのジャージを着てるでしょ? あれ、すごく羨ましかったな……」
芦川は少し懐かしそうに目を細めた。でも、その横顔にはどこか寂しさも混じっていた。
「だから今こうして、ちゃんとジャージを着てプールサイドにいられるのが……すごく嬉しいの」
「そっか……」
なるほど、そういうことか。さっきの「いいよね」という言葉には、そんな意味が込められていたのだ。
「それに……」
芦川は少し言い淀み、ちらりと俺を見る。
「体育もその先生が担当してたんだけどね。授業の時も、ジャージは季節に関係なく自由に着させてもらえなかったの。冬でも半袖の体操服にブルマーで」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「えっと……それ、本当に?」
芦川は小さく頷く。
「『動けば自然に体は熱くなるから』って。ジャージとかトレーナーは甘えだって言われてた」
「……マジかよ」
言葉を失う。
「それで……寒くなかったのか?」
「最初は、そういうものだと思っていたし、平気だった。でも、だんだん体が冷えてきてね。練習中に震えが止まらなくなったこともあった」
芦川は小さく息を吐いた。
「冬なんて、雪が降ってもグラウンドを走らされたわ。膝に霜焼けができて血が滲んだこともあった」
「……ひどいなぁ」
「うん」
芦川はかすかに笑った。その笑顔はどこか儚かった。
「だから今、こうして普通にジャージを着ていられるのが……すごく安心するの。暖かいし、肌や体型も見せなくて済むし」
そして少しだけ間を置いて、
「何より、落ち着くのよね」
ブルマーという言葉を聞いた瞬間、俺の頭のどこかが一瞬だけ反応した。
昨日、グラウンドで見かけた陸上部の女子。その臙脂色のジャージの隙間から、ほんのわずかに覗いていた濃紺の生地。
それだけで――芦川がブルマーを履いたらどんな感じなんだろう、なんて想像までしてしまっていた。
だから、芦川自身の口からその単語が出たとき、男の俺は正直、少しだけ戸惑いと、そしてどこか後ろめたい喜びみたいなものを覚えてしまった。
でも。
実際の話を聞き始めてからは、そんなことを考えている余裕なんて、どこにもなかった。
冷たい風が吹き荒むグラウンド。
半袖で震える少女たち。
寒風にさらされたむき出しの腕や脚。
体育教師の怒鳴り声。
寒さに耐えながら走らされる光景だった。
その中に――芦川もいたのだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「……そうか」
やっと絞り出せたのは、それだけだった
「……まあ、そんな感じだったから」
芦川は苦笑した。
その言葉には確かに苦労の気配が滲んでいたが、不思議と深刻な響きはなかった。
むしろ、遠い出来事を静かに振り返るような落ち着きがある。これまでずっと避けるようにしてきた記憶を、ようやく言葉にできるようになった――そんな冷静さだった。
「そのせいかな。ジャージを着るっていう行為そのものが、私にとっては『守られている』とか『解放されている』っていう感覚に近いのかも」
そう言いながら、彼女は自分のジャージの裾をもう一度そっと摘んだ。その仕草には、どこか慈しむような気配があった。ただの運動着というより、大事なものを確かめているようにも見える。
普段のクールな芦川とは少し違う。どこか脆さを秘めた、繊細な表情だった。それを見ていると、胸の奥がざわりと波立つ。
「榊原先生も厳しいと言えば厳しいけど、理不尽なことは絶対にしない人だから。そのあたりはちゃんと分かってくれてる」
確かに榊原先生は厳格だ。だがそれは、安全とか時間を守るとか、そういう基本的な部分に限っての話だ。確かに榊原先生は厳格だ。だが、そこさえ外さなければ、あとは意外なほど生徒に任せてくれる。
彼女なら、きっとこう言うだろう。
——はぁ、なんで、あたしがそんなこと、判断しなきゃいけないんだ?
——暑いと思えばブルマーになればいいし、寒いならジャージを履けばいいじゃないか。
——運動できればいいんだよ。
ぶっきらぼうにそう突っぱねそうな気がする。
「今回の中野先生の補習も……」
芦川は少し肩をすくめた。
「ジャージの上にセーラー服っていうスタイルは、正直ちょっと気に入ってるのよ。なんだか新しい自分になれたみたいで」
そう言って微笑んだ芦川の顔は、驚くほど晴れやかだった。その言葉に嘘はないように思えた。彼女は今、本当にこの状況を楽しんでいるのかもしれない。俺と同じように。もっとも、その楽しみ方は、たぶん少し違っているのだろうけど。
「新しい自分……か」
芦川の言葉を繰り返しながら、俺は改めて隣に座る幼馴染を見た。臙脂色のジャージに包まれた華奢な身体。首元まで上げられたファスナー。スイムキャップの下からのぞく細い首筋。
裸足にサンダルというラフな装い。肩に掛けられた白いバスタオル。そのどれもが、今ここにいる「新しい芦川」の一部のように見えた。
そして何より――その臙脂色のジャージそのものが、今の彼女をそっと守っているように思えた。
「佐藤もね……、その服装、すごく似合っているよ」
芦川の不意打ちのような言葉に、俺は思わず息を飲んだ。まさか芦川の方からそんな言葉をかけてくるとは思わなかった。
「その青いジャージとミントグリーンのスイムキャップの組み合わせ……とっても爽やかだし、男の子っぽいし……こうしてプールサイドにいると、なんだか強い水泳選手そのものって感じ」
自分が芦川からそんな風に分析されるなんて想像もしていなかった。
「ちょっ……そんなことないって。俺なんか全然」
慌てて否定しようとするが、芦川は聞く耳を持たない。
「私、大会でいろんな男子選手見てきたから、わかるもの。佐藤には間違いなく強豪校の選手って風格があるわ」
確信に満ちた口調で断言されると、なんだか本当にそうなのかもしれないという気がしてくる。水泳をやめた自分が再び自信を持つなんておかしな話かもしれないけれど。
「そ……そうかな……?」
照れ臭さを隠すためにぶっきらぼうな言い方になってしまう。しかし内心では少なからず嬉しいと感じている自分がいることにも気づいていた。こんな風に褒められるのは本当に久しぶりだし、相手が芦川となれば尚更だ。彼女も満足げに微笑んでいる。その表情はいつもよりずっと柔らかい。
(芦川……嬉しそうだな)
心の中でそう思った。プールサイドに二人きりで座っているこの時間が、なんだか特別なものに感じられる。互いにジャージを着て、スイムキャップを被り、裸足にサンダルを履いている。見た目は「これから泳ぎます」という装いだが、実際に泳ぐ必要はない。だからこそ、こうしてゆっくりと話ができるのだ。
水着の上にジャージを着ることに憧れていた芦川と、水着の上にジャージを着ることができてホッとしている俺。なんだかんだで二人の願いが叶っているのかもしれない。そしてそれはきっと良いことなのだろう。先生が来るのが少し遅れているのも、今はありがたく思えた。もう少しだけ、この穏やかな時間を楽しみたいと思った。




