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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
三 胸騒ぎ
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それぞれの準備

ガラリと教室の扉が開き、中野先生が戻ってきた。濃い紺色のジャージの上下に空色のブラウスシャツを羽織っている。1時間目の座学の時と同じだ。肩にはスポーツバッグをかけている。結局、先生も水着には着替えなかったらしい。まあ、監督役だし、当然と言えば当然か。でも、何となく拍子抜けしたような、ちょっと期待外れなような、複雑な気持ちになったのは確かだ。先生の、あの健康的な体型とジャージのライン、それにブラウスの控えめな膨らみ……あれ? 俺は一体何を考えているんだ?

「お疲れ様でした。それでは皆さん、教科書等はこのまま机に置いていただいて構いません。今から荷物を持ってプール棟に向かいましょう」

先生の穏やかな指示の声を耳にして、俺は反射的に自分のグランドバッグに目をやる。そこには替えの下着やタオルなどが入った小さな袋がある。もちろん、水着はすでに下に着込んでいるが。ちらりと横目で芦川を見ると、彼女もまた自分の鞄を手に持ち、俺の方を一瞥してニヤリと笑った。まるで「お互い、変なところはないわよね?」と念押しするような、挑発的な笑みだった。俺はバツが悪くなり、慌てて視線を正面に戻す。

俺は努めて平静を装い、席を立った。教室にいた俺たち三人は、中野先生を先頭に、ゆっくりと廊下に出た。

「昨日は職員用の出入り口から逆から入ったのですが、今日は、生徒用の更衣室の側から行きますね」

教室を昨日と同じく塀の裏側の道を進む。春休み中の学校は、本当に人が少ない。時折、遠くから微かにボールを打つ音が聞こえてくるくらいだ。 先を行く先生の背中と、すぐ隣を歩く芦川の制服とジャージ姿が気になってしまう。先生の紺色のジャージのバックプリントや、芦川の臙脂色のジャージのライン、どちらも無意識に追ってしまっている自分がいる。特に、芦川が階段を降りるたびに、セーラー服の短い丈からチラリと覗く臙脂色のジャージの裾が、妙に眩しく感じられた。これも見納めなのかと思うと、なんだか名残惜しいような気もしてしまう。



 第二体育館の大きな入り口からわきに出たところに階段がある。俺たちはそこを降りて、地下へと続く廊下を進む。薄暗く冷たいコンクリートの壁が、外の春の陽気とは対照的に品やりとした空気を保っている。更衣室のあるエリアだ。

先生は男性用と女性用と表示された二つの扉を指し示した。

「お二人は、それぞれこちらの更衣室を使ってください。そこで一旦は、水着に着替えて、中にあるシャワーで体を洗ってもらいます。それから再びジャージを上に着て、スイムキャップを被り、タオルとゴーグルを持って、プールサイドに集合してください。いいですね?」

「え? ジャージを……着て集まるんですか?」

思わず聞き返してしまった。てっきり、水着一枚の格好でプールサイドに出てくるものだとばかり思っていた。俺の驚きの声に呼応するように、芦川も信じられないといった表情で先生を見つめていた。

「はい。そうですよ」

先生は涼しい顔で答える。

「今回の補習は、プールサイドでのトレーニングを中心に行います。だから必ずしも水着になる必要はありません。私は職員用更衣室で準備をしていますから。じゃあ、また、プールサイドで会いましょうね」

そう言うと、先生はヒラリと手を振って、奥の方へ歩いていく。颯爽としたそのジャージ姿が、曲がり角の向こうへ消えるまで、俺たちはしばらく黙って見送っていた。

先生の後ろ姿が見えなくなると同時に、深い沈黙が訪れた。肩透かし、という言葉が脳内で踊る。プールに来て、いきなり水着になれと言われたらどうしようかと思っていた。ましてや芦川と二人きりでなんて……。それが蓋を開けてみれば、水着の上にジャージ? 必ずしも泳がなくてもいい?

「……ねぇ」

その沈黙を破ったのは芦川だった。彼女は目の前の二つの更衣室の扉を見比べて、小さく息を吐く。その横顔には、困惑と、僅かながらの安堵が混じっているように見えた。俺も似たような心境だった。

「まさか、こう来るとはね……」

「ああ……」

俺は力なく頷く。

正直言って、拍子抜けした気持ちは大きい。芦川の水着姿は拝めそうにない。それは少し、ほんの少しだけ、残念な気がしないでもない。だって、そうだろ? 成長期を迎えた高校生の、しかも普段クールな芦川の水着姿なんて……どれだけギャップがあるか、気にならない男はいないだろう。しかも、俺は小学校までの芦川の水着姿しか知らない。だけど同時に、ホッとした気持ちの方が圧倒的に大きかった。

ほとんど裸体に近い自分の水着姿を同学年の女子の前に曝すのは恥ずかしいし、また彼女の水着姿を真正面から見て平常心でいられる自信もなかった。セーラー服にジャージでも充分に新鮮だったのだ。そんな芦川が水着になったら、どうなることか。もし万が一、いや億が一、俺の体の一部が反応してしまったら……と考えると、全身から血の気が引く思いだ。先生もいるのだ。そこであんな水着だけだったら、モロバレじゃないか……。それだけは何としても避けたい。

それに芦川のほうも泳ぐ心づもりはしてはいたが、それでもまだ葛藤のほうが大きかったのは明らかだ。先生の言葉を聞いた瞬間の彼女の表情……緊張がフッと解けるように弛緩した、あの安堵の表情を俺は見逃さなかった。

「……良かった、のかな」

俺がそう呟くと、芦川は少し驚いたように目を見開き、それからゆっくりと頷いた。

「……まぁね。多分、これが正解だと思う。佐藤も……そうでしょ?」

「ああ。正直、助かった」

俺たちは顔を見合わせて、小さく苦笑いを交わした。同じようなことを考えていたのが分かって、なんだかおかしかった。お互い、水着姿を見ることもされることも、想像以上にハードルが高いことを痛感させられたのだ。

「とりあえず、指示通りに着替えて、プールサイドに行ってみましょうか」

芦川が提案する。俺もそれに同意した。

「そうだな。何があるか分からないけど、とりあえず行ってみるしかないよな」

そして、それぞれの更衣室の前で立ち止まる。

「じゃあ、後で」

「うん。プールサイドで」

俺たちはそれぞれの更衣室に入っていった。


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