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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
三 胸騒ぎ
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体の動きと頭の中と

チャイムが鳴り止むのとほぼ同時に、教室の前方の扉が滑らかに開いた。そこから姿を現したのは、もちろん中野先生だ。今日も変わらず濃い紺色のジャージ上下に、今日は空色のゆったりしたブラウスを重ねている。

「皆さん、おはようございます」

いつもの穏やかな声で挨拶する。俺たちは立ち上がってそれに応えた。昨日と同じような服装なのに、今日はなぜか少し違って見える。ブラウスの袖口からちらりと覗くジャージの紺色が、妙に印象に残った。きっとこれが大人の女性の着こなしというものなのだろう。

「さて、本日の予定ですが、最初の一時間は昨日と同じく座学を行います。その後、二時間目からプールでの実習となります」

先生は教科書を開きながら続けた。

「では、早速一時間目を始めましょう。今日は『水泳時の体の動きと抵抗』について説明しますね」


「佐藤くんと芦川さんは、体が水の中に入るときの感触を思い出してください。水中では空気中よりも体が重く感じられますね? それはなぜだと思いますか?」

俺と芦川は顔を見合わせる。俺は「考えたこともない」という顔をした。

「それは水の密度と粘性によるものです」

 中野先生はチョークで黒板に図を描き始めた。

「水の密度は空気の約八百倍。だから体には大きな圧力がかかります。さらに水には粘性があるので、水を押し分けて進むときに抵抗が生まれます」

先生の説明は滑らかで分かりやすい。……とはいえ、正直なところ、俺は半分くらいしか理解できていない。

一方で芦川は真剣な表情で黒板を見つめている。時折小さくうなずき、ノートに何かを書き込む。髪がさらりと揺れるたび、俺の視線はついそちらに引き寄せられた。臙脂色のジャージに包まれた肩のライン。セーラー服の襟元からわずかに見えるファスナー。

(ああ、ダメだ。集中しろ!)

俺は頭を軽く振った。

「……と、このような原理で、クロールは腕の回転と水の抵抗を利用して前進します。理解できましたか?」

「ええ……なんとか」

俺は曖昧に答える。

「はい。すごくよく分かります」

芦川は迷いなくうなずいた。元水泳部だけあって、こういう理屈には強いのかもしれない。

「では次に『水泳時の呼吸法と心拍数の関係』について解説しますね」

授業は淡々と進んでいく。しかし俺の頭の中は、授業内容よりも別のことでいっぱいだった。

中野先生が黒板に書く整った文字。川がメモを取るときの小さな仕草。

そして――二人ともジャージを着ているという事実。

中野先生は紺色のジャージにブラウス。芦川は臙脂色のジャージにセーラー服。異なる組み合わせなのに、どちらも妙に似合っているその色の対比が、なぜか目に新鮮だった。

俺は自分の学ランの下の青いジャージをそっと触っていた。

「つまりですね、水泳時の息継ぎは、単に酸素を吸うだけではありません。心臓への負担を軽減し、筋肉への血液供給を促進する効果もあるんです」

中野先生の声が教室に静かに響く。チョークを持つ手つきは丁寧で、黒板に描かれる図形は正確だった。

ブラウスの袖口から、ときおり紺色のジャージの袖がのぞく。ファスナーはいつも通り首元まできちんと上げられていて、襟元から少しだけ見えていた。それが先生らしい、きちんとした着こなしだった。

俺はその光景に目を奪われながらも、なんとか説明に耳を傾ける。水の抵抗、浮力、バタ足の力学的効果――どれも頭の中でうまくつながらない。まるで物理の授業みたいだ。

「特に初心者が陥りがちなのは、息継ぎのタイミングが遅すぎるか早すぎること。これによって姿勢が崩れてしまい、余計なエネルギーを使う結果になります。水中では常にバランスを保つことが大切なんです」

先生の説明は続く。

ふと芦川の方を見ると、彼女は真剣な表情でメモを取りながら小さくうなずいていた。セーラー服の襟元から、臙脂色のジャージの襟がのぞいている。その色合いが紺のセーラー服と妙に映えていた。

「このグラフを見てください。水泳時の心拍数の変化を示しています。一番左は静止状態。ここから水中で運動が始まると――」

先生は黒板の曲線を指でなぞる。

長い指先と、きれいに整えられた爪。その動作ひとつひとつが、どこか洗練されて見えた。

「クロールは全身運動ですから、当然心拍数は上がります。しかし適切な呼吸法と、身体のリラックスを意識すれば、このピーク値を抑えることができるんですよ」

落ち着いた声が続く。

だが俺の頭の中は、もう別のことでいっぱいだった。

(この授業が終わったら……ついにプール実習か)

水着に着替えた芦川の姿を想像すると、胸が少しざわつく。

高校で再会した彼女は、前より背も伸びて、体つきも大人びてきている。中学では水泳部で活躍していたらしいし、体育でも動きはかなりいい。

そんな彼女が水着姿になれば――。

そして、もう一人。

中野先生はどうするのだろう。

今は紺のジャージに空色のブラウスという落ち着いた格好だが、実習のときもこのままなのか。それとも……。体育教師なのだから、当然泳げるはずだ。水泳の理屈も、ここまで詳しく説明できるのだから。普段はジャージとブラウス姿しか見ていないが――その落ち着いた先生が、水の中ではどんな泳ぎを見せるのか。

少しだけ、気になった。

「佐藤くん? 今の説明、ちょっと難しかったかしら?」

突然名前を呼ばれて我に返った。顔を上げると、先生が優しい笑顔でこちらを見ている。

「……い、いえ! 理解できました!」

慌てて答えると、先生は満足そうにうなずいた。

「それは良かった。では次に『水泳時の姿勢とエネルギー効率』について説明しますね」

隣で、芦川が小さくクスッと笑った気配がした。……やっぱりバレているかもしれない。俺が全然集中していないことが。

芦川の顔を見ないように視線を逸らす。すると今度は、黒板の前に立つ先生の後ろ姿が目に入った。

紺色のジャージ越しに、緩やかな腰のラインと長い脚がうっすら分かる。

首元まできちんと上げられたファスナー。

まただ。

気がつくと、俺の視線は先生のジャージに向かってしまう。

(……落ち着け、俺)

この授業が終われば、次はプール実習だ。水着に着替えた芦川。

そして――中野先生。

普段はブラウスにジャージという落ち着いた格好だが、水の中ではどうなるのだろう。きっと先生のことだから、派手なものではなく、シンプルな水着を選びそうな気がする。

……絶対に似合うだろう。

そして芦川は元水泳部だ。競泳用の水着にも慣れているはずだ。臙脂色のジャージみたいな深い赤か、

それとも――

(……って、待て)

そこまで考えて、俺はようやく重大な事実に気づいた。

俺も水着になるんだった。

しかも男子はブーメランタイプ。

(終わった)

幼馴染の女子と、きれいな先生の前で、俺はあの布面積の少ない水着一枚になる。

(これ……拷問じゃないか?)

なんなら、このまま座学が続いてくれた方が平和かもしれない。そんなことを考えている間も、授業は進んでいた。

「このように体のラインを意識した姿勢を保つことで、水の抵抗を最小限に抑え、より効率的に泳ぐことができるのです」

先生の声が淡々と続く。芦川は真剣な表情でノートを取り続けている。臙脂色のジャージ。首元まできっちり閉めたファスナー。そして先生は紺色のジャージにブラウス。その対照的な色合いが、なぜか妙に印象に残った。

俺は学ランの下に着ている青いジャージの裾をそっと触る。

(この格好……落ち着くんだよな)

ジャージというのは不思議だ。制服よりも、私服よりも、妙に安心感がある。体のラインも出ないし、気楽だ。

(もうこのまま――)

「本日の座学はここまでにしましょう」

ちょうどチャイムが鳴ったところだった。中野先生がチョークを置きながら振り返る。


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