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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
三 胸騒ぎ
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榊原先生と中野先生と

教室に入ると、既に芦川が席に座っていた。机に頬杖をつきながら外の景色をぼんやりと眺めている。その横顔は、なんだかいつもよりも大人びて見えた。

「よっ、おはよう」

俺が声をかけると、芦川はハッとしたように顔を上げた。

「あ、佐藤。おはよ。早いわね」

「お互い様だろ」

俺は自分の席、つまり芦川の隣の席に腰を下ろした。鞄から教科書や筆箱を取り出していると、芦川がこっちを見てクスリと笑った。

「なに笑ってんだよ」

「ううん、別に。ただ、こうして佐藤と補習してるの、なんだか面白いなあって」

「面白いってなんだよ。こっちは真面目に来てるんだぞ」

俺は軽く反論しながら、自分の席に鞄を置いた。机の上で筆箱を取り出す。芦川はそんな俺の動きを目で追いながら、また小さく笑った。

「ふふ、わかってるわよ。でもさ、なんかこう……普通の授業じゃなくて補習だし、しかも私と佐藤と二人だけでしょ? 変な感じしない?」

芦川は頬杖をついたまま、首を傾げる仕草をした。その拍子に、ファスナーをしっかりと首元まで閉じた臙脂色のジャージの襟元が、セーラー服の黒い襟からぴょこんと覗いた。昨日も見た光景だが、今日もやはり、そのアンバランスさが妙に目に焼き付く。セーラー服特有のきっちりとした襟と、ジャージの柔らかな生地にファスナータイプの襟。芦川の華奢な首筋が、その間にきれいに収まっている。臙脂色のジャージは、体育の授業などで見慣れているものなのに、こうしてセーラー服と組み合わせられると、なんだか特別な感じがする。ましてや、芦川の場合だとなおさらだ。

「まあ、確かに変っちゃ変だけど……」

俺は言いながら、ちらりと芦川の全身に目を走らせてしまった。臙脂色のジャージのズボンのサイドに入った白い二本ラインが、彼女の細い脚によく映えている。普段、制服や私服姿ばかり見ているせいか、ジャージ姿の芦川は新鮮で、つい見てしまう自分がいる。決しておかしな意味じゃない。そう、断じて。

鋭い芦川の声が飛んできた。しまった、バレた。

「別にジロジロなんか見てねえよ」

俺は慌てて否定するが、明らかに挙動不審だったと思う。芦川は疑わしげな目で俺を見つめている。

「……まあいいわ。佐藤の考えることは昔からだいたいわかるしね」

芦川は肩をすくめて、ぷいと窓の外に視線を移した。少しだけ赤くなった耳朶が、窓から差し込む朝日に照らされて見えた気がした。誤魔化したつもりか。

気まずい沈黙が流れる。俺は話題を変えようと、さっきの榊原先生の一件を切り出してみた。

「なぁ、さっきさ、榊原先生に会ったんだけど」

俺がそう言っても芦川は特に驚いた様子もなく、窓の外に向けていた視線をゆっくりと俺に戻した。

「へぇ、榊原先生に? 罰として校庭でランニングでもさせられてたの?」

「まさか。挨拶しただけだよ。それで、『芦川のこと、ちゃんと面倒みてやってくれよな』なんて言われた」

芦川は一瞬きょとんとした表情を見せたあと、クスッと小さく笑った。その笑い方は、まるで猫が喉をゴロゴロ鳴らすような、甘えたような響きを持っていた。まんざらでもない、といった感じだ。

「面倒をみるって……私が佐藤に面倒をみてもらう必要あるわけ?」

やはりそう言うと思った。挑発的な口調だけど、その目はどこか楽しげだ。

「いや、俺も逆じゃないかな、と思ったんだけどな……」

「まぁ、榊原先生らしいわね。ぶっきらぼうなようで、けっこう気を配ってくれている人だから」

芦川の声には、確固たる信頼感が込められていた。普段のクールな印象とは少し違い、親愛の情さえ感じる。

「へぇ……。意外だな。お前が『鬼のサカキ』をそんな風に評価するなんて」

俺が率直な感想を漏らすと、芦川は肩をすくめてみせた。

「人は見かけによらないものよ。特に、榊原先生はね」

芦川はそこで一旦言葉を区切ると、少し考えるような素振りを見せた。そして、ふと思い出したかのように口を開いた。

「ねぇ佐藤、知ってる? 中野先生と榊原先生のこと」

「中野先生と榊原先生? 別に詳しく知らないけど……同じ体育教師だよな」

俺が首を捻ると、芦川は悪戯っぽく笑った。

「中野先生、実は榊原先生の高校・大学の後輩なんだって」

「えっ!?」

思わず声が大きくなる。あの柔和な中野先生と、豪快でおっかない榊原先生が、先輩後輩の関係だなんて、想像もつかなかった。

「本当かよ……」

「本当よ。榊原先生から直接聞いたもの。私も最初、信じられなかったけどね」

芦川は楽しそうに続ける。

「ただね、みんなそそうと知ると、中野先生に同情するのよ。『榊原先生があんなに厳しいから、後輩の中野先生も気を使わなきゃならないんじゃないか』とか、『榊原先生のせいで、中野先生があんなに大人しい性格になったんだ』とかって。さすがの榊原先生も、何でそうなるんだって嘆いていたわ」

俺は思わず吹き出しそうになるのをこらえた。確かに、傍から見れば「鬼のサカキ」の影に隠れている可哀想な後輩、という構図になりやすいのかもしれない。

「ああ、なるほどね。わかる気がする。榊原先生はなんてったって『鬼』のイメージだもんな」

芦川は頷き、少し声のトーンを落とした。まるで秘密を打ち明けるように。

「でも、本人たちはそういう関係じゃないのよ。榊原先生に言わせれば、中野先生は元からああいう性格で、芯は強いし、呑み込みが早いし、むしろ教えられることのほうが多かったって。今回の補習も、榊原先生が中野先生にわざわざお願いしたのよ。『中野先生のほうが適していると思ってな』と言っていたわ。中野先生のほうは『3学期は3年生の授業がなくて退屈していたところだから、とても嬉しいです』と快く引き受けてくれたけど、榊原先生『また中野先生に仕事押し付けたと、職員室で言われるんだろうな~』と、ため息もついていたわ」

芦川の口調は軽いが、その言葉の端々に、榊原先生と中野先生、そして芦川自身の関係性が垣間見えた気がした。榊原先生と中野先生は、同じ体育教師でも両極端なタイプに見えるが、お互いに尊敬し尊重し合っているのかもしれない。そして芦川は、榊原先生とそうした個人的な話をするほどには信頼関係を築いているということだ。

「なんだか意外だな。榊原先生がそんな繊細な気配りをするなんて」

俺が言うと、芦川はクスリと笑って肩をすくめた。

「だから言ったでしょう? 人は見かけによらないって。榊原先生はあれで意外と優しいのよ。面倒見がいいというか……ただ、表現方法がぶっきらぼうなだけ」

芦川の言葉には確かな重みがあった。まるで、榊原先生のその一面をずっと見てきたかのような。

「そう聞くと、なんかすごい人たちなんだなって思うよ。中野先生も榊原先生も。芦川もだけどな」

俺は素直に感心した。

「私は普通よ」

芦川はそう言って笑ったが、その表情はどこか誇らしげに見えた。

「あ、そういえば、榊原先生から水泳の補習の説明を受けた時、佐藤のことも話題に出たんだけど」

「え? 俺のこと?」

突然の矛先に、思わず身を乗り出した。

「なんて言ってたんだ?」

芦川は勿体ぶるように少し間を置いてから、芝居がかった声で榊原先生の口調を真似た。

「『もし、佐藤が余計なことをしたら、すぐにあたしに伝えろ。すぐに行って締め上げてやるから』だって」

「おいおい、勘弁してくれよ!」

思わず頭を抱えた。あの「鬼のサカキ」に睨まれたら、冗談抜きで命が危ない。

「もう、佐藤ったら、すぐ怖がるものだから。でも、それだけ榊原先生が、あんたのことも気にかけてくれているっていうことよ」

芦川は楽しそうに笑っている。その笑い方が、小学生の頃、一緒に遊んでいた時の屈託のない笑顔と重なって見えた。懐かしい気持ちと同時に、胸の奥がキュッと熱くなる。

「気にかけてくれてるなら、むしろ水泳の補習なんて免除してほしいところなんだけどな」

俺が愚痴ると、芦川は呆れたように肩をすくめた。

「ダメよ。ちゃんと卒業のために必要なことなんだから、文句言わずに頑張りなさいよ」

その時、キーンコーンカーンコーン、と乾いたチャイムの音が校内に響き渡った。一日の始まりを告げる音。春休みの校舎とはいえ、チャイムが鳴ると否応なしに学生モードに切り替わる。

「あ、もう1限目が始まるわ」

芦川はピシッと背筋を伸ばし、鞄からテキストを取り出した。その動作ひとつとっても、真面目な性格がにじみ出ている。俺も慌ててペンケースを開けた。

「さて、今日も頑張りますか」

「ええ、そうしましょう」

互いに顔を見合わせ、小さく頷き合った。補習3日目。今日も波乱万丈なのかもしれないし、案外あっさり終わってしまうのかもしれない。どっちにしろ、こうして芦川と共に過ごせる時間が続くのは悪くない。


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