俺の秘密
「それでは、ここで休憩に入りましょう。2時間目からは、プールでの実習になります。昨日と同じく、そのまま、この教室で待っていてくださいね」
先生が教材をまとめて教室を出て行くと、俺と芦川だけが残された。春休みの校舎は閑散としていて、休憩時間とはいえ、他の生徒の気配もない。
「ふぅ……疲れたな」
俺は大きく息を吐き出し、椅子にもたれかかった。頭の中はまだ落ち着かない。先生の授業内容、芦川のジャージ姿、そしてこれから始まるプール実習――いろんなことがぐるぐると回っている。
向かいでは芦川が教科書を片付けていた。臙脂色のジャージに包まれた小さな肩が、彼女が腕を動かすたびにかすかに揺れる。
そのとき、ふっと彼女がこちらを見た。
「佐藤、さっきの授業中、全然集中できてなかったでしょ?」
くすっと笑いながら言う。
「え? いや、そんなことないよ!」
思わず身を起こして否定する。だが芦川は楽しそうに首を傾げた。
「だって、時々先生の方ばっかり見てたじゃない。それに、私のジャージもチラチラ見てたし」
「えっ」
「あと、自分のジャージも確認してたよね」
「マジで!? 俺そんなことしてたの!?」
思わず声が大きくなる。そんなこと無意識にやっていたのか。
「うん、バレバレ」
芦川は楽しそうに笑う。
「付き合い長いと分かるよ。佐藤って、ほんとにすぐに顔に出る」
その笑顔には、昔と変わらない気安さがあった。
「そ、そんなこと……」
言い訳しようとして、言葉が止まる。実際、思い当たる節がありすぎた。
「それにしても、佐藤がジャージ姿にあんなに目を向けるなんて意外」
川は机の上のノートを整えながら続けた。
「前から気づいてはいたんだけどね。特に私や先生のジャージを見るとき、なんか目つきが違うんだよね」
「ち、違うって?」
「うーん……」
芦川は少し考えてから、くすっと笑った。
「なんていうか、熱い感じ?」
「そ、そんなことないって!」
必死に否定する。けれど、芦川の言うとおりだ。二人のジャージ姿が妙に気になっているのも、つい目で追ってしまうのも事実だった。だが、それを素直に認めることはできない。
「ふふ、別にいいんじゃない?」
芦川は肩をすくめた。
「私も佐藤の学ランにジャージ姿、なかなか似合ってると思うけど」
「な……!」
思わぬ言葉に、体温が一気に上がる。
「特に学ランの袖口からのぞく青いリブなんて、男の子っぽいというか」
芦川はさらっと言う。臙脂色のジャージの襟元から、セーラー服の白い襟が少しのぞいていた。その下の白い首筋がふと目に入り、余計に落ち着かなくなる。ジャージと制服の組み合わせが、こんなにも人をドキドキさせるものだとは思わなかった。
「そ、そんなこと言って! また、からかってんだろ!」
思わず声が裏返る。芦川はくすくすと笑いながら、いたずらっぽく瞳を輝かせた。
「からかってないってば。ほんとのことだよ」
「……」
どう答えていいかわからない。俺がもじもじしているのを見て、芦川はさらに追い打ちをかけるように口を開いた。まさに、いたずら好きな少女の顔だ。
「それにしても、佐藤。今日はちょっとソワソワしすぎじゃない?」
「え? そ、そんなことないけど……」
すぐに否定するものの、明らかに嘘っぽい。芦川はそれを見透かしているように、楽しげに続けた。
「もしかして、私と二人きりだから緊張してるの? それとも……」
言葉を切って、芦川がじっと俺の顔を見つめた。何かを探るようで、それでいてどこか優しい眼差し。その視線に耐えきれなくなって、俺は慌てて話題を変えた。
「あー、いや、その……次の実習のこと考えちゃってさ。やっぱプールって、寒くないのかなって」
我ながら苦しすぎる言い訳だ。だが芦川は、意外にも素直にその話に乗ってきた。
「ああ、プールね。屋内だから温度管理はしてると思うけど……それでも水着になったら冷たいかもしれないわね」
芦川はそう言って、自分の腕をに両手を当てる。確かに、温水プールとはいえ肌を露出すれば空気が直接触れる。想像しただけで、少しだけゾクリとした。
「そういえばさ、佐藤って水着どうしてるの? ちゃんと持ってきてる?」
唐突な質問に、俺はドキリとした。
水着。もちろん持ってきている。というか――
「え? 持ってきてるけど……」
「だけど?」
芦川が探るように聞いてくる。俺はごくりと唾を飲み込んだ。
実は、もうすでに着用しているのだ。
この学ランと青いジャージの下に、体操服の半袖シャツと短パンを重ね、そのさらに下、一番肌に密着する形で競泳用の水着を履いている。紺色のシンプルなやつで、身体にぴったり張りつくタイプだ。
なぜそんなことをしているのか。理由はいくつかある。
まずは単純に、早く着替えられるようにするためだ。補習とはいえ、いちいち水着に着替えるのは面倒だ。最初から下に着ておけば、ジャージと短パンを脱ぐだけで済む。これは小学生の頃からの癖だった。プールの授業がある日は、男子はよくそうしていた。
それからもう一つ。あまり大きな声では言えないが、運動をするときは、ある程度体が締めつけられている方が気持ちが引き締まるというか、動きやすい気がするのだ。いわば簡単なコンプレッションウェアのようなものだ。
さらに、この習慣を続けているうちに気づいた副次的なこともある。体育の授業などで、例えば薄着の女子を見かけて、その……生理的に少し困るような場面があったとしても、体にぴったりした水着があれば、それを抑えやすい。健全な男子高校生としては、まあ必要な対策と言えるのかもしれない。
そんなわけで、今の俺は学ランと青いジャージの下に体操服、そのさらに下に競泳水着という三枚重ねの状態になっている。一番下の水着は身体の凹凸に沿うようにぴったり密着していて、常にそこにある感覚がはっきりと伝わってくる。もっとも、その感触は不快というより、どこか心強い。
ただ――もしこのことを芦川に知られたら、どんな顔をされるだろうか。
そんなことを一瞬だけ考えて、俺は慌てて頭を振った。
もちろん、そんな事情を芦川に正直に説明するわけにはいかなかった。
「ああ、まあ……大丈夫だよ。持ってきてるから」
なんとか言葉を濁す。しかし芦川は簡単には逃してくれない。
「本当に? ちゃんと忘れずに持ってきた? 昔みたいに泣きべそかいたりしてないでしょうね?」
芦川はニヤニヤしながら俺をからかう。くそっ、小さい頃の失敗を蒸し返してきやがって。確かに小学校低学年の頃、遠足を楽しみにしすぎて肝心の遠足セットを家に忘れ、泣きじゃくったことはあるが……水着を忘れた覚えはないぞ。
「う、うるせーな! ちゃんと持ってきてるっつーの!」
強がってみせるが、芦川はすぐに畳み掛けてきた。
「じゃあ、ちょっと見せてよ。ほら、カバンに入ってるんでしょ?」
俺のバッグを指差して催促してくる。思わず冷や汗が出そうになった。カバンの中には水着なんて入っていない。もう着てしまっているのだから。
「え……いや、それは……ちょっと、プライバシーっていうか……」
歯切れの悪い返事をすると、芦川は怪訝そうに眉をひそめた。
「プライバシー? なんでよ。友達でしょう? ……どうせあとで着替えるんだから」
「え? 隠すって……そんなことあるはずないだろ」
言葉とは裏腹に、俺の目は泳いでしまう。その瞬間、芦川の目がキラリと光った。
「ふぅん。それじゃあ、ここに出してみて」
芦川はニヤリと意地悪く笑い、綺麗な眉をひょいと上げた。机越しに身を乗り出し、俺の膝のあたりへ視線を落とす。
臙脂色のジャージに包まれた細い腕が机にかかる。制服の上着の裾から、ファスナーを上まで上げたジャージの襟元がのぞいていた。その隙間から、滑らかな白い首筋がちらりと見える。妙に目に入ってしまい、俺は反射的に視線を逸らした。
「何を焦ってるの? 水着ちゃんと準備できてないなら、取りに帰ったほうがいいんじゃない?」
芦川は弱みを見つけた子どものように楽しそうだ。
「ち、違うんだよ。その……えっと……」
うまく説明できない。完全に袋小路だ。
「……もしかして、佐藤」
芦川が意味ありげに言った。
「う、うん……?」
「もう着てるの? 下に?」
核心を突かれ、俺はピシリと硬直した。
芦川はくすっと笑う。
「さっきから変に隠そうとしてるし、カバン軽そうだし。それに――」
彼女は俺のジャージの腰のあたりをちらりと見た。
「なんか、シルエットもちょっと違う気がする」
完全に見抜かれている。
「……なんでそんなに鋭いんだよ」
負け惜しみのように呟くのが精一杯だった。




