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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
三 胸騒ぎ
33/50

ジャージ姿の芦川…ダメだ! 魅力的すぎる

更衣室の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。ジャージを着ているおかげで寒さは感じない。廊下に出ると、すぐ前の壁に寄りかかるようにして立っている人影が目に入った。

――芦川だ。

「あ」

思わず声が漏れた。壁にもたれていた芦川が顔を上げる。もうセーラー服の上着は着ていない。座学のとき、ずっと見たいと思っていた――ジャージ姿の芦川の全身が、今、目の前にあった。

臙脂色のジャージ上下。女子用の学校指定のものだ。上着のファスナーは首元まできっちり上げられていて、襟が顎の下でぴたりと止まっている。そのせいか、そこから伸びる首筋の細さや白さがいっそう際立って見えた。

袖には白い二本ライン。濃い臙脂色の生地にそのラインがくっきり映えて、彼女の細く長い腕の輪郭をなぞるように伸びている。壁にもたれた姿勢のまま腕を軽く組んでいるせいか、そのラインがゆるやかな曲線を描いていて、思わず目を奪われた。

ズボンの両脇にも同じ白いラインが入っている。まっすぐ下へ落ちるその線が、芦川の脚の長さを強調しているようだった。ジャージは本来ゆったりした服のはずなのに、彼女が着ていると不思議と野暮ったさがない。むしろ身体のバランスの良さをさりげなく浮かび上がらせている。

ただの学校指定ジャージ。体育の授業で女子が着ているのを、これまで何度も見てきたはずだ。それなのに、今こうして目の前に立つ芦川が着ていると、まるで別の服のように見える。臙脂色の生地が彼女の身体の線に自然になじんでいて、その姿がやけに目に焼きついた。

胸の奥が、ふいに強く跳ねる。自分でも驚くほど、心臓が早く打っていた。

(……なんでこんなにドキドキしてるんだ)

ただのジャージだ。特別なものじゃない。

頭ではそう分かっているのに、視線を外すことができない。むしろ、ジャージだからこそなのかもしれない――そんな気さえしてきた。

――しかし、目を引いたのはそれだけではなかった。

臙脂色のジャージの上に、もう一つ柔らかな布が掛けられている。

バスタオルだった。

白を基調にした生地に、ところどころ淡いピンクの波のようなストライプが入っている。水彩絵の具を滲ませたような、やわらかな模様だ。その大判のバスタオルを、芦川は肩のあたりに軽く羽織っていた。まるでショールのように。

タオルの端は細い肩から斜め前へと垂れ、臙脂色のジャージの上でやさしい色のコントラストを作っている。ジャージもバスタオルも、本来はスポーティなもののはずなのに、芦川が身につけるとどこか上品で落ち着いた雰囲気さえ漂っていた。

柔らかなタオルが肩から胸元にかけてふんわりとかかっている。その質感のせいか、そこにある体のやわらかさまで想像させるようだった。

それはセーラー服では感じなかった、まったく別の魅力だった。

俺の視線は、さらにその上――芦川の頭へと向かった。

そこにはレモンイエローの明るいスイムキャップがすっぽりとかぶせられている。普段は肩のあたりまで伸ばしている豊かな黒髪はきれいにまとめられ、キャップの隙間からは一本もはみ出していない。だから今、外に見えているのは彼女の顔だけだ。

耳のあたりから顎へと続く輪郭が、いつもよりくっきりと浮かび上がっている。髪が隠れているせいだろうか、どこか少年のような凛々しささえ感じられて、それがまた芦川の印象を新鮮なものにしていた。

レモンイエローのキャップは、濃い臙脂色のジャージの中ではかなり目立つ。最初は少し浮いているようにも思えた。

けれど見ているうちに、それが全体の中で不思議とよく映えていることに気づく。鮮やかな黄色がアクセントになって、芦川の姿をより印象的にしているようだった。

そして――そのキャップの存在そのものが、ある事実をはっきり示していた。

泳ぐ準備が整っている、ということ。

つまり、ジャージの下には――。

(……水着)

競泳用の、水にぴったりと張りつくあの生地。

それが今、彼女の身体のラインに沿って隠れているのだ。

そう思った瞬間、胸の奥がまた強く鳴った。

臙脂色のジャージでしっかりと全身を覆っているのに、その下にあるものを想像してしまうせいで、かえって落ち着かない。

守られているはずなのに、その内側を思い浮かべてしまう自分に、妙な矛盾を感じながらも、鼓動だけはますます速くなっていった。

そして視線は、自然と芦川の足元へ落ちた。ジャージのパンツの裾から覗いているのは、小さな素足だった。なんと裸足だ。白くて滑らかな足先がちょこんと覗き、そのままゴム底のビニールサンダルを軽く引っかけている。

春先とはいえ、地下プールは空調で温度が保たれているから寒くはないのだろう。それでも、首元から脚までジャージでしっかり覆われているのに、足先だけがむき出しというのは妙にアンバランスな光景だった。けれど、そのアンバランスさがかえって彼女の存在を際立たせているようにも見える。

ジャージの下に水着を着ていることは、もう想像するまでもない。なのに裸足でサンダルを履いているその姿は、どこか無防備で――それがまた、俺の心臓を大きく跳ねさせた。

(こんなの……反則だろ……)

心臓が早鐘のように打つ。

さっき更衣室で感じていた羞恥や緊張は、いつの間にかどこかへ消えていた。代わりに胸の奥に湧き上がってきたのは、目の前の彼女に対する純粋な驚きと、胸を締めつけるような強い感情だった。

不思議なことに、それは決して不快なものではない。むしろ、温かいものがじんわりと胸の中に広がっていくような、妙な心地よささえ感じていた。

芦川のジャージ姿は、確かに「危険」なくらい魅力的だった。

水着の上にジャージを着ているという事実が、かえってその下に隠れた身体のラインを想像させてしまう。かわいらしさ、美しさ、そして凛とした佇まい。それらすべてが、ジャージという何気ない衣服の中で、むしろくっきりと引き出されているように思えた。

芦川が壁にもたれていた姿勢から、わずかに身を起こしてこちらに向き直った。その動作ですらバスタオルが彼女の体の上でゆったりと揺れ動き、その柔らかな光沢が目に焼き付く。

「遅かったわね」

芦川は少し唇を尖らせて言った。でも怒っているわけじゃない。その証拠に、彼女の瞳は悪戯っぽく輝いている。彼女の声に我に返り、慌てて返事をする。自分の声が少し上ずってしまっているのを感じた。

「あ、いや……ちょっと手間取っちゃって」

嘘じゃない。実際、初めての水着姿を晒すことへの恐怖と戦うのに時間がかかった。水着を着るまでの緊張感は尋常ではなかった。

「そう。私も……少しね」

芦川はさらりと言って、肩に掛けた白色のストライプ入りバスタオルを軽く手で押さえる仕草をした。その指先が細くて白い。ああ、くそ……いちいち仕草が可愛い。

(たかがジャージなのに、どうしてここまでドキドキするとはなあ…)

俺の頭の中は混乱していた。臙脂色のジャージ上下。レモンイエローのスイムキャップ。裸足にサンダル。そして肩に掛けた白色にピンクのストライプの入ったバスタオル。この組み合わせが異常なほど似合っている。ジャージであっても、芦川がまとうとどこか優雅で、それでいてスポーツ選手の鋭さも感じさせる。女子らしい可愛らしさと元水泳部らしい凛々しさが両立した姿。まるで……まるで水泳の世界に君臨するお姫様みたいだ。いや、比喩でもなんでもなく、今この瞬間の芦川は、「プリンセス・スイマー」以外の何者でもなかった。

「……プリンセス・スイマー」

しまった。

心の中で唱えていたはずの言葉が、ぽろりと口からこぼれ落ちてしまった。脳が思考停止する。何を言ってるんだ俺は。意味不明すぎるだろ。しかも芦川本人の目の前で。

芦川は一瞬きょとんとした顔で俺を見つめた。大きな瞳がぱちくりと瞬きをする。次の瞬間、彼女の表情がわずかに変わった。眉間に皺が寄り、口元が少し歪む。ああ、終わった。完全に引かれた。変な奴認定された。芦川を前にすると、どうしてこう余計なことが口から出てしまうのだろう。

「……え、 どういうこと?」

案の定、芦川が怪訝そうな顔で尋ねてくる。当然の反応だ。俺は慌てて誤魔化そうとしたが、既に後の祭り。額に嫌な汗が滲む。

「あ、いや……その……別に深い意味はなくて……ほら、なんかさ! ジャージの着こなしが綺麗っていうか、しっかりしてるっていうか!」

苦し紛れに浮かんだ言葉を並べる。何が「綺麗」だ。何が「しっかりしてる」だ。自分でも分かるくらいに説得力がない。きっと、このあとすぐ、「何言ってるの?」とか「気持ち悪いんだけど」とか冷たく一蹴されるんだろう。

しかし、芦川の反応は予想外のものだった。

「……え…そ……そうかしら……」

困惑したように目を伏せたまま、それでもどこか嬉しそうに微笑む。照れているのか恥ずかしいのか、あるいは両方なのか。普段クールな印象の芦川が見せる、あまりにも無防備な表情だった。まるで褒められるのに慣れていない子供みたいだ。

(え?)

なんでそこで照れるんだよ。なんでちょっと嬉しそうなんだよ。ますます混乱してしまう。

「い、いや……だってさ……その……似合ってるし……なんか……すごく……」

しどろもどろになりながら言う俺。自分の語彙力のなさが恨めしい。もっと気の利いた表現ができればいいのに。

芦川は顔を伏せたまま、ぽつりと言った。

「……あ、ありがと」

それは、いつもの彼女の様子からは想像もつかないほどか細く、そして可愛らしい声音だった。

「……!!」

今度こそ完全に脳の処理能力を超えてしまった。ありがとう? 芦川が、俺に、礼を言った? しかもあの声色で? この世の奇跡としか思えない。あまりの衝撃に、言葉を失ってしまう。喉がカラカラに乾き、何も出てこない。ただ目の前の芦川の真っ赤になった横顔を食い入るように見つめるだけだ。白いタオルのストライプ模様が妙に目に焼き付く。

(ど、どうしちまったんだ……。ただの幼馴染なのに!)

心臓が激しく脈打つ。今にも破裂しそうだ。落ち着け、佐藤拓哉。相手はあの芦川だぞ。いくらジャージ姿が可愛くても、水着が似合いそうでも、プリンセスみたいでも……いや、だからプリンセスってなんだよ! ダメだ、思考がまとまらない。

「……」

俺は何も言えず、ただ芦川の横顔を見つめ続ける。彼女も俯いたまま、顔を上げようとしない。廊下に気まずい沈黙が流れる。しかし、それは今までの重苦しいものとは質が違っていた。どちらかと言えば……甘酸っぱいような。

(この空気、どうすればいいんだ……)

混乱したまま、とりあえずこの場を切り替えなくてはと思い、震える声で切り出した。

「い、行こうか……プール」

我ながら情けないほど弱々しい声だった。だがそれで精一杯だった。芦川は少し間を置いてから、こくりと小さく頷いた。まだ頬は紅潮したままだが、顔を上げて俺を見る。潤んだ瞳がキラキラとしていて、それもまた破壊的に愛らしい。

「……うん。行こう」

再びタオルをそっと肩に掛ける仕草をして、芦川は俺の横をすり抜けるように先に歩き始めた。歩き方は相変わらずシャープで美しい。臙脂色のジャージの背中と、その後ろで揺れるストライプの白タオルが妙に目に残った。

俺たちは並んで廊下を歩き出す。隣を歩くジャージ姿の芦川が信じられないほど眩しくて、まともに顔を見ることができない。先ほどまでとは違う種類の緊張感と、奇妙な高揚感が胸の中で渦巻いていた。いったいこれからどうなるんだろう。プールに行けばまた何かあるんだろうか。わからない。ただ今は、この隣にいる幼馴染の女の子から目が離せなくて、そして彼女のジャージの袖からちらりと覗く首筋が気になって仕方がないということしかわからなかった。

(俺、やっぱどうかしちゃってる……)

プールに向かう廊下を進みながら、俺は必死に心臓の鼓動を鎮めようと深呼吸を繰り返した。もちろん、全く効果はなかったけれど。


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